110_心構え

このブログ ( おぶなより2 ) は、 ( おぶなより ) にも増して、さらなる超場末のサイトではあるが、それでも、あえて記しておきたい。

それは、私のようなアクセスの少ないブログを書く場合の心構えについて。

なお、私は今生(今回の人生)での欲得のことは書かない。強いて欲得というのなら、それは来世以降のものとなる。

そして、真の目標はそうした欲得さえも取り払って、自分の神性との真摯な対話をしながら、精進していくこと。

そうした内容を書く。

もしも、私のようにブログを開設しながらも、アクセスが少なく、これからのブログのあり方をどうしようか考えたり、迷っている方が、この文章にたどり着いて下さり、読んで下されば、幸いである。

私としては、これに勝る喜びはない。

ブログを書くことの心構え、それも、アクセスの少ない(というかほとんどない)ブログを書くに当たっての心構えを一言でいうと、「 自分の持てる力のすべてを出し切る 」ということ。

( おぶなより ) でも、この ( おぶなより2 ) でも何回か書いてきたが、この世に生を受けるのは、実は稀少なことであり、それなりの意義がある、ありがたいことなのだ(これについては仏教を含めて、何回か触れてきたので詳細は省く)。(*1)

しかも、こうしてブログという媒体にかかわったのも、何らかの過去世の因縁があった(=過去世の生き方の中に、今生でブログを書くことになる原因となる想いと行いが含まれていた)から、ということになる。

そして、私達は神様に生かされている上に、(原則として)未来に起きてくることや、自らの寿命がいつ尽きることになるのかはわからない。

だからこそ、この縁がある貴重な機会を、たとえ過去世の因縁などにより、将来ブログをやめることになったとしても、今この時を、精一杯、活かしておく必要があると思うのだ。

せっかく、与えられている命と能力を、その限られた能力の範囲内ではあるが、活かしておくに越したことはないはずである。

それには、励みにはなるかもしれないが、ブログへのアクセスなどの反応に一喜一憂していると、どうしても、書くことに対する集中力が乱れやすくなる。

もちろん、反応に感謝することは、構わないし、すべきなのだが、ほどほどにしておくべきだと思うのだ。

そうした訳で、アクセスの多寡(はてなさんのブログなら読者登録の多寡も含まれるだろう)は、できるだけ気にしないようにする。(*2)

アクセスなどを、なるべくチェックしないようにすればいいだけだ。

かわいいわが子である、わが身の分身の一部をあらわす文章を、気にしないのも難しいことではあるが、できるだけ強い意志を持って、アクセスチェックを控える。

つまり、他人様からの評価は、ひとまず、忘れるように心がけるのだ。

そして。

ブログにアクセスをして読んで下さる方も、もれなく肉体人間だ。

当たり前だけどね。

だから、その本質は、神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)だ。

つまり、神様だ。

そして、自分も同じく肉体人間だから、同じく、神様の分けられたお命を頂いている神様の子供に他ならない。

よって、いくら自己保存の本能により、自分中心の利己的な生き方の誘惑に駆られても、本来ならばその想いと行い、すなわち、物事を為すにあたっては、気高く全力を尽くすべきものと言える。

ブログの場合なら、ありがたくもこうして場を与えられている以上は、書き手として誠心誠意を尽くし、全力を出し切ることが理想になる。

そして、読んで下さる方もまたその本質が神様の分けられたお命を本体とする者であり、書き手としての自分とは、ともに神様の子供として、兄弟姉妹にあたる者である。

つまり、読者も神様となるのであるから、敬意を持って、読者に対して、自らの全力を尽くすことが当然ということになる。

要するに、書き手も読み手も、肉体人間であるから、その本質は神様である。

まずは、書き手の方から見た場合に、主体として創作(=作文)に力を尽くすことが当然となる。

これはわかりますよね?

