144_ゴブチ

(お断り)表題にあるゴブチは、傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)を、傲慢のご、侮蔑のぶ、嘲笑のち、とそれぞれの頭文字から 1 文字ずつ取り、都合上、カタカナ化して縮めたものです。ご了承下さい。

前々回 ( 142_オワコン - おぶなより2 ) で、人間としての想いと行いのうち、傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)は、最低・最悪だと書いた。

過去世の因縁としてのものではない限り、こうした行為をしてしまうと来世以降が大変なことになるからだ。

こうした行為をすれば輪廻転生を通して、主客転倒、自らがまったく逆の立場に否応なしに置かれることになり、その悪い言動(=自ら発した神様のみ心に悖る想いと行い)の意味をイヤというほど体験させられる羽目になる。

身をもって、味わわされることになるのだ。

あまり詳しいことは書きたくないし、ヒントはこれまでにいくつか書いてきたので ( 011_気高い - おぶなより2 ) etc、ここでは具体的にどのような報いがもたらされるのかについての言及はしない。

ただ、なぜにこのようにして、重い報いを受けることにならなければならなくなるのかの理由を考えてみたい。

これも何回も書いてきたが、私達肉体人間の本質は分け与えられた神様のお命=分霊(わけみたま)だ。

私達のこの肉体、五臓六腑も含めてたくさんの組織で構成されている肉体は、何かしらの摩訶不思議な力の働きかけがないと有機的な生命体として生きていくことができない。

この肉体に働きかけて、人間を有機的な生命体とならせている摩訶不思議な力の働きかけ、これが神様の分霊である神様の分けられたお命だと考えられるのだ。

逆に言うと、生きた肉体人間は魂(肉体人間の場合は霊魂魄=神様の分けられたお命=分霊)が(霊魂魄と肉体を結んでいる霊線が切れてしまい肉体を)抜けたら生きてはいけない、死んでしまうということ。

このように考えてくると、霊主体従、すなわち、あくまでも、肉体人間の本質は、神様の分けられたお命である分霊である、意思と判断能力を持った霊なる人間こそが、本当の人間ととらえることが可能となる。

肉体は、あくまでも本体である神様の分けられたお命=分霊を入れる器であり、入れ物であり、霊なる人間の働き場所、ということになるのである。

霊(ひ)の止(とど)まるところ
→霊止(ひと)
→人、
のように言われるのも、こうした意味なんだろうね。

だから、肉体人間の奥深くの本当の主体は、霊魂魄である分霊であり、霊なる人間こそが、本当の人間、真実の人間、ということになる。

よって、人間としての本体、本質は、あくまでも分霊であることになるのである。

神様と言えば、考えられるのは、真善美に悖らない完全円満で美しい存在、もちろん、気高く、尊い存在、ということになる。

実際の肉体人間は、地球さんを開発して、神様の世界をこの世にあらわすために便宜上、本来はなかった自己保存の本能を与えられたために、たくさんの生まれ変わり、死に変わり、すなわち、輪廻転生を通して、真善美に悖る想いと行いの業想念を積み重ねてしまったために、これらを反映して完全円満からは程遠いものとなってしまっている。

しかし、あくまでも、その本質は、神様には違いないことになるのである。

どんなに、たくさんの過去世の記憶を失って、欲にまみれて、デタラメきわまるこの世を生きているような人間であったとしても。

そうなってくると、神様のお命を宿した生命体は、人格や外見がどのような至らない形でこの世にあらわれているとしても、

肉体人間は、本来的には気高い生き物、尊い生き物ということになる。

神様が尊いということは、そのお造りになられたもの、お与えになられたものはすべて尊いということにもなる。

私達肉体人間は、その本質の命から、肉体から、何から何まで、すべて神様によって与えられているのである。

従って、いかに過去世のあまりよくない因縁を反映して、完全円満で美しいものとはなっていなくても、それはたくさんの過去世の真善美から外れた好ましくない生き方が反映されたものであるだけに過ぎない、ということになる。

ということは、たとえ、いかなる過去世の因縁を反映したこの世へのあらわれとして、美しい人(男性なら眉目秀麗な男性、女性なら容姿端麗な女性)に生まれつこうとも、あるいはそうではなく生まれつこうとも、それはあくまでも過去世の因縁を反映した表面上のあらわれであり、その外見となる「肉体」がどのような形にあらわれていようとも、本質的に尊いものになるのである。

