056_変える2

前回 ( 055_変える - おぶなより2 ) 、非モテを割り切り、あきらめ、悟り切ったかのように言いながら、延々と非モテについて未練ありげに取り上げていた人のブログをネットで見かけた(はてなさんのブログ)ので、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすすめる内容を書いてみた。

だが、私の文章が彼に読まれる可能性は、残念ながらまずない。

ゼロだろうな。

申し訳ないけど、私のブログ自体が、ほとんどアクセスのない、超場末の、しかも超細流のブログなんでね。

多分、彼に見つけてはもらえないだろう。

ただ、恋愛や結婚に限らず、唯物論に嫌気がさした、飽き飽きした、ウンザリだ、といったように、もう唯物論では、いいことがほとんどない、行き詰まってしまった、となった時に、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行があることを知っておいて欲しかったんですよ。(*)

この世に生を受けていることは、神様からそれなりの働きとなる、天命を授けられてのこと。

自分の意思で、この世を離れても(後に述べるように自殺はダメですけどね)、そうでなくても(=自然に寿命をまっとうしても)、つまり、死んでも、望むように簡単に生まれ変わることはできない。

非常に残念なことに。

次はどの国(惑星?)に、こんな風に生まれるなんて、まったく指定できない。

むしろ、思いもよらない形になる方が一般的なんじゃないの?

これを預かり知るのはおそらく神様だけですよ。

ただ、来世以降がどうなるかはまったくわからなくても、過去世で溜め込んだ悪い因縁を今生で少しでも清算し、これからこの世で人としての良き想いと行いを積み重ねることで、良き因縁を新たに作り出していく以外に、輪廻転生を通しての運命好転の道はない。

そのためには、生まれる前から、そしてこの世を去った後も、見守って下さっている守護の神霊さんに感謝を捧げながら、できる限り真善美に悖らない想いと行いをするようにして、すべての人々のために祈りを捧げる。

これが、神様も何も知らない(本当はどんな人でも無意識にわかっている。窮地に陥った時に「神様!」と言いたくなるのはその証拠だから)、神様を否定しまくる唯物論者よりも、過去世の悪い因縁の、この世でのあらわれを少しでも浄めて減らして頂ける分、とてつもなく、はかり知れないほど、ありがたいことなんですよ。

なぜならば、神様も何も信じない唯物論者の人には、過去世の因縁によるこの世での償いが、まったく緩和されることなしに、そのままあらわれてきてしまうからです。

決まっている宿命は、止めようがないんですよ。

ただ、過去世のこの世にあらわれてくるはずの因縁のうち、宿命ではなく、運命として修正して頂ける余地が、祈りと感謝行で、少ないながらも、それなりにあることになるんです。

だったら、こんなにありがたいことはない。

この世の不可抗力で受けざるを得ない悪い因縁による運命に苦しんだ(あるいは苦しんでいる)人には、これがどれほどありがたいことかが、わかるはずです。

という訳で、唯物論で行き詰まり、投げ出しいような気持ちになった時に、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をして頂きたいんですよ。

既存の宗教には、排他的なものがありますよね。

しかし、肉体人間が神様の分け命を本体とするもの、神様のお命を本質とするものならば、自他を区別するのはおかしいのですよ。

どんなに、自他一体感が抱けず、相克した過去世からの因縁で対立し合っていても、肉体人間である以上は、根っ子は一つです。

神様につながっています。

なぜならば、神様に生かされているからこそ、生きていることができるからです。

肉体人間の想いで、生きたいとして生きている訳ではありません。

なぜならば、心臓をはじめとした五臓六腑は、私達が意識的に働かせているものではないからです。

何らかの不思議な力、不思議な作用によって、この肉体人間の肉体は、有機体として生かされている。

それが、私達の命の大元と考えられるんです。

それが神様と考えられるんですよ。

だから、元は一つなんです。

自他を分けることは、自他を隔てることは、こうした考え方からすると、唯心論ではなく、唯物論そのものになってしまうんですよ。

他人を神様の子と見ない。

他人を疎んじて差別をする。

他人を敵として排撃する。

これは、唯物論の考えであり、唯物論の態度そのものに他ならないのではありませんか。

肉体人間観と自己保存の本能による競争と排斥。

これに、どう対処していくか。

神様を認めるお考えならば、祈りと感謝行をして頂きたいと願います。

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(*)この世は修行です。

主として、過去世で溜め込んだ悪い因縁を清算するために、この世に生まれてくる。

だから、肉体人間としての命は有限だし、生老病死がある。

大元の神体なら、美しく、健康体そのもの、そして善なる想いと行いの自由自在の身体であるはずのところを、私達は、過去世の償うべき因縁も含めて、かなり制限された肉体人間としてこの世に生まれてくる。

神様から授かった天命と果たすべき因縁が、相当程度重なる人もいるでしょうし、そうでない場合もあるでしょう。

それはケースバイケース。

ただ、今生(今回の人生)で果たすべき因縁を果たさず=受け入れず、この世を勝手に卒業したいと命を断つこと=自殺は、過去世の今生で果たすべき因縁=修めるべき修行を中途で投げ出してしまうことになる。

神様の不思議な力で生かされているのに、自然消滅(神様のみ心)に任せず、勝手にこれを切断して、果たすべき因縁も果たさない。

だから、これは神様的に罪が重くなるし、許されないことになると考えられるんですよ。

苦しくても、つらくても、我慢してやっていくしかなさそうです。

仕方がないですね。

しかも、この悪い因縁による償いのつらさは(家族も含めて)肉体として別れた個体である他人様には、なかなか理解してもらえない。

多少の共感はあっても、本当の理解は難しい。

ちょっとでも寄り添ってもらい、真に理解を示してもらえれば、それだけでも本当に幸せ。

この世は、みんな自分のことしか考えない人がほとんどだから。

・・・。

私達は、神様の本質を肉体をまとったままで、この世であらわしていくには、さらに上、すなわち、より良き想いと行いを常に目指していかなければならない。

やはり、人生は修行ですね。

つらくても、こらえて生きていくしかなさそうです。

きれいごとを書いて来ましたけどね。

私は自分の運命に腹も立つし、正直、神様を呪いたくなることもある(自分の因縁因果かも知れないが、このような仕組みを作ったのは神様しかいないから。神様のお立場からすれば逆恨みにしか見えないことになりますけどね)。

それでもどうにもならない場合には、ひたすら我慢するしかないんです。

それもたった一つだけじゃないんです。まったく別のものが次から次へと一体どうなっているの。

最近、そのうちの一つが、不思議なことにお陰様でほぼ治りました。本来なら大感謝しなければならないのだけれど、他は、多少和らいだとはいえ、相変わらずあり、そのうちの一つはかなり逼迫してきている。

受け入れたくなくたって、生きている以上は、嫌でも受け入れざるを得ない。

どんなに、怒っても、嘆いても、叫んでも、神様を呪ってもどうにもならない。

つらいんですよ。

やはり、悟りには程遠い業想念だらけの状態だから、肉体人間観がまったく抜けないし、生きているうちに、今すぐに全部良くなってしまいたい。それは望めないことだとしても。

だから、自分のような苦しみのないたくさんの人達を見ると、悔しくて悔しくてたまらないこともある。

やはり、こうしたつらさは経験した人でないとわからない。

比較的恵まれて、順風満帆な人生を送る方には、何のことやらさっぱりわからず、実感がわかないでしょうが、こうした仕組みのことを頭の片隅に入れておいて下さい。

お願い致します。