137_仮想現実

とある精神世界を扱ったユーチューブの動画を見た。

それによると、この世は仮想現実だそうだ。

仮想現実にかかわる単語を国語辞典で引いてみると。

・仮想~かそう~仮に想定すること。

・仮想現実~かそうげんじつ→バーチャルリアリティー

・バーチャル~実体をともなわないさま。仮想的。擬似的。
(用例)バーチャルな空間。バーチャルな体験。

バーチャルリアリティー~コンピューターグラフィックスなどによって作り出された仮想空間が、あたかも現実であるかのような臨場感を感じさせること。仮想現実。

で、この世は仮想現実だとは、具体的にどのような内容を指していることになるのだろうか。

これはいつも書いていることからすればこうなる。

まずは人間。

私達は、ごく普通は、肉体を持ったこの生きている人間こそが、人間だと思っている。

しかし、人間の本当の実体は、本質は違う。

この肉体を有機的な生命体として成り立たせている、
摩訶不思議な力、
=摩訶不思議な命
=神様の分けられたお命
=霊魂魄という霊なる人間
こそが本当の人間。

この霊魂魄は、真善美に悖らない完全円満なものであり、霊魂魄が想い(幽体)をまとい、肉体をまとって、この世を生きていくために便宜的に与えられた自己保存の本能により、たくさんの輪廻転生を通して、溜め込んでしまった真善美に悖る想いと行いの業想念である、過去世の因縁によって汚れがつくことはあっても、霊魂魄そのものが、損なわれることはない。

従って、この過去世の因縁、特に霊魂魄に本来的にあってはならない真善美に悖る想いと行いとしての汚れは、同じく輪廻転生を通して、霊魂魄の汚れを祓(はら)い浄める=真善美に悖る過去世の因縁を清算する、という形で償わなければならないことになる。

それが主として、肉体を持った人間に、病争貧苦のような形となって、この世にあらわれてくる。

人間の本質が、神様の分けられたお命を頂いている霊魂魄である以上、たとえ自己保存の本能が与えられ、肉体をまとっていても、真善美に悖る想いと行いは、本来的にあってはならないものとなるからだ。

一時的に、仮に真善美に悖る姿であらわれていても、必ず失地回復のようにして、神様の分けられたお命という本質にふさわしい姿となるように、矯正するための過程(=消えてゆく姿)が、必然的にあらわれてくるようになっているのだ。

しかも、この世にあらわれてくる、矯正過程=償いとしてあらわれてくる病争貧苦は、輪廻転生を経るたびごとに、その原因となる記憶を消される、すなわち、過去世の記憶は消された上で生まれ変わってくるために、その起きてくる償いの原因がわからないような形になっている。

つまり、にわかには納得できないような形で、この世に病争貧苦などが起きてくるようになっているのである。

神様の世界そのままに、肉体をまとった私達のこの世が映されてあらわれているものならば、病争貧苦などの現象は、本来ならあってはならないものであるはずだ。

しかしながら、そのようになっておらず、この世は苦だ、病争貧苦があるというのは、上記の仕組みになっているためだ、と考えられるのである。

だから、人間なら、あくまでも、神様の分けられたお命である霊魂魄が人間なのであり、病争貧苦などがあらわれている人間は、本来の人間のあるべき形ではないし、そうした私達もこの地球さんの開発を任されている本来のあるべき理想的な形にはなっていない、ということになる。(*1)

自然環境の破壊に始まり、資源の争奪戦が行われてきたことが、その証左だ。(*2)

この世にあらわれてくる、病争貧苦などは、過去世の因縁、特に、真善美に悖る想いと行いを償う、霊魂魄についた汚れを浄め去るためにこの世に時間をかけてあらわれてくる、過去世の因縁の解消されていく姿(=五井先生のいうところの、消えてゆく姿)だと解釈できることになるのである。

