002_純潔

女性は、なぜに、恋愛優位、結婚優位に主導権を握っていると思うのかな。

それは、突き詰めると、女体という男性にはない条件を盾に、自分が選べる優位な立場にあると考えているからだろう。

特に妊娠と出産は、時間的な制約があるので、希少性が高い、その特性を備えた性だ。

そのキャスティングボード(大げさ過ぎるかもしれないが、女性はそのほとんどが自分が世界という世界観だから)というか、鍵を握るゆえに、なおさら、自分達の希少性は高い。

ゆえに、
あなたにセックスさせてあげる、
あなたと結婚してあげる、
あなたの子供を産んであげる、
すなわち、
自分は男性の持たない貴重な価値を提供する性として、優位さを保つ存在である。

このように考えているのではないか。

だから、受け身でありながら、あくまでも男性を選ぶという考え方になっているのだろう。

女性を観察するとわかるが、彼女達は本当に受け身だ。

基本的に受け身なのである。

あからさまな逆ナンはそんなに多くない。

好意を抱いた男性には、何とか自分の気持ちに気づいてもらおうと、いろいろと周辺から婉曲的な(=男からするときわめてわかりにくくてまどろっこしい、まわりくどい)アプローチをしてくるものが、大半なのである。

好意を持っている男性には、強く求められたい、告白されたいと切実に思ってはいても、自分から告白することを実行に移すことはまれで、周辺状況を固めて、自分からのあからさまな告白をすることを避けながら、好意を男性にわからせように仕向けるのである。

だいたいの男性はこうした女性心理に疎い。特に、根が地道で真面目な人が多い日本人の男性はそうだろう。

日本人の男性には、そうした根が地道で真面目な人が多いから、そんな四六時中、女性を観察して反応を伺うように、恋愛に向けてアンテナを張り巡らしてばかりいるような人は、ほとんどいないと思われるからだ。

だから、女性が好意をよせて働きかけ(アプローチ)をしてきた場合であっても、あまりにも間接的でわかりにく過ぎるので、大抵の場合は、わからないのである。

まったくと言っていいほどに。

正面切って、ハッキリ言えばいいのに、そうはせず、婉曲的にほのめかすような言い方をする。

グイグイ向かって来ればいいのに、気づいて欲しいと、存在を近場に出没させる。

これでは、ごく一般的な女性心理に疎い真面目な男性にはわからないのである。

しかも、女性は時間を重視する人が多い現実主義者だ。

そうこうしているうちに、移り気な彼女達は、さっさと縁を終わらせてしまう。

それに、女性を獲得しようと積極的な男性は、ただ遊びたい(=要するにセックスがしたい)がために、やたらと女性をちやほやする傾向があるので、女性達を思い上がらせてしまうきらいもあるだろう。

悲しいかな、この世において自らの精進の賜物であるにしろ、そうでないにしろ、他人を出し抜くそれなりの力や立場を得ている場合には、その絶対な優位さを盾に、思い上がりがちなのが、肉体人間としての習性である。

何だかんだ言っても、自分の方が上だ、ならば、対等、あるいは、下手に出る必要などはない、と思い上がってしまうのだ。

自分が絶対優位な立場にあることを確認できれば、高圧的な態度に出ても安心だから、立場が逆転することはまずない、と確信が持てるからだ。

ただし、女性の場合には、腕力や権力で男性にはかなわない場合がほとんどなので、自らが傷つけられることのないように、用心深く慎重に振る舞っているだけだろう。

そこには、自分の意志で生きているのではなく、神様に生かされているという貴重な命を生きていることの自覚や、下位に位置付けた他人に対して、自分と同じ神様の命を授けられた者だ、という認識からくる相手に対して敬意を払う態度を見て取ることはできない。

不和に満ち、争いに満ちた、デタラメの多いこの世を眺め、所詮、肉体人間は、生得的な外見や能力次第がすべてだ、と考えた人が、利己的で排他的な行動をとる動物や遺伝子の一部に目をつけ、所詮、肉体人間も動物などと同等だ、との神性を軽んじた話を展開するのではないのか。

