185_前世療法

ひょんなことから「KKO」という略語を知った。

なんじゃこりゃ?

また、わけのわからない変な略語を作りやがって(ごめんなさい)と思って、その内容を調べてみると・・・。

K は、キモく(気持ち悪く)て、

K は、金のない、

O は、おっさん、

という内容らしい。

驚き呆れるというか、なんというか・・・。

よくもまあ、こんなひどいことを・・・。

なんというひどい言葉を作り出したのですか。

ゴブチ(傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)の略。私の勝手な造語)に近いよ、これ。

いや、同等かな・・・。

こんなひどい言葉を作り出す、そして当たり前のように使ってしまうこと自体が、霊性の開発が全然できていない何よりの証拠だし、輪廻転生(=生まれ変わり)についての理解は、ほぼ皆無に近いんだろうな。

輪廻転生を通した因果応報を、何一つ知らないからこそ、お気軽に(?)こんなとんでもなく恐ろしい言葉を作り出して使うとしか、考えられないからだ。

このような悪質な略語を作り出して、レッテル貼りをして、蔑称として使うのは、該当するであろう人達を、差別して、蔑むためだよね。

間違いなく、該当するであろう人達を、持ち上げたり、褒め称えたりするための呼称ではないよな。

最悪だよ。

最悪。

私はね。

今生では原因の思い当たらない不可抗力の病気(複数以上)で、散々、嫌な思いをしたんでね(現在も継続中。一つはどういう訳か奇跡的に治ったのだが、他の病気などがかなりきてしまっている状態)。

しかも、原因(=過去世の因縁)がわからないから苦しくてしょうがなかったんですよ。

過去世で、これこれこう、という真善美に悖る神様のみ心に適わない想いと行いや、悪いことをしたという想いと行い、といったその根本原因となるものがまったくと言っていいほどにわからないのだから。

しかも、過去世ったって、いくつものものがあるだろうし、いつの時代のどんな国での、どんなものかなんてまるっきり見当もつかない。

かくかくしかじかの過去世で、自分がこれこれこういうことをしてしまっていたのだと、納得できる、しかるべきそれなりの内容を知ることができれば、まだ、多少は仕方ないな、まあ、やむを得ないか、と納得できることになるのかもしれない(私のように頭の中だけでもとりあえず形式的に輪廻転生を理解している場合でも人によっては納得できない場合が往々にしてあるのかもしれないが・・・)。

例えば、不本意に他人から殴られることや、不本意に恋人や配偶者に浮気をされることならば、これから逆算類推する形で、自分が過去世で何をしでかしていたかはすぐにわかる(ここで言う不本意とは「自分は今生で(=生まれてから今までの間に)、相手に対して危害を加えたり傷つけたりするような悪いことを一切していないのに、何でこんな目に遭わされなければならないんだ」と言う意味。なお、これらの場合には、危害を加えてくる相手、傷つけてくる相手は、過去世において自分が身勝手に危害を加え、傷つけてしまった相手である可能性がかなり高い(理由は省略)ということになる。それが原則として輪廻転生を通すという世を隔てる形で、来世以降に違う肉体人間として再びこの世で巡り会い、今生という(来世以降から見れば)過去世となる悪い因縁の清算をして帳尻合わせをしなければならなくななるのだ。つまり、自分勝手に他人を苦しめたり、傷つけたりすれば、やりっ放し=やり逃げでは済まず、その報いは輪廻転生を通して来世以降に必ず受けなければならない仕組みになっているのである。相手から苦しめられる不条理さが理解できない(=納得できない)のは、生まれ変わると同時に過去世の記憶がほとんど消されてしまうため)。(*1)

まあ、これらのケースは、(輪廻転生にかなりの理解がある人なら)誰にでも、原因となる因縁を超簡単に類推できるケースだね。

しかし、病状から推察せざるを得ない難しい病気などは、これがよくわからない、なかなか推定できない場合があるんですよ。

だから、結果的にただ苦しむだけだから、つらくて仕方がない。

まあ、過去世の因縁を、いくら考えても、なかなか類推できないということは、あなたの場合は、それに耐えて修行しなければならないような(悪い? or 厳しい? or 重い?)過去世の因縁なのだよ、と神様が言っているのと同じことになるのかもしれないが・・・。

それにしても、せめて、原因となる過去世の内容を教えてもらえれば、少しは楽になるのに、と何度思ったかわからないよ。

前世療法なんかがあるのは、こうした訳なんですよ。

つまり、こういうことなんです。

私達は、意識の深層に神意識があるから、無意識に神様を信じているところがある。

誰でも意識の深層では、神様とは絶対に善なるものであり、真善美に悖らない、愛と勇気に満ちたもの、愛そのものである、とわかっているんですよ。

従って、こうした神様のおつくりになられた私達肉体人間も、当然のこととして、神様の映し身として素晴らしい存在となるはずである、とわかっているんですよ。

神様がその映し身として、この世にあらわした存在ならば、悪いものをおつくりになるはずがないからです。

悪いものがあったり、不完全な形でこの世にあらわれるものがあるのは、私達を通してこの世を開発して神様の世界を映し出したような素晴らしい世界をつくり上げる便宜上、私達に肉体とともに自己保存の本能が与えられたので、輪廻転生を通して過去世で積み重ねてしまった神様のみ心に悖る想いと行いを償うため、ということになる。

