049_渡り2

いくら私達の本質が神性で、すべてに真っ正直に生きたい、従って、何事すべて真実を知りたいと思っても、これを望むことはできない。

世の中の大半は自己保身その他が相まって、簡単には本当のことがわからないようになってしまっているからだ。

だから、世の中は建前だらけだ、と書いた。

私は数年前に、KS さんや、 SM さんといった方達のブログから、世の中をかなり深く俯瞰する視座を教わった。

SM さんのブログに紹介されていた、太田さん(思想家の太田竜さん)や鬼塚さん(鬼塚英昭さん)の本もしかり(鬼塚さんに関しては工作員だの何のという、KD さんという人もいたが、彼女には表舞台に立つ人の意味(固有の限界)が理解できていないようだ(ちなみに、KS さん、SM さん、KD さん、みんなはてなさん以外のそれぞれに異なるブログサービスを利用していた)。(*)

しかし、そのようにして世の中の有り様を深く俯瞰するきっかけが得られても、それにおんぶに抱っこという訳にはいかず、どうしても自分なりの再検討は必要になる。

まあ、そのようにして、どうにかこうにか一般的な建前とは異なる世の中の仕組みの本質をある程度理解できるようになったとしても、これに何の意義があるのか、と思うと空しくなってしまうのですよ。

極端なことを言えば、世の中を真に思い通りに良くすること(=世直し)ができるのは、悪の心を取り除いた元祖魔人ブウ(界王神達を吸収していない元々の小柄な魔人ブウ)のような者しかいない。

不死身で、何者にも侵すことのできない絶対的な力があり、天涯孤独で、良きことを実行するためには一切の執着を持たずに済み、何事にも冷徹にことを遂行することができる者でなければ、この任に当たることはできないのだ。

天涯孤独であるということは、身の回りにその身の安全を脅かされる関係者が一人もいないゆえに、心置きなく、後顧の憂いなく、世直しに邁進できるということでもある。

周囲に大切な人がいたら、思う存分腕を振るうことはできなくなってしまうからだ。

だから、天涯孤独であることと、やむなく関係者がいたら、その身の安全を保証することは絶対の要件になるのである。

これが実現できない限り、肉体人間個人が正しいと思う主張をして、これに対する賛同者を募り、それで世の中が良くできるなど、到底無理だとしか思えないのだ。

そんな生易しいやり方が通用するほど、世の中が楽天的にできてはいないと思われるからだ。

民主主義は、もちろんありがたい。

一般的な人々にとっては、封建主義や絶対主義よりは、はるかにマシだ。

しかし、その民主主義もやり方によっては、実質的に絶対主義のようにしてしまうことが可能な、非常に脆さきわまる制度なのだ。

所詮、肉体人間観に縛られた唯物論の思考を大半とする社会では、自己保身の制約を免れることは、できないからである。

だから、この世の矛盾や不都合でおかしなところをどんなにあげつらっても、批判しても、まったくと言っていいほどに意味がないことがわかってしまい、空しくなってしまうのである。

KS さんにしろ、SM さんにしろ、少し考えればこんなことは簡単にわかるはずだ。

だから、彼らが批判をやめない(今はまったく彼らのブログを見なくなってしまったので、どうなっているかはわからない。無論、KD さんのブログも)のは、気持ちはある程度理解できるものの、もしも彼らが本当にそうした甘い見通しを持っているとしたら、不可解としか言いようがない。

ちょっと考えれば、わからないはずがないからである。

強者が弱者をねじ伏せる。

あからさまではなくても、実質がこのようになっている世の中を変えることはできるのか。

自己保身に縛られ、唯物論の思考に染め上げられてしまっている人間には、まず不可能である。

今まで既得権益にどっぷり漬かってきた人が、批判されたから、良心の呵責に耐えかねて、ハイそうですかお説ごもっとも、と自らの権益を簡単に手放すことなどするだろうか。

するはずがない。

唯物論の思考では、誰だって自分の身の安泰が保証され、より良き暮らしができることを望むからである。

世のため人のためと自らを省みず、尽くすような生き方をしている人達は、おそらくかなりの少数派だ。しかも、こうした人達でさえ、別の目的を持った階層に巧妙に取り込まれ、結果として初志貫徹できないような仕組みになっている。

純粋に清く生ききろうとすれば、それこそ、初期仏教の出家修行者のようにならければならない。

従って、唯物論の思考で、生き方で、世の中を見ていく限り、もう、とっくの昔に詰んでしまっているとしか思えないのである。

弱肉強食。

強者必勝、弱者必敗。

世の中を唯物論の思考で見ていく、生きていく限り、この本質は揺るがない。

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(*)私からすると、鬼塚さんの本は、かなりの大部で、難解きわまりなく、読むのに非常に苦心惨憺させられた(太田さんの本は内容はかなり難しいのだが、読みやすさは段違いにいい)。

中々、本題に入ってくれないことも多く、お世辞にも読みやすい本とは言えない。

少なくとも、読者の読みやすさを考慮して書いていないことだけは確かだ。

内容が内容だけに、諸事情のために、故意にわかりにくく書いていたのかもしれないし、わかりやすくは書けなかったのかもしれない。

実際のところは不明だ。

これは鬼塚さんしかわからないことだ。

とにかく、読みにくかった。

鬼塚さんの本をスラスラと読めて、その内容を漏らさず簡潔にまとめ、言外に鬼塚さんの言わんとする内容まで読み取ることのできる人は、かなり頭脳明晰であり、優秀な人と言えるだろう。