そうして、肉体人間の本質を神様の分けられたお命、神性から逸らし、その自らを中心とした(=自分と自分に近しい者の)利害得失計算に明け暮れる行動に免罪符を与えようとするのである。

そうすることで、自らも神様の分けられたお命を頂いた者として気高く生き、関わる他者も神様の分けられたお命を頂く者として尊重する、人間として本来あるべき神性を重んじるあり方を、放棄させようとするのだ。

具体的に言えば、浮気、不倫、托卵、その他諸々の本来なら男女の間に築かれなければならないはずの、人間として持つべき尊い信頼感をぶち壊す、乱れた性行動の放縦なあり方に免罪符を与えて、正当化させることを狙っているような言説(不倫を推奨しているのか?とさえ思えるような言説や、動物行動の功利的な行動を人間に援用させるような言説など)があるのである。

もし、この世に命を授かり、神様のお考えのもとに、有性生殖を前提に、それぞれに違う性を持つ者として男女にわかれている存在だとなれば、男性、女性ともに、お互いに尊重して、協力し合って、この世に神様の世界をあらわしていくための途中の有限の命しかない肉体人間として、気高く生きていくべきだ、という結論になるはずである。

従って、セックスはあくまでも、男女が互いに尊重し合って生きていく、その一環としての愛情の交歓行為に他ならないのであり、妊娠と出産のための必須の通過点である、ということになる。

このように考えてくると、セックスとは、興味本位、快楽本位、享楽本位、のような自分勝手、自分本位きわまるものとはならないのである。

貞操観念を軽視するのは、霊性に適わないことがわかるはずだ。(*)

だから、童貞の方も、処女の方も、霊性という面では、ご自身を大事にされているのだから、決して引け目を感じることはない。

童貞や処女が、気持ち悪いだの何だのなどという戯言を言いたい人には言わせておけばいい。

周りに流されず、あまり無理をなさらずに、気高く生きればいい。

無理をしたら、多分、後悔することになるからだ。

私はいくつかの女性作家の作品を見て、そう感じざるを得ない感想を持ったからである。

やっぱり、処女の卒業の仕方の影響がかなり残っているのではないかと。

その生きざまに、その作品の表現の仕方に。

極限状況に追い込まれた場合なら、仕方がない場合もあるかもしれないが、そうでなければ、無理をしないことだ。

しかし、絶対的にお相手が見つからないのは、残念ながら、過去世の因縁、やむを得ないものとして、受け入れなければならないのかもしれない。

どんなに、悲しくとも、つらくとも。

これが、神様の分け命、分霊を本質とする肉体人間としての人としてのあり方ではないのか。

私はそんなふうに考えることがある。

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(*)このように考えてくると、ちまたによく行われているであろう、安易な形で、童貞を捨てる、処女を捨てる、と呼ばれる行いが、いかに軽はずみで、人間としてふさわしくないことになるかが、わかるはずである。

そもそも、「童貞」や「処女」を「捨てる」という表現自体が不適切だ。

あくまでも、「卒業」という表現を充てるべきである。

それはともかく。

私達の意識の深層には厳然として神意識があるので、神性を違えた間違った想いと行いは、寸分違わず瞬時に判定をなされて、想いの体である幽体に記録されてしまい、この間違った想いと行いの償いは、輪廻転生を通して必ずなされなければならなくなってしまうのである。

しかも、それだけにとどまらず、今生でもこの間違った想いと行いは、深層の神意識からの問いかけと、神性を傷つけた罪意識として、自らを責める、苛むことになってしまうのだ。

これが、特に顕著に見られるのが女性で、それ以降の生きざまや作品に、明らかにそのような影響が残っているな、と見て取れるものがあるのである。

男性も女性も、初体験をなぜ覚えているのか。

初体験は、肉体人間としての自我の喪失という側面があるだけではなくて、各々の意識の深層の神意識から大事な意味があるとわかっているからではないのか。

特に、女性はこの初体験は、かなり重大なものとして、その後の彼女達の人生に影響してくると思えるのである。

従って、童貞と処女の卒業の仕方は、決しておろそかにしてはならないし、大事にするに越したことはない、ということになるのである。

だいぶ後になるが、 ( 125_基準 - おぶなより2 ) もご参考頂ければ幸いである。