口では何とでも言える。
文章では何とでも書ける。
だから、さしづめ、私達には自由が許されていると言っていいだろう。
自由が許されている?
果たして本当にそうだろうか?
確かに、現時点では、様々なことを言い、書くことはできるかもしれない。
しかし、私達の想いと行いは、原則として、世を隔てて、つまり、輪廻転生を通して、循環する。
巡る。
唯物論だけしか認めない人々が圧倒的大多数を占める現代人には、きわめて理解しにくい、わかりにくいことだけどね。
この、原則として、世を隔てて想いと行いが巡る、ということが。
言い換えると、ブーメランは、今生内、つまり、今生きているこの世の中ではなく、原則として、世を隔てて返ってくるということ。
時空間を超えたブーメランが原則。
良いもの、すなわち、真善美に悖らない、神様のみ心に適うものは、そのまま、良いものとなって巡る。
悪いもの、すなわち、真善美に悖る、神様のみ心に適わないものも、そのまま、悪いものとなって巡る。
相手がある場合には、相手方と対(セット)になって、こうした善悪の想いと行いが巡る。
ただし、自分も相手方も、時代、時代によって、様々な境遇と身体的特徴を変えて、たくさんの過去世の記憶を消されたままに。
良いものは、嬉しいこと、楽しいこと、美しいことなどとして、やったままでは済まず、必ず幸せな、好ましいお返しがやって来る。
悪いものは、嫌なこと、苦しいこと、醜いことなどなどとして、やったままでは済まず、必ず不幸せな、好ましからざる、好ましくないお返しがやって来る。
肉体人間として自己保存の本能を与えられた私達は、利己主義に陥りやすく、往々にして、他者を押し退け、損なってでも、自分の利益を確保したがるようになっている。
だから、どうしても、行いが、いわゆる悪いものに傾きがちとなることが往々にしてある。
嬉しいこと、楽しいこと、美しいことなどなどの良いものは、快くもあり、特に、あることに慣れてしまうと、当たり前のように、何気なく見過ごしがちだ。
なぜならば、私達肉体人間の本質は、神様のお命をわけ頂いている分霊という、神様そのものであり、真善美に悖らない、神体の完全円満な良い状態が、本来あるべき状態だと、無意識にわかっているから。
深層の神意識ではわかっているから。
しかし。
嫌なこと、苦しいこと、醜いことなどなどの悪いものは、そうはいかない。
嫌なこと、苦しいこと、辛いこと、醜いことなどは、本来はあるべきではない、好ましくない状態なので、どうしても快く感じる訳にはいかなくなる。
しかし、想いと行いが必ず巡ってくる以上は、仕方がない。
どうしようもない。
嫌でも、何でも、受けざるを得ない。
受けなければならない。
他方、良い想いと行いと、悪い想いと行いを、神様のおつくりになられた世界は均一なもの、悪いものは、真善美に悖るものは一切ない、仮にあったとしても、一時的で、必ず時間をかけて、そうした均一な世界に保たれるもの(失地回復は絶対?)として考えると、悪い想いと行いを生じさせてしまったら、必ず時間をかけて、同じく、反対方向から悪い想いと行いを掛け合わせて、清算するという形で、無くすようになっていると、とらえ直すことが可能となる。
このように考えた場合、悪い想いと行いを生じさせてしまったら、輪廻転生を通して、後の世に必ず償う形で、失地回復がなされるのが、神様のおつくりになられたすべての世界の根底にある、と考えることができる。
だから、肉体人間としての自分の利己主義による他者を押し退けた、他者を損ねた、勝手気ままな自由は、輪廻転生を通した長い目で見ると、決して許されるものではない、と考えることができる。
従って、輪廻転生を通しても、許されている自由は、あくまでも、真善美に悖らない自由のみ、ということになる。
そして、悪い想いと行い、いわゆる、業想念は、例外的に、守護の神霊さんが、輪廻転生を通しての実現化をしないように、浄めて消し去って下さるもの以外は、すべて受けざるを得なくなっていると考えられるのだ。
だから、守護の神霊さんのより一層のご加護を受けやすくするためにも(*)、普段からの他の肉体身として別れた同胞の安穏を想う世界平和の祈りと、守護の神霊さんへの感謝行をしておくことが、より望ましいことになる。
それでも。
そもそも、
輪廻転生を巡る、主体としての霊魂なんていうものはないのだ。
想いと行いが、世を隔てて巡るなんてあるものか、
輪廻転生なんてまったくの作り事だ、
絵空事だ、
空想の産物だ、
デタラメだ。
生まれ変わりなんかあるものか。
百歩譲って、
仮に、霊魂があり、
輪廻転生という仕組みがあるとしても、
来世以降なんか、
その時にならなければ
実感がないのだから
そんなことを今から考えても無駄だ。
無意味だ。
とにかく、
今現在、
何でも自由にできるのだから、
何でもかんでも
やりたいようにやりまくればいい。
と考えることができるのか。
それはこの文章を読まれた方次第です。
お説教めいているから、十中八九、効き目はまずないでしょう。
これまで何回も書いてきたことではあるけれど、まあ、とりあえずのご参考までに、書き記しておきます。
つまり、私達は想いの体(幽体)をまとい、肉体をまとい、自己保存の本能を与えられ、こういった神性をあらわすには、きわめて難しい条件を課されながらも、元々の神体のように立派な想いと行いができるようになるために、修行の旅に出る。
たくさんの過去世の意識もすべて消されているし、修行も何もかも忘れ果てているから、この世を肉体人間の欲望のおもむくまま、好き勝手し放題の誘惑に駆られがちになる。
神様のお命を本質として頂いて生きている以上は、これを矯正するための修行は不可欠になるということですね。
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(*)五井先生によると、唯物論者のように、私達が守護の神霊さんの存在を知らない、あるいは、認めない人でも、それにはかかわりなく、元々、この世に生を受ける肉体人間には、守護の神霊さんがついている、お守り下さっているということです。
より望ましいのは、世界平和の祈りと感謝行をすることによって、ご守護して頂きやすくすることだそうです。
ただし、お守り頂いているとはいっても、何でもかんでも、自分の肉体人間としての欲望を果たすための援助をして下さるということではなくて、あくまでも、その人の魂が神様のみ心に適うように、立派になるためにいろいろなことをされる訳なので、過去世から溜め込んできた業想念を浄めて無くすために、この世のあらわれの形としては、厳しい試練も課されるようです。
つまり、守護の神霊さんは、肉体人間のご都合主義とはまったく違う観点から、お働きになっているということですね。