028_生活音

今振り返ると、自分は物を大切にしない人間だった。

特に自我が拡張しがちな少年期から青年期には、物を勢いよく扱い過ぎて乱暴になった。

ドアの明け閉めや物を置くのも乱暴にバタン、ドンと音を立てることが増えていった。

自我の拡張とともに、今で言うところの生活音がうるさい人間に成ってしまうところだった。

元々は気が小さく神経質で、やさしかったのだが、成長とともに傲慢になりかけていたのかもしれない。

学生時代にこうした行動をして一度先輩から注意されたこともある。その時は、こうした時期も重なってか、指摘はもっともだと思いながらも、内心「何だこの野郎」という反発もあった。

しかし、病気をして、いろいろと辛い思いをして、五井先生の本をある女医さん(ドクハラを受けた女医さんとはまったくの別人)(*)から頂き、この世の仕組みや霊的なことや輪廻転生を自分なりに一生懸命研究するようになってから、少しずつ、物に乱暴に当たることはなくなった。

やっぱり、不可抗力の苦しみはこたえる。

嫌でも謙虚にならざるを得ない経験をさせられた。

何気ない、そこそこ享受できるのが当たり前だと思っていた、健康の本当のありがたさ、周辺の人や物に対するありがたさに、思いを致さざるを得なくなった。

そして、物に対する乱暴な振る舞いも、周りに人がいれば不快感しかもたらさないし、物それ自体にも意思があると思えるようになってきた。

そう考えると、肉体人間の生命のはかなさ、物のはかなさを考え、やさしく接するせようになり、できる限り丁寧な扱いを心がけるようになった。

今、人様でかつての自分のような増長か、おそらくストレスからだろうが、物を乱暴にドカン、バタンとするようなガサツな人などを見ると、その外見上の劣等感(コンプレックス)などやそれから他人から傷つけられて受けたストレスなどから、やや、性格が歪まされたのかなと思われたような人達もいた。

中でも女性であっても、性格のたおやかさが失われると、ガサツで物に対して乱暴に当たる人がいるんだな、と思わされた。

こうした女性達の場合、ほんの一瞬の口調や表情から、内面のわがままさがうかがい知れてしまうこともある。

肉体人間をはじめとして、すべては神様のあらわしたものであり、それなりに意思が宿ると考えたら、物に当たり散らすことはできなくなる。

私は、自らの生活音がうるさいのではないか、と自ら気づかれた方が、霊性の開発をして下さることを願っている。

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(*)ドクハラをした女医さんは、自分だけでなく、他の患者さんの若い女性にも同じようなドクハラをして、大ショックを与えた話を、同室だった患者さんにあとから聞いた。多分、他にも傷つけられた患者さんが何人もいたんだろうな。

今は、医療従事者に対する暴力禁止を注意するポスターが病院に貼られているくらいだから、もうあんなことは、さすがにできなくなっているだろう。

私みたいに意気地無しや、気の弱い患者ばかりとは、限らないからな。黙って泣き寝入りする患者ばかりではない可能性は十分あるだろうから。

なお、その女医さんは、外見がどちらかというと地味な感じの人だった。

私に五井先生の本を下さった人は、まったく別の科でお世話になった人だったのだが、かなり若いのに美人で優秀な人だった。

容姿で人を決めつけるのはよくないが、この場合は、容貌と性格が比較的比例していたように思った。