だから、この世は、夢幻である、仮想現実だ、あくまでも、人間の本質は、実体は神様の分けられたお命である神体であり、この世を舞台として、たくさんの輪廻転生を通して流れ去る、良いことも、上記のような悪いことも、すべては、私達が肉体人間となってたくさんの輪廻転生を通して織り成した過去世の因縁の消えてゆく姿であり、最終的には神様の世界が実現させることにはなっても、中途の段階、過去世の因縁が消えてゆく姿であらわれているこの世は、未だ、本来の神様の世界の姿ではない、ということになるのだ。

人間も、生物も、物質も、ありとあらゆるものは、神様の世界そのままに反映されて、映されたものとなっていない、未完のものである限り、すべては万物流転してゆくかりそめの姿、簡単に一言であらわすならば、消えてゆく姿、ということになってしまうのである。

だから、(現段階では)この世は仮想現実だ、ということになる。

つまり、「この世は仮想現実である」とは実体は神様の世界(神界)であり、仮想空間は神様の世界が映されきっていない、未完成のこの世(現界)だ、といった内容を意味していることになるのである。

般若心経に(後に日本でつけ加えられたであろう)「顚倒夢想」(遠離一切顚倒夢想の顚倒夢想)は、このような内容を意味していると考えられるのだ。(*3)

つまり、良いものも、悪いものも、私達のたくさんの過去世の因縁が清算されていき、消えてゆく姿としてあらわれているこの世界=この世を、本物の世界だと勘違いしている、やがて映し出されて完成されるはずの神様の世界が本物となるはずなのに、転倒している=間違った逆さまの見方をしていることが、「 顚倒夢想 」だ、と。

しかし。

人間は、肉体をまとった肉体人間ではない、それに宿り、生かしている霊なる人間こそが本当の人間だとわかっているのは、真実に悟りを開いたような人だけだ。

これを感得できて、本当にわかっているのは、悟りを開いたような人だけだ。

従って、悟りを開けずに、涅槃の境地に至らない一般的な私達には、これはわからない、ということになる。

この世が仮想現実だと簡単に言い切れるような境地にある人ならば、世の中のありとあらゆることに対する執着を持たず、従って、様々に起きてくる出来事に周章狼狽せずに、超然として、しかも、穏やかな安穏の境地にいなければならないはずだ。

しかし、そんな人が、果たして、今現在、この世の中に存在するのか?

多分、ほとんどいないだろう。

万が一、いたとしても、仙人のようになって、この世とのかかわり=利害関係を極力断って、暮らしている人になるのではないだろうか。

ゆえに、言葉遊びと言っては語弊があるが、あくまでも、理屈の上で、上記のように考えることができるというだけで、ごく普通の私達には、感得できない、わからないことなのである。

だから、本来ならば、悟りを開けていない人が、軽々しくこの世は仮想現実だなどと、さもわかったようなことをいうことはできないはずなのである。

ただ、神様の善なることを信じる信仰者である限りは、上記のような仕組みを信じて、精進していくしかない、としか言いようがない。

仏教の浄土門の敬虔な祈り人である、妙好人の源左さん、才市さん、宇右衛門さんのように、神様(阿弥陀如来様)を信じきって、すべてをお任せできるような境地(=いわゆる、全託の境地)は、容易(たやす)く実現できるものとは思えないのだ。

だから、何度も何度も、神様を信じられなくなって、迷いに迷いながらも、紆余曲折を経ながらも、神様をお呼びする=祈る、とともにやっていくしかないと思うのだ。

神様を信じないことも、神様を信じることをやめてしまうこともきわめて簡単だ。

ましてや、現代はそれなりに精神世界を求める人々がいるにしても、いまだに唯物論が根深く主流になっている時代だ。

現に、世の中には、肉体の五感にもとづく欲望のおもむくままに、やりたい放題、したい放題にする場合が、ままある、というか、かなりある。

程度の差こそあれ、悟りを開いていない私達には、こうした傾向は少なくとも確実にあると言わざるを得ない。

古来からあるように、権力や財力を持つ者が、欲望のおもむくままに欲しいままを貪りまくるといった現実や、現代の一般人でも、ヤリチンやヤリマンのように、自らの欲望のおもむくままに好き勝手し放題を貪る人が世の中には確実にいるからだ。