そして、読み手に対しては、作文を読んで頂くのであるから、これは、自分が神様から頂いているお命を、いかに精一杯活かして作文に勤しんだかの成果を示す、いわば、読み手としての神様に対する献上品に相当するとさえ言えるものになるんですよ。

突き詰めて考えると、このようになってくるんです。

それゆえに、あらんかぎりの礼を尽くし、少しでも良いものを読んで頂くために、力を尽くすのも当然ということになる。

従って。

たとえ、アクセスがまったくなくても、読んで頂ける可能性がある以上は、上記のような心構えを持つことが望ましいことになるのである。

それと、こうした気高いあり方に関連して、どうしてもお願いしておきたいことがある。

上記のように自らが神様のお命を頂く者として誠意を尽くした、同じく神様のお命を頂く読者に差し上げる大切な献上品ともいうべき作文を読んで頂くためには、当然に求められてくる内容だ。

必須の要件なのだ。

それは、羊頭狗肉の見出しを用いないことと、物欲しそうな釣り見出しを用いないこと。

そして、スカスカの内容にしないこと。

羊頭狗肉の見出しを用いたり、○○といった伏せ字混じりなどの物欲しそうな見出しを用いたり、さらには、肝心の文章の中身がまったく伴っていなければ、詐欺のように読む人を欺くことになってしまうからだ。(*3)

もちろん、スカスカの内容ではなくても、見出しとまったく関係のない内容を書くことも、読者を裏切り、欺くことに変わりはない。

内容の異なる文章を読ませるために、見出しを偽ったという点で、読者をないがしろにしているからだ。

ある程度、表題から予想されるか、あるいは表題から期待を抱かせるであろう内容を、完全に裏切ることをしているからだ。

間違いなく、読者を騙し、欺いていると言わざるを得ない。

また、手書きの文字が下手でも、一生懸命、丁寧に書いたのと、軽い気持ちで書き殴ったのとでは、書かれた文字が読む人に与える印象がまるで違ってくる。

これは、どなたでもご経験があり、おわかりのことと思う。

これと同じように、気のない雑な文章を書き散らすのと、下手でも、教養不足でも、一生懸命、丁寧に書いた文章にも違いが出てくる。

だから、力を尽くすことは意義があるのである。

まあ、本人の元々そなえている文章を書く力の問題があるから、努力したから、誠意を尽くしたからといって、必ずしもそれが文章に報われる形となってあらわれてくる訳ではないが、最低限、書いた人なりの努力の痕跡が反映された文章を書くべきだ、ということ。

書き手も読み手も、神様の子供の兄弟姉妹なのだから、本来ならば、上記のような行いは、当たり前のことになるはずだが、実際はそれを実行に移すのは難しい場合がある。

アクセスがないと、苦しくて、こうした詐欺見出しや物欲しげな見出しなどに手を出したくなってしまうことだ。

思わせ振りな伏せ字の乱発もそうだ。

私は初期の頃は、文章に結構伏せ字を使っていたが、そうした初期の頃の文章を除いて、既存の伏せ字の大部分を撤廃した。

○○のような伏せ字は、あくまでも任意の代替文字(例えば、佐藤さんとか、田中さんを当てはめることができる、○○さんのような形)を使えるような場合のみとした。(*4)

もちろん、見出し(=ブログの各記事の表題)には絶対に使わない。

絶対に、だ。

アクセスがなくても気高く行けばいいじゃないか。

もっと言えば、今生報われなくたって、いいじゃないか。

努力は来世以降に引き継がれ、遠い先にはなるが、いずれそれなりに何らかの形で実を結ぶことには変わりはないのだから(=今生では見果てぬ夢になる可能性があるかもしれないが、神性に適った努力は輪廻転生を通して蓄積されて、後々の世に必ずそれなりに反映されることは間違いないのだから)。

私は何も、武士は食わねど高楊枝にしろとか、やせ我慢をしろとか、言っているのではない。

ただ、この世に生を受け、せっかくこうして、基本的に無料で、しかも公開という恵まれた形で文章を書く機会を与えられているのだから、できるだけ悔いのないように、力を尽くしておくことをおすすめしたいだけなのである。

また、自分でブログを書いてきて思ったのだが、やはり、少量なりとも書き続けていると、多少は慣れがでできて、文章を書くのが楽になってくる。

ただ、ブランクをあけると、やはり、感覚が鈍り、元の感覚に戻るまで多少の時間がかかる。

ネットには、かなりの時間をかけてでも、中身の濃い超大作(?)を書け、のように指南するものもあったが、やはり、軽い日記程度には、ほんの少しでも文章を書いておく(手書きのノートでもブログでも)のは、書く体制を即座に整えるためにも、それなりに意味があるように思うのだ。

