162_原理

・原理~げんり~①物事の根本にあって、それを成り立たせている基本的な理論・法則。認識や行為のもとになる理論。
(用例)アルキメデスの理論。
②多くの人がそれに従うことを求められる基本的な考え方。
(用例)多数決の原理。

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原理。

以下では、上記の①の意味で用いる。

今まで、主に五井先生の著作から学んだことを元にして、これを敷衍・拡張する形で、霊性のこと、輪廻転生のことなどについて書いてきた。

今になってみると、その大元というか、私なりに解釈し直した原理というか、全体像を、これといってはっきりとは書いていなかったと思うので、ここに記(しる)しておこうと思う(あくまでも憶測と仮説の域は出ないが)。

今まで書いてきたことと多分に重なる部分もあるが、お許し頂きたい。

まず、私達は肉体人間観という肉体人間観に縛られて生きている。

ほとんどすべての人が、人間=肉体人間だ、と思って生きているのだ。

しかし、霊的な視点からすると、人間とは神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)、すなわち、霊なる人間こそが本当の人間である(おそらく、量子力学からしてもそうだろう)。

神様の分霊としての人間、すなわち、神体としての人間ならば、真善美に悖らず完全円満(もちろん、超健康)で、見目麗しく、愛に満ちた存在である。

従って、この霊なる人間がそのままに肉体に反映されて、素直にこの世にあらわれていれば、神体と同じように、肉体人間でありながらも、真善美に悖らず完全円満で、見目麗しく、愛に満ちた存在であるはずである。

しかし、実際には、そうなってはいない。

むしろ、ほど遠い状態となっているのが実情だ。

これはなぜかというと、神様が、この地球さんという物質世界を神様の世界と同じように、つまり、神様の世界を映し出した地上天国になるように開発するために、便宜上必要なものとして、誕生させた肉体をまとった人間に、自己保存の本能を持たせたから。

自己保存の本能を肉体とともに与えられた霊なる人間は、どうしても自らを中心とした利害得失を計算して功利を最大化させることを考える、利己主義(エゴイズム)に走る人間に次第に陥るようになっていく。

分霊である肉体人間の魂(霊魂魄。れいこんぱく)は、輪廻転生という生まれ変わり・死に変わりを通して、何回も何回も肉体をまとって肉体人間としてこの世にあらわれる。

生まれ変わり・死に変わりを、何回も何回も繰り返して、この世にあらわれ続けることになる。

輪廻転生の上がりとなるまでは。

だから、輪廻転生を繰り返すと、ほとんどすべての人は、真善美に悖らず、完全円満で、愛に満ちた存在とは次第に離れて、利己主義に満ちた、真善美に悖り、愛にそむいた行いをするといったように、本来のあるべき神体を映した形とはかけ離れた存在になっていってしまうのだ。

しかし、上記のように、神様の青写真で描かれる最終的に完成されるはずの肉体人間は、真善美に悖らず完全円満で、愛に満ちた存在、つまり、神体そのまま、神様の分霊をそのまま反映した人間だと、考えることができる。

この世での、肉体人間の命が、神体のように永遠の命とならないのも、やはり、神様のおはからいだと考えられる。

肉体人間の寿命を原則として数十年と短く区切り、何回も何回も生まれ変わり・死に変わりを繰り返すなかで、このようなあるべき神体から離れてしまう肉体人間のこの世でのあり方を、何度も何度も矯正しながら、徐々に徐々に、「分霊という霊なる人間がきっちりと反映された肉体人間という完成形」に近づけていく仕組みになっていると考えられるのだ。

もちろん、周辺環境となる、地球さんの開発と同時並行して。

従って、この世で、我欲を貪る利己主義にもとづいた、真善美に悖り、愛にそむいた想いと行いをすると、それは原則として、輪廻転生を通して、本来のあるべき神体を映した肉体人間にふさわしくないものとして、すべてなかったものとして、打ち消す、清算するようになっていると考えられるのである。

身勝手に他人を殴ったら、輪廻転生を通して、(同じく輪廻転生を通してこの世に生まれ変わった)その殴った相手に否応なしに殴り返され、
身勝手に浮気をしたら、同じく輪廻転生を通して、(同じく輪廻転生を通してこの世に生まれ変わった)浮気をした相手に、浮気をやり返される、
という形で
各自が過去世において為(な)した
真善美に悖る想いと行いの業想念を
輪廻転生という
世を隔てる形で
清算をしていくようになっている。

つまり、想いと行いの相手方がある場合には、輪廻転生という時空間をこえて、主客転倒する形で、収支決算の帳尻を合わせるようになっているのである。

この収支決算という関係性は、私が ( おぶなより ) でも、ここ ( おぶなより2 ) でもたびたびゴブチ(傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む))としておいたものにも、応用して当てはめて考えることが可能だ(ただし、その報いは思いもよらないほど、とんでもなく重いものとなって返ってくる)。

本来、
神体の映し身として完全円満、
すなわち、
誰もが
それぞれに個性を持ちながらも
美しく健康でなければならないはずのところが、
肉体人間となって
輪廻転生を通して様々に積み重ねた
真善美に悖る想いと行いの
業想念を償うために、
あたかも、失地のように
容姿といった外見などを落とし、
あるいは、
病気や争いや貧乏を味わい、
苦労などをするという、
神体そままの映し身としての肉体人間ならば、
あるはずのない不完全な状態として、
この世にあらわれてくることになる。