これが信仰を求めないこと、信仰を放棄すること、あるいは、善なる心=良心がありながらも、信仰を始めないこと、という事実に反映されて、あらわれている。

しかし、善なるものを求める気持ちがある限り、すなわち、どれだけ過去世の真善美に悖る想いと行いの業想念があって、神性をくもらされていたとしても、善なるものを求める気持ちがある限り、私達は神様と無縁だとは思えないのである。

現段階で、神様を求めることをやめるか、やめないかは、個人次第(=おそらく、個人の過去世の因縁次第)だ。

あとは、その人次第なのである。

中村さん(仏教学者の中村元さん)は、その著作の中で、仏教は実践的なものだとお書きになっていた。

さしずめ、これになぞらえて言えば、私達は常日頃から想いと行い、特に元となる想いを、できる限り整えていかなければならないことになると言えるだろう。

~~~~~

(*1)ここで言うところの、あるべき人間の形とは、(想いの体の幽体と)肉体をまといながらも、本来の、本質の神様の想いと行いのできる、悟りを開いたような人のことを指している。

病争貧苦もあり、いずれ肉体は衰えて滅びるという制約を持ちながらも、決して肉体の五感にまつわる欲望に振り回されることがなく、我が身大事さのエゴイズムに走る利害得失計算にかたよることもなく、本体の神様の想いと行いそのままに、愛と調和を旨として生きていくことが、肉体をまといながらも本来の人間のあるべき形と言える。

(*2)本来ならば、人間も周辺環境も、相互にうまく調和の取れた形で共存するようになっていなければならないはずだ。

やむなく環境を使って、これを消費させてもらう、または、作業屑のように余分なものを処分させてもらう場合にも、本来ならば、感謝の気持ちを抱かなければならないはずである。

すべては、奇跡的な、たぐいまれなる偶然の連続と巡り合わせ。

しかも、その大元はすべて神様によって与えられている。

そうしたもののすべてを生かす道筋をつける権限を、私達人間は与えられていることになるのである。

神様の分けられたお命を直接に頂いていることで、知恵と創造力を授かることによって。

(*3)これに関連したことを、だいぶ前に ( おぶなより ) にすでに書いている ( 027_色即是空と空即是色 ) 。

(追記)
まあ、今回取り上げた内容に限らず、その後もユーチューブで類似の動画を見かけたが、私達がどんなに頭の中だけでわかったように思っても、理屈の上ではさももっともらしく思えても、空理空論に過ぎない。

なぜならば。

悟りを開けていない以上、私達は神様の分けられたお命である分霊という、霊なる人間こそが本当の人間だとはわからないし、一時的にはあらわれて消え去っていくこの世がかりそめの仮想現実の世界だとは、実感できないからだ。

悟りを開けない以上、人間は肉体人間であり、五感にもとづき認識されるありとあらゆる世界は、現実世界だと認識せざるを得なくなっているからだ。

だから、私達は、言葉遊び理屈遊びに興じても、現実と思い込んで、この世として一時的にあらわれている、悪いものから目をそらすべきではない。

あくまでも、こうした一時的にあらわれている未完成なこの世でさえも、少しずつ、少しずつ、できる限りの努力を重ねて、来世以降に向けて(もちろん、今生も)、完成される神様の世界を映し出した世界に向けて、前向きによい想いと行いと祈りを積み重ねていくべきだ、ということになるのである。

たとえ、途中経過だとしても、よくないものよりは、よいものであることに越したことはない。

だから、概念をもてあそぶのもほどほどにしておくべきだと思うのである。

つまり、真に悟りを開いたような人でない限り、ありとあらゆるものは波動だとか、この世は仮想現実だとかは、実感できやしない・体得できやしないのだから、そうしたものを抽象的に言葉でもてあそぶよりも、その悟りに無限億万分の一でも近づけるように、地道な修行をしていきましょうよ、と言いたいんです。

概念的な学問探究(?)よりも、日頃の地道な霊性の開発の方がはるかに大事だ、ということです。