SEO(検索エンジン最適化)対策を施したり、自分では内容がある文章を書けていても、なかなかアクセスがないからと、釣り見出しなどに売って出るのも、やむを得ないと思われるかもしれないが、これらは何としても控えて、まずは全力を尽くすこと。

はじめから内容が伴わないのは仕方がない。それは、徐々に自分で研鑽して、向上させていくしかないからだ。

つまるところは、
「ハッタリをかまさずに、信義誠実の原則のように行こう」
ということ。

そのためには、文章を書くことに純化していくことが、当然の帰結になってくる。

文章の中身を充実させることだけを主にして、その文章を読んで頂くための手段を工夫をすることを極力避けて、あえて中身だけで勝負をするくらいの気概を持って書く作業に臨んでほしいのだ。

できるだけ全力を尽くしたら、あとは流れに任せる。

文章を読んで頂くために、読者を引き込むためだけに特化する、SEO(検索エンジン最適化)対策のような工夫をしない。

あえて、そうした工夫は避ける。

そうして、できる限り文章作成だけに力を尽くした自らの足跡を、淡々と積み重ねていく。

たとえ、アクセスがなくとも、共感を得られなくても、この道だけに特化する。

それをおすすめしたいのである。

ネットの中には、読まれない記事をクソ記事(ひどい表現だな。こうした表現は最も好ましくない表現の代表例)として、成功や失敗に関係なくこうした記事を量産云々としているものもあったが、成功や失敗という文言からも、その判断の良否の基準をアクセスその他に求めていることは明らか。

そうではなくて、あくまでも成功や失敗の判断基準は
自らの良心である神性の意識となる、
=肉体人間の本質である神様の分けられたお命の意識
=分霊(わけみたま)の意識
=神意識、
に求めるようにする。

流行や他人目線に左右されない不易に求めるのだ。

こうした流行や他人目線は、あくまでも参考程度にとどめておいて、絶対の基準とはしないようにする。

そして、ただがむしゃらに独りよがりに頑張るというのではなくて、皆それぞれにそなわっている良心というフィルターを通して、その基準を満たしたものだけを文章として作り上げるのだ。

文章作成の作業ではないが、巷には、既存の成功者の中に割って入ることは難しいので、本来の中身を充実させる努力だけではなくて、その仲間入りをするために、本来の努力とは違う無理な手段をとって成功したような話もあるのだが、あえてこうしたものを避ける。

中身を純粋に充実させるとともに、手段も純粋なものだけに絞るようにするのである。

なお、内容に関しての注意事項は、できる限り真善美に悖らないようにすること(当然ながら、バカ、アホ、グズ、ゴミ、カス、クソなどの汚ない響きを持つ言葉は努めて使わないようにする。もちろん、傲慢や侮蔑や嘲笑(冷笑含む)などをあらわす言葉などは論外)と、中でも、罵詈雑言や悪口雑言だけは絶対に避ける、ということくらいかな。(*5)

そんなことわかりきっているよ、何を今さら、と思われる方がおられるかもしれないけど、念のため。

(過去世の因縁以上に)批判や非難、中でも、罵詈雑言や悪口雑言を書くことは、自らの来世以降の運命にきわめて大きな影響をもたらすのみならず、これを読んだ人の想いも著しく乱し、決していい影響を及ぼすことはないから。

以上が、個人的に考えるアクセスの少ないブログを書いていくに当たっての心構えになる。

こんな押しつまった時代だからこそ、私のようなアクセスの少ない(というかほとんどない)ブログであっても、あえてこの道を選び取ることをおすすめしたい。

私は、私と同じような状態にある方のご健闘を祈っている。

締めくくりとして。

まとめると、要は、作文をする動機も、作文の過程も、作文の内容も、そして、それを公表するための手段も、すべてにわたって、神様のみ心に適うようなものにする、ということ。

肉体人間は、皆誰しもが過去世の因縁が違うように、今生での置かれた環境や生得的な才能や能力は異なるけれど、それぞれの身の丈に合わせた範囲内で、神様のみ心に適うように、目一杯の誠意を尽くして、悔いのないように今この時を活かそう、と。

