前回 ( 137_仮想現実 - おぶなより2 ) 、この世(現界)は神界が映されきっていない、不完全(=未完成)な世界であるとした。
そこに、肉体を持った有限の命とされる人間として生まれる私達の抱(いだ)く想いは、良いものにしろ、悪いものにしろ、(原則として)世を隔てて(つまり、今生から見て来世以降に)実現する。
これが法則だとすると。
不安、恐怖、他人を害する想いなどの悪い想いを抱かせることは、(原則として)来世以降のこの世に不幸や災難をもたらす原因を作ることになってしまうのだ。
もちろん、今生だけでも、不穏な想いを広げ、人々に恐れを抱かせることが、そのまま、実現化することの可能性もある。
ということは、占星術だろうが、予言(霊感にもとづくものでも唯物論にもとづくものでも)だろうが、人の想いに上記のような不安や恐怖を抱かせて悪影響を及ぼすことは、頂けないものとなってしまうのだ。
従って、戦争や火山噴火・大地震・大津波などによる天変地異による阿鼻叫喚の地獄絵図などはもっての他、ということになるのである。
過去世の因縁である程度決まっているものは、今対処しようにも、できることは残念ながら限られている。
守護の神霊さんのご加護で救って頂けるもの以外は、受けざるを得ないことになるからだ。
従って、興味本位にしろ、怖いもの見たさにしろ、不安や恐怖を抱かせる占星術や予言など、特に不幸や災難を売りにするものには一切かかわることを避けて、相手にしないようにするのが一番無難だ、ということになる。
すなわち、占星術や予言を用いて、世の中にやたらと不穏な空気を醸成させようとするようなものには、一切かかわりを持たない方が良い、ということになるのだ(その意図がなくとも、結果的に醸成することになることには変わりがない=つまり、悪い想いを抱かせる占星術や予言そのものが NG ということ)。
つまり、この世に不幸や災難をもたらしたくなければ、私達としては、できるだけ良い想いを抱く、良い想いを発するように努めていくしかないことになるのだ。
とは言うものの、この世には、私達が過去世で溜め込んだ真善美に悖る想いと行いの業想念、つまり、神様のみ心に適わない業想念によって作られた過去世の因縁の今生へのあらわれとしての、病争貧苦などが起きてくる。
こうした病争貧苦などで、つらい想い、苦しい想いをしている時に、良い想いを発することはかなり難しい。
できないことの方が、圧倒的に多い。
つらい、苦しい目に遭っていない幸福そうな人、恵まれているような人を見れば、世を拗(す)ね、人を恨み、最悪の場合には神様を呪うことにもなるかもしれない。
ではどうすればいいのか。
やっぱり、神様におすがりするしかない。
どんなにつらくても、苦しくても、神様を呼び続けるしかない。
自暴自棄になるのは、簡単だ。
しかし、それで本当にいいのか。
自らの心に真摯に尋ねてみれば、そうはならないはずだ。
肉体をまとっていても、私達の本質が神様の分けられたお命である限り、その本体には、病争貧苦などはないのだから、その元の姿が反映されるように、想いを良きものになるよう、整えていくしかない。
どんなに時間がかかり、紆余曲折を経ようとも。
もっと言えば、何世かかろうとも。(*1)
そのために、神様をお呼びすること、肉体をまとって、自己中心のエゴイズムにまみれた想いと行いを洗い清めるために、自らは神様の分けられたお命を宿している者であることを、内(自分)にも外にも向けて宣言する。
神様のお命を宿している、つまり、自分は神様の命を生きていると宣言する。
宣り出す(のりだす)。
「私は神様の命を生きている者です」と。
これが「 祈り 」で、「南無阿弥陀仏」や「世界人類が平和でありますように」になる(仏教の難しい理屈は割愛する)。
以前、私が本当の宗教の指導者ならば、悪いものは(人々に不安や恐怖を抱かせないために)黙って自ら引き受けるようにして、善なる祈りをすすめるはずだ、と書いた( 110_心構え - おぶなより2 の (*3) )のは、こうした理由による。(*2)
つまり、私達としては、できる限り、良い想いを出すようにする一択しかないのが、本来あるべき形と言えることになる。
そして、乱れた想いを少しでも整えるように、できるだけ祈りをすることが望ましい。
要するに、肉体も、たくさんの過去世の因縁も、抱く想いも、身の周りのことも、何もかもひっくるめて、祈り言葉で神様に帰一させる。
帰命させる。
そうして、ありとあらゆるものを神様から改めて頂き直す形で再出発を繰り返す。
そうした積み重ねで、少しずつ、少しずつでもいいから、日頃の肉体人間としての想いと行いの改善をするように努めていく。
これが易しい信仰の仕方の易行道。
選びとるのは、その人次第(=実質的にはその人の過去世からの因縁因果次第)。
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(*1)当人の過去世の因縁によっては(=過去世の因縁が悪逆非道・悪行三昧のようにすさまじく悪い場合。ただ、このような最悪の場合でも守護の神霊様は何らかの一筋の救いを設けると思われるのだが・・・)、どんなに努力しても、今生内では何一つ報われないままに終わってしまう場合もあることもあり得ると考えられる。
ただ、やはり、ここでなげやりになるのではなくて、今生の努力は必ず来世以降に何らかの形で必ず引き継がれていくと信じてやっていくしかない。(*1ー1)
過去世でかなりの業想念を溜め込んでしまうと、こうした何度もの輪廻転生を通した厳しい修行が課される可能性があると考えられるためだ。
だから、今生の生き方は、ゆるがせにはできないことになる。
(*2)こうした悪いものを引き受ける、あるいはやむなくそれなりに暗示するような宗教指導者には、それなりの覚悟と挺身が必要となるものと考えられる。
少なくとも、人を不安と恐怖に陥れることのみはしないはずだ。
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(*1ー1)おそらく、これは守護の神霊さんが、本人が輪廻転生を通して自暴自棄にならないように、何らかの案配をお考えになるのではないだろうか。
万が一、地獄で何百年(何万年?)滞ることになったとしても、いずれは引き上げて下さるようにご配慮して下さるのではないだろうか。
そのように考えられる。
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・祈り~いのり~祈ること。神仏に願うこと。祈願。
(用例)祈りを捧げる。
・祈る~いのる~①神仏に願う。
②心から望む。
(用例)ご多幸を祈る。
・帰一~きいつ~いくつかに分かれているものが、最後は一つになること。
(用例)一つの原因に帰一する。
・帰命~きみょう~仏教語~身命を捧げて仏法を信仰すること。ひたすら仏・法・僧に帰順すること。
・帰順~きじゅん~反抗をやめて服従すること。帰服。
(用例)帰順の意を示す。