ただし、肉体人間として、この世で生じさせてしまった業想念のすべてを償うのは、当人にとって負担が大きすぎることになるので、守護の神霊さんがその裁量の範囲内で、こうした業想念がこの世で具現化する前に、浄めて消す形で、人間を守って下さっている。

こうすることで、
利己主義に走った
肉体人間としての神性に悖る生き方を、
輪廻転生を通して、
次第、次第に矯正していき、
磨きあげていく。

つまり、
今生で、
神体を映し出した人間としてふさわしくない想いと行いをするたびに、
輪廻転生を通して、
来世以降にその償いとしての
病・争・貧・苦などを受け入れ、
本来のあるべき姿に近づけていくように
矯正を繰り返すのである。

そうして、
この世に肉体人間としてあらわれてくる、
その本体としての霊魂魄についた魂の汚れを祓い浄めることで、
霊魂魄を立派なものに仕上げていく。

輪廻転生を通す、
すなわち、
生まれ変わり・死に変わりを通すと、
(原則として)その都度、その都度、
過去世の記憶を消し去られてしまうのも、
こうした輪廻転生を通した
真善美に悖る想いと行いの業想念という、
いわば借金がなくても、
そもそも、こうした業想念は、
神体を映した人間としては、
ふさわしくないものなのだよ、
やってはならないことなのだよ、
ということを、
肉体という身を持って味わわされることで、
みっちりと霊魂魄の学習をさせられる
仕組みの一環となっているのではないか、
と考えられるのだ。

神体からすれば、
本来の自由自在さから離れて不自由で、
肉体としての寿命も限られ、
過去世の記憶も消された上で、
この世に起きてくること、
すなわち、
次第に衰え、傷つき、
つまり、
病・争・貧・苦を味わう肉体を持ちながら、
不条理を味わわされることによって、
霊魂魄としての学習をさせられていく仕組みになっているのではないか、
と。

こうして、すべての人を磨きあげて、完成に近づけていけば、自ずとこの世も浄化されて、地上天国に近づけていくことができる、と考えられる訳。

ただし、あまりにも厳しいこの世を鑑みると、何とも言えない気持ちになるんですよねえ。

やはり、おそらく私達のほとんどが、わが身大事で利己主義に生きる考えを抜きがたく持っている、めいめいが五感にもとづく欲望にまみれた唯物論全盛のこの世では・・・。

とにかく、世界平和の祈りをできるだけして頂くしかありませんね。

(追記)
なお、上記では、話を単純化するために、たくさんの過去世の継承や蓄積(積み重ね)などは省いている。

過去世の因縁を果たすといっても、世代を何代も飛ばしたり、国籍や時代状況が変わることもあるようなので、これも含めて書くと、話がさらにゴチャゴチャとなってしまうからだ。

同様に、魂(霊魂魄)の分割と結合についても細かい話は省いている。

この点は、ご承知置き頂きたい。

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・敷衍~ふえん~意味のわかりにくい所を、やさしく言い換えたり、言葉を加えたりして詳しく説明すること。
(用例)敷衍して説明を行う。

・悖る~もとる~道理にそむく。反する。
(用例)理に悖る。人の道に悖る行為。

・祓う~はらう~神に祈って、罪・けがれ・災いなどを除く。

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( 109_愛とは2 - おぶなより2 ) に原理のさらに元となる概要を書いておいたので、ここにも引用しておきます。

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つまり、こういうことなんです。

神様が私達、肉体人間に施して下さるのは、愛しかない。

すべてのありとあらゆる元をつくり、お与え下さっているのは、神様である。

神様としか考えられない。

その愛は、具体的には、以下のような形にあらわれている。

肉体を生かす、命そのものの神霊も、神様から分け与えられた神様のお命そのものであり、

肉体をはじめとする、魂魄要素を構成するあらゆるものも、神様がお与えになったものであり、

そうした私達、肉体人間を生かしていくための、(守護の神霊さんをも含めた)ありとあらゆる環境は神様がお与えになったものである。

すなわち、あらゆるものは、神様が愛をもって施しているものである。

私達ができることは、こうした神様から与えられているあらゆる要素を生かして(=神様のお命を分け与えられているから一般的な動物や植物とは異なり、知恵と創造力がある)、創意工夫を施し、生きていくこと。

そして、なぜ、こうして生かされているかに、つまり、神様のみ心に思いを馳(は)せて、生きていくことになるんです。

だから、まずは、あらゆることに感謝一念を基底に据えて、生きていくこと。

これが私達の生き方の基本になるはずです。

これを成し遂げることができていた、立派な信仰者の先達が、妙好人、中でも、源左さん、才市さん、宇右衛門さんだと言える訳です。

この世の物質世界、肉体世界を生きていく都合上、自己保存の本能が神霊に追加されて付与されたために、これを克服しながら神様のみ心に沿って生きていくのは、大変な修行にはなるけれど、輪廻転生を通して、魂(霊魂魄)を立派に磨き上げて、そうした神様のみ心に沿えるような、神霊そのものをあらわした肉体人間に近づけるように努力して生きていく。

おそらく、これが神様が私達、肉体人間に望まれていることだと、考えられるのです。

そうした、神様がお望みになると考えられる、人間像が完成に近づけるようになってくれば、同時並行という形で地球環境も開発され、素晴らしいものとして、整えられていく(おそらく、それを支えるために守護の神霊さんが力を尽くされることになる)。

つまり、神様の世界をこの物質の地球世界に映し出す、地上天国化の成就に向けて近づいていく、と考えられるのです。

輪廻転生、すなわち、過去世も、今生も、来世以降も、すべてはこうした観点からとらえていくべきだ、ということになるんです。

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