繰り返すけど、何でもかんでも、ただただ、がむしゃらに書けばいいと言っているんじゃないよ。

上記を読んで頂ければわかるように、それなりの条件を課しているからね。

よって、自らの良心に問うてみて、どうしてもそれなりの水準を満たすものが書けない時には、書くのを断念することも必要になってくると言える。

で、正直に言うと、今生報われないのはやっぱり辛い。

それなりに一生懸命書いたものが、自分が思っていた以上に、相当に低い反応しかないと、かなり厳しいものがある。

ましてやアクセス 0 ともなると、世間様から完全に見捨てられたブログということを、身に染みてしみじみ感じることになるからだ。

やはり、多少なりとも人様(他人)からの評価は欲しい。

人様(他人)は、その本質が神様にもつながっていることだしね。

人様(他人)からの評価が欲しくないと言えばウソになると言わざるを得ない。

それでも、そうした反応への執着を、完全に断つことはできないにしても、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行ともに、心穏やかになるように努めるとともに、なるべく断ち切っていくように心掛ける。

凹むこともない、腐ることもない、恨むこともない、ただただ、ひたすら淡々と、この与えられた修行と研鑽の機会を、粛々とこなし、活かしていく。

そのようにして、行きましょうよ。

ということで。

アクセスが少なくても、このように文章を書かせて頂いているはてなさんには、ただただ、感謝しかないな。(*6)

それと、どのような内容にせよ、はてなさんでアクセスを集める記事を書いている人達にも感謝しなければならないな。

はてなさんも商売だから、こうしたアクセスの多いブログを書く人がいるお陰で商売も成り立ち、ひいては、私のような超場末のブログも書かせてもらっているのだから。

つまり、おこぼれを頂いているというと、言い方が悪くなってしまうが、少なくとも間接的には、お世話になっている訳だから。

やっぱり、すべてに感謝一念になることが大事になるのかな。

ただ、あまりインターネットの難しいこともわからず、ブログを読んでもらうための様々な工夫や策を施せるほど器用さがないと自覚があるお方ならば、迷わずに、私が上記に書いたような真っ正直なやり方、すなわち、神様の分けられたお命を頂いている肉体人間として、神性を突き詰める書き方をきわめて頂きたいのである。

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(追記1)
1.実は、今回述べたようなことは、ユーチューブの動画づくりなどにも、まったく同じように当てはまる。

つまり、対人で物やサービスなどを提供する場合のすべてに当てはまることなのだ。

様々な大人の事情(?)が絡まず、約束事さえ守れば、こうして記事を書かせてもらえる(動画なら動画を作って公開させてもらえる)環境だからこそ、こうした矜持を保つことの実現の可能性は高いはずである。

2.あと、こうしたブログにアクセスをして下さった方、さらには、お読み頂いた方には、心の中で手を合わせて、大感謝することもお忘れなく。

アクセスを頂いて、とにもかくにも何らかの形で文章を読んで頂けたということは、たくさんの輪廻転生を通して、それなりの縁があり、あるいは、縁を結び、貴重な縁で巡り会えたお相手なのだから、誠意を尽くしておくに越したことはないし、身の回りをはじめとして、ありとあらゆることに感謝できるようになることが、信仰の基本なので、感謝をしましょう、ということです。

ただ、大感謝は、もちろんいいと思うのですが、世界平和の祈りをすることが、みんなのためになるし、ひいては、巡り巡って自分のためにもなるので、大感謝とともにこれ(世界平和の祈り)を行って頂くことをお願いしたいと思います。

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(*1)セックス(性交)から妊娠、そして、出産にいたるまで、
どのような過程(プロセス)を経ることになったとしても、
最終的に出産の結果としてこの世に生を受けるのは、
セックスのあり方となる、この世の表面上でのセックスという行為のなされようという、
いわば、表向きの想いと行いだけでは決してわからない
過去世の因縁をも含めたそれなりの裏付けがあって、
すなわち、
神様の分けられたお命の働きかけと守護神さんのお力添えがあって、
この世に生まれてくると考えられる。

