劣等感(コンプレックス)。
人は、特に成長期がそうだが、様々な劣等感を抱え、それを他人から言われて傷つけられたりすると、どうしても、傷つけた人間に対する恨み、自らの劣等感に対する嘆きや不満などで、傷つけられた分、性格に歪みが出ることが多い。
傷つけられた分、性格も痛手をこうむってしまうのだ。
おおらかで、愛にみちた、穏やかかで優しい雰囲気ではなく、何となくトゲトゲしく、キッとしたような雰囲気のある人などを見ると、そのように勘ぐってしまう。
ああ、この人は、おそらく何らかの劣等感を抱えているな、傷つけられたことがあるな、と裏読みできてしまうのだ。
過去世のものもそれなりにあるが、やはり、今生で経験したことも響く。
なぜならば。
私達は神様の分けられたお命を本体とするところから、肉体を持ちながらも、本来は、真善美に悖らない、愛に満ちた、穏やかな状態が本来だから。
これから、ズレがあればあるほど、その差に思いが致される訳。
裏読みできてしまうということ。
せっかく家庭内で蝶よ花よ(?)と大事にされたとしても、学校や社会に出ればそうはいかない。
口の悪い人間は、傷つきやすい少年期(少女期)、青年期の心をズタズタにするような言葉を平気で口にすることがあるからだ。
子供ほど、慮る抑制が利かないから、悪口は辛辣をきわめる。
ましてや、毒親から、自尊心を損なう暴言や虐待を受けて育てば、自尊心は育ちにくく、神様のみ心のような本来ならあるところの形からは、かなり、離れてしまうことになる。
あれやこれやと満たされない、不平不満、怒り、恨み、・・・こうしたものがあればあるほど、愛に満ちた、穏やかな状態からは、遠ざかる。
ドラゴンボール Z の悟空やブロリーのスーパーサイヤ人の怒りは、あくまでも、架空の物語、お話でのもの。
実生活では、まず滅多には、あんな怒りに燃えることはない。
だから、不自然過ぎる怒りには、それなりの反動を形成する裏がある、と思えてしまう。
怒りをうまくいなすか、やはり、怒りは、最終的には消し去らなければならない。
怒りがある限り、輪廻転生を通して、各人の人生や世の中に、歪みや災いをもたらしてしまうからだ。
そういう点では、やはり、お浄めとしての祈りは重要な意義を持つことになる。
そう思いますね。