つまり、肉体人間を構成する本質の分霊である「霊魂魄そのもの」も、過去世の因縁を反映した外見となる「肉体」も、双方ともに尊いものと言えることになるのである。

そもそも、人間を構成する「肉体」とその本質である分霊の「霊魂魄そのもの」で構成される肉体人間(以下、人間と略)に対して、貶(けな)したり、蔑(さげす)んだり、バカにする=貶(おとし)めるということは、主体としては、行ってならないことである。

本質が神様である以上、このような行為は、当事者としてふさわしくない、行ってはならないものであるからだ。

そして、対する相手もまた神様として尊いのであるから、貶したり、蔑んだり、貶めたりするされることがあってはならない。

ということは、相手を貶したり、蔑んだり、貶める行為は、当事者としても、相手方としても、どちらの立場にあっても、不遜であり、尊大であり、無礼千万であり、人間としてふさわしくない、絶対にあってはならないことになるのである。

傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)は、自分が相手より高みに立って、相手をこき下ろして蔑む行為になる。

ましてや、相手が過去世の因縁のために、何らかの決定的に不利な境遇にある場合には、傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)は、絶対優位な高みから相手を蔑むという、相手が超えることのできない絶対的な優位さや力を背景として、相手を下に見て、蹂躙するに等しい行為だと考えることができるのだ。

つまり、こうした行為は、神様を本質とする者として、

主体としては、ふさわしくない、絶対にしてはならない行為となり、

客体としても、絶対にされてはならない、著しく神性を冒涜される行為となってしまうのである。

こうした理由により、傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)が、輪廻転生上、重い報いがもたらされるものと考えられる。

よって、離れた位置から傍観しているような場合でも、苦しい立場に置かれた人やつらい思いをしている人を安易に蔑むような言動をすることは、禁忌すべき行為、すなわち、絶対に避けるべき行為となるのだ。

無関係な人だから、何を言っても構わないだろうとはならないのである。

ことが対人間である限り、相手も神様につながっている。

だから、むやみやたらな蔑みはできないことになるのだ。

私達は、唯物論的には、精神も身体も何もかもが、実は神様から与えられたからこそある、尊いものだとはあまり意識していないことが多いのではないかと思う。

しかし、上記のように考えてくると、精神も身体も何もかもが、尊く、気高く、大切な存在だということになってくるのだ。

だから、貶してはいけないし、蔑んでもいけないし、貶めてもいけないし、なおのこと、傷つけてもいけない。

人間は、精神も大事、身体も大事。

従って。

人間を貶し、蔑み、貶めるために使われる、

バカ、
アホ、
クズ、
ゴミ、
ゲソ、
ブサメン、
キモメン、
ブス、
ヤリチン、
ヤリマン、
ビッチ、
ジジイ、
ババア(もちろん BBA も同じ)、
・・・

といった言葉は、人間として使うにはふさわしくない言葉となってしまうのである。

人間だけではない。

人間だけの力では、作り出せない、あらかじめ神様から与えられたありとあらゆるものは、神様がそれなりの理由を持って作り出したものだと考えることができるのだ。(*)

つまり、神様と神様がお造りになられたあらゆるもの=見方によっては神様の化身とも取れるものは、基本的にすべて大切にしなければならないという結論になってくるのである。

つまり、地球上の生き物も自然環境もすべては神様から与えられた大切なものであり、それを有効に活用して、なおかつ、調和させるための役割が私達人間に課せられていると考えることができるのだ(逆に考えると、このような役割を果たすことのできるのは、神様がおつくりになられたあらゆるものの中で、(肉体)人間しかいない)。

神様の分霊を宿すことで、知恵と創造力を授かることによって。

こうした役割は、ライオンやお猿さんのような動物には、絶対に果たすことはできない。

だから、人間は、本来的には尊い存在なのであり、お互いに尊重し合い、協力し合い、気高く生きていかなければならないはずの存在なのである。

かなり昔の人には、物を粗末にしてはならない、大事に使わなければならない、との思いがあったようだが、これはあらゆる物資に希少性があったという理由だけではなくて、やはり、世の中にある、ありとあらゆるすべてのものは、神様があらわしたものだから、大切に扱うべきだ、使わせてもらう時には、感謝の念を抱くべきだと、無意識にわかっていた側面もあるのではないか。

そんな風に思える。

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(*)実際には、猛獣や害虫などといった存在もあるので、これについては、神様におききすることはできないので、残念ながらそのご意志はわからない。

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(追記)
「 (笑) 」も
「 w 」も
「 草 」も、
その他諸々のものも、嘲笑の意味が込められやすいので、その使用は好ましくないと考えざるを得ない。

流行りを追っているつもりかどうなのかはわからないが、こうしたネットスラング(ネット隠語)を得意がって使うことは、控えるに越したことはない。