つまり、この世の表面上にあらわれた、表向きの現象としてはわからずとも、それなりの必然的な理由があって、この世に生まれてくると考えられるのだ。

つまり、セックスによる類い稀な確率を突破しての受精から妊娠、さらに出産を経て、肉体人間としてこの世に生を授かるのは、表面上はどんなに偶然やデタラメやカオスのような形に見えたとしても、それなりの過去世の因縁の理由づけと、守護神さんの働きかけによる裏付けがある、と考えられるのだ。

どんなに、信じられなくても、あるいは、信じたくないものに思えたとしても。

(*2)はてなさんのブログなら、はてなブックマークの数も、アクセス数やスターの数と同様に意味があるようなのだが、私はインターネットへの理解力が乏しいせいか、頭の回転が鈍いのか、どうもこのはてなブックマークの使い道や意義がよくわからない。(*2ー1)

なので、本来ならば、はてなブックマークも含めて書くべきなのかもしれないが、省いている。

また、恥ずかしながら、稼ぐためのアクセス向上による広告収入の話、すなわち、アフィリエイト(成功報酬型広告)といったものもよくわからないので、まったく触れていない(触れることすらできない)ので、悪しからず。

(*2ー1)はてなさんのページの中にある、はてなブログランキング(はてなブログ独自の集計による人気記事のランキング)というのがあって、これを見ると、はてなブックマークの数がかなり重きを置かれているように見えたから。はてなスターの数も絡むのかもしれないけど、よくわからない。

とにかく、ブログランキング上位の記事は、アクセスがたくさんあって、よく読まれて、一般的に評価が高い記事ということになるのだろう。

(*3)このようにブログなどの場合、羊頭狗肉を地でいくような詐欺的な表題をつけることや、思わせぶりな伏せ字を用いるのは、読者を欺く悪質な客引きの一種となるが、読者を不安や恐怖に陥れ、これを煽る見出しについても同様に悪質だと言える。

これは、悟りを得ておらず、唯物論による肉体人間観の思考にからめとられてしまっている私達のほとんどは、この肉体人間としての身体を脅かすもの、そして、生活を脅かすものに対しては、無関心ではいられないからだ。

こうしたやり方は、読者の不安や恐怖に訴え、働きかけること、すなわち、肉体人間としての人の弱味につけ込んで、ことを運ぼう(=ブログなら記事を読ませよう)とする、きわめて卑劣で卑怯なものと言わざるを得ない。

どうしても、警告のような内容を発信したい場合には、このような悪意がないかどうかを、自らによくよく自問自答した上で、このような見出しを使う必要がある。

しかも、この場合でも、残念ながら、読者に不安や恐怖を抱かせてしまうことには何ら変わりはない。

従って、発信者は、その悪い因縁を背負う覚悟を持って、こうした見出しを選ぶ必要があることになる。

そうすることで、人様を少しでも救いたいという善意の下に、自ら悪い因縁(カルマ)を引き受けるのだ。

厳しいようだが、理屈で考えるとこのようになる。

考えてもみてほしい。

霊格の高い人格者である宗教家で、六神通などそれなりの力のある人なら、たとえどんなよくない未来が見えたとしても、信徒や一般の人々に不安や恐怖を抱かせることは絶対にしないはずだ。

どうしても警告をしたい時でも、そのよからぬ内容ははせいぜい暗示程度にとどめて、善なる祈りを推奨するはずである。

悪いものは黙って自ら引き受け、ひたすらそのお役目を果たすこと(=一人でも多くの人を神性に目覚めさせること)をするはずである。

だから、悪いことを公言するには、悪い因縁を引き受けるというそれ相応の覚悟と挺身が必要になると考えられるのだ。

人々の抱く想いが、人々の(主として)来世以降に影響を及ぼすこと、そして、その総和がひいてはこの世の有り様を左右することを熟知していると考えられるからである。

(*4)この ( おぶなより2 ) の別のところで書いてある、自分に関するいくつかの表現を、○○○といった形で伏せ字にしていたが、書く以上は伏せ字にしようとしまいと、意味をご推察・ご理解頂ければ、結果は同じことになる。

そこで、○○○といった伏せ字の表現はやめて、書く以上は、あった事実をありのままに書くべきだと考えを改めた。

そして、いくつかの文章の伏せ字をやめて訂正することにした( 2022 年 10 月現在)。

これに伴い、周囲のぼかしておいた名前や表現を廃して、固有名詞を出し、理解しやすくなるよう補足の話を追加した。

伏せ字のままにしたり、周囲をぼかして書いていると、どうしても文章自体がわかり難くなることもあるし、(他人様を著しく傷つけるものでない限り)あった事実をできる限り忠実に、そのまま再現することが何よりもいいことには違いない、と思い直したこともある。

人間は、悟りを開いた人を除いては、おそらくほとんどすべての人が、自分をよく見せようと脚色したり、何かしらのウソをついたりしがちだと思う。

真っ正直にいきたくても、どうしても見栄や虚栄心や保身の横やりが入る。

たとえ、皆さんから、鼻白まれたり、反感を買おうとも、(人様を極度に傷つけたり、痛めたりするものでない限りは)真っ正直に勝るものはない。

あまり事細かに、ここまでは書こう、ここは加減をしておこう、などと計算しながら書いていると訳がわからなくなってくるし、ましてや、伏せ字を使うと本当に話がごちゃごちゃになってしまう。

だから、伏せ字は可能な限り廃して、あった事実を、そのままに再現することに変えた。

なお、 ( おぶなより ) でも、だいぶ前に書いた文章に伏せ字が残っているが、直せたら適宜直したいと思っている(直す勇気がないものは、そのまま据え置きます。ご了承願います)。

(*5)侮蔑の例としては、例えばこんなものがある。

お相手に対する理想の高い 30 才前後(アラサー)のわがままな非処女の婚活女性に対して、あろうことか、産業廃棄物などという物言いだ。

仮にも、神様の分けられたお命を本質とする肉体人間の女性に対して、あのような物言いをする。

完全な侮蔑だ。

しかも、きわめて悪質だ。

言う(書く)人間も、言われた女性も、肉体人間。

その先は、それぞれ神様につながっている。

それにもかかわらず、あのような物言いをするのは、本来ならば絶対にあってはならないことなのである。

これは何もこうした男性の物言いだけには限らない。

もちろん、ツイフェミ(ツイッターフェミニストの略)さん達が、その悪口雑言とともに、使っている信じ難い侮蔑語の数々にもすべて当てはまることになるのだ。(*5ー1)

従って、このような物言いをした以上、(過去世の因縁でない限りは)来世以降に輪廻転生を通して、魂の学習をすることによって、必ず侮蔑の罪をあがなわなければならない。

ましてや、見るに堪えない、聞くに堪えないほどの呪詛を吐きまくれば、輪廻転生を通して、各自がそれ相応の償いをしなければならなくなるのである。

私達が神様の分けられたお命を本質とするということは、このように肉体人間としての想いのあらわれとなる、一挙手一投足が、深い意味を持ってくることになるのだ。

肉体人間の想いがすべてを決定するのは、こうした形にあらわれている。

(*5ー1)ツイフェミさん達は、もろもろの無茶苦茶な侮蔑語を言う度に、自分達が一体何をしているのかが、まったくわかっていないかのようにも見える。

輪廻転生を通した因縁因果というものをそもそもろくに知らないのか、これを知っていても歯牙にもかけずバカにしているのか、それとも忘れ去っているのか、彼女達の実態はわからない。

ただ、周りにも、地味ながらも神仏を深く信仰する謙虚な人がまったくいないことは確かだろうな。

もっとも、周りにこうした人がいても、何を言われても聞く耳を持ってくれないのだろう。

仕方ないですね。

まあ、とにかく。

過去世の因縁を果たすべきもの以外の、今生で新たに自分の言ったこと、したことは、守護の神霊様の浄めて消して頂けるもの以外は、すべて、世を隔てて巡ってくる。

輪廻転生を通して、何世かかってでも、霊魂魄(れいこんぱく)としての自分にすべて返ってくる。

真善美に悖らない良いものも返ってくるだけではなくて、真善美に悖る、デタラメ、メチャクチャきわまる、ああした彼女達の言動も、すべて輪廻転生後の霊魂魄としての自分に、自分が過去世で行った言動を思い知らされるかのような形で、否応なしに返ってくるのだ。

しかも、(原則として)過去世で自分のした良いことも、悪いことも、それぞれ、一切の記憶を消されているために、身に覚えがないようなことを思い知らされるというきわめて厳しい形で。

つまり、そうした過去世でなした想いと行いの記憶が、この世に生まれ出でた時に、原則としてほとんど消されてしまう(記憶のある特別な人や、幼少期までに記憶を持っている人はいる)ということは、そうした想いと行い自体が、神様のお命を頂いている、本質としている肉体人間としては、そもそも、絶対的にしてはいけないものとして、輪廻転生を経た病争貧苦の魂の学習を通して、否応なしにわからされる仕組みになっている、と考えられるのだ。

中でも、傲慢と侮蔑と嘲笑(冷笑含む)のような言動は、予想だにしない、とんでもなく重いものとなって返ってくる。

しかし、こうしたことは、言葉だけでは、経験したことのない人には、何を言ったところで、まったく心に響かないのだろう。

肉体人間として味わうことになる、病争貧苦という魂の学習という身を持った経験を通して、はじめて感得できるものなのだと考えられる。

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(追記2)

< ツイフェミさんへ >

ツイフェミさんが、私のこの文章を読むことは、まずあり得ないだろうと思うが、万が一に備えて書いておく。

世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして下さい。

それも、今からできる限り、数多く。

お願い致します。

私は、過去世の生き方が悪かったせいか、今生では、健康面を原因とした筆舌に尽くしがたい苦しみを味わった。

今でもさらなる別の苦しみを味わっているが、何とかかんとか、かろうじて神様を呪わずに済んでいる。

しかし、今の病気がさらに悪化したりすれば、どうなるかはわからない。

はじめの病気にしても、寝耳に水の出来事だったし、他人様から見れば大したことないと思われるかもしれないが、自分としては神様を呪うほどつらかったのよ。

仮に、争貧苦のいずれかがある場合だとしても、健康であり、それが当たり前であることがどれだけありがたいことかを、あなた方は知らないような気がするのですよ。

悪口雑言の限りを尽くせているところから察するに、今のところは健康に問題はなさそうですからね。

しかし、悪口雑言の限りを尽くせば、(原則として)自らの来世以降の運命を暗転させるだけではなくて、その発信を見聞した人々の想いも乱し、悪影響を及ぼす可能性までもが出てくるんですよ。

説教は無効ですが、あえて一言だけ申し上げます。

もしも、どうしようもなく行き詰まる時が来ることがあったら、是非とも、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を、あなた方の選択肢の中の一つに加えて下さい。

何卒、よろしくお願い申し上げます。

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(*6)大型書店に行くとわかるが、世の中には数えきれないほどたくさんの書物があふれている。

しかも、店頭から姿を消して、絶版となったものも、はかりしれないほどあるはずだ。

個人が読書に割くことができるお金と時間と労力を考えると、これに比べて世の中に今ある本だけでも、読める可能性がある本は、無限に近くあると言えるかもしれない。

こうした状況下で、たとえ、一時的にしろ、本を出版することさえ、普通の人にはなかなかかなわないことを考えると、私のようにアクセスがほとんどなくても、サイトに籍を置かせてもらい、手軽にブログという形で、あたかも出版の別の形のように文章を公開させて頂けることは、本当にありがたいことだと思うのである。

やはり、言いたいことや人様に影響を与えたいこと(私の場合は主に世界平和の祈りをお願いすること)を、発表させて頂けること自体が、機会がたくさん与えられていることになるので、恵まれていると思うのだ。

アクセスを稼げず、はてなさんに貢献できないながらも、こうして書く場を提供して頂いていることは、本当にありがたいことだと感謝しています。

ありがとうございます。

こんな私ですが、とにかく、読んで頂く方には、なるべく手間をかけないように、平易でわかりやすい文章を書くことを心がけています。

簡潔にして要を尽くした明快で短い文章が書きたいのですが、これは残念ながら私の力不足のためできていません。

なるべく、これに近づけるように努力はして参りますので、この点をご容赦下さりますよう、よろしくお願い申し上げます。