この世的にどのようにあらわれていようとも、あくまでも、肉体人間の本質は、神体という霊なる人間という素晴らしい存在なのですよ。

そして、私達の良心の源は、これまた当然に神体、すなわち、神様のみ心にある、ということになります。

それこそ、私達が肉体人間となり、輪廻転生を通して作り出した想い=過去世の因縁の蓄積される場となる潜在意識も通り越した、奥の奥の、深い深い底のところに。

なぜならば、私達肉体人間の本質は、本体は、神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)であり、これが根っこになっているのだから。

神界から現界(この世)まで、ありとあらゆるものは、波動だとすれば、大元の波動は神霊波動(霊妙波動?)になるというように。

人間で言えば、神霊波動は限りなく微細な波動で、肉体波動はきわめて粗く愚鈍な波動であるというように。

だから、肉体人間の顕在意識ではこの神意識(神霊意識)での認識を(悟りを開いていないから)気づかなくても、この世にあらわれている、不条理なことや、不幸や災難は、本来的にはないものだ、とわかっている。

無意識的に。

深層の奥の奥の、深い深いところで。

ただ、

肉体人間として

すなわち、
肉体をまとって
この世に生まれて、

自己保存の本能を追加されて、 
輪廻転生を繰り返すうちに、

この世の顕在意識としては
肉体そのものが人間であると
次第に思い込むようになり、

いわば、
人間=肉体だとする
人間とは肉体人間のことであるという、
顕在意識での想いのクセがついてしまって、

こうした不条理なことや
不幸や災難が(神体としての自分に)
本当にあるように思い込んだ状態

神様の分けられたお命である分霊
=神体こそが本物の自分であり、

神様の世界が、
または、
神様の世界がこの世に映され切って
完成されたところの、
地上天国化が成就された世界が、
実体であるにもかかわらず、

この世での顕在意識においては、
神様の分けられたお命そのものの
霊なる人間ではなく、
肉体人間を自分だと取り違えて思い込み、
そして、
この世を実体だと取り違えて思い込む、

すなわち、
この世というものは、
良いことも悪いことも何もかも(=ありとあらゆるもの)が、
一時的にあらわれては
時間の経過とともに必ず消え去ってゆく、
すなわち、
ありとあらゆるものは、
いわば、
かりそめの姿に過ぎない

そのかりそめの姿は、
一時的には確かにあらわれてはいても、
時間の経過を経れば
結果的に必ずすべてなくなる、

これを煎じ詰めて言うと
こうしたかりそめの姿は、
(五井先生の言うところの)「消えてゆく姿」である、
ということが、
わからなくなってしまっている状態( 137_仮想現実 - おぶなより2 )、

つまり、
般若心経に言うところの
「顚倒夢想」をしている状態、

すなわち、
神様の世界である、
神界が実体(本物)であるはずところを

あるいは、

この世に神様の世界が映されて完成した
地上天国化が成就された世界が
本物の世界=実体であるはずのところを

かりそめの姿である
仮想現実とも言うべき
一時的にあらわれるにはあらわれるが
時間が経つと必ず流れ去ってしまう
消えてゆく姿となるこの世が
実体(本物)であると

あべこべに取り違えて(=顚倒)
間違った逆さまの認識をしている(=夢想)状態、

要するに、
悟りを開けない状態になっている
(=これが私達のようなごく普通の一般的な状態)
と、

この世において
不条理なことや
不幸や災難に遭うことが、
苦しくて仕方がない。

ましてや、
神様の視点からすれば
仮想現実である蜃気楼のような

地上天国化が成就しない
いまだ中途の過程の
未完成のこの世でも、

肉体人間を真の人間ととらえる
顕在意識の視点からすれば、

一時的にあらわれても
時間の経過とともに
必ず消え去ってしまう
ありとあらゆる五感に感じられる
かりそめの姿、
仮想現実である、
蜃気楼のようなこの世も

実体のあるものとして見えるし、

その仮想現実なり、蜃気楼なりに
自分より恵まれているように見える
たくさんの人を見るにつけ、
ますますこの思いはつのってしまう。

なぜならば、
悟りを開けない私達一般人は

人間とは肉体人間であるという

顕在意識での肉体人間観に縛られてしまっている
(肉体=人間であるとの顕在意識における想いのクセがついてしまっている)ために、
人間とは肉体人間に他ならない存在であり
五感で認識できる、(神様の視点から見ての)仮想現実とされるこの世を
神様(や悟りを開いた人)とは違って、
実体=本物だと認識してしまうからだ。

つまり、
神様の視点である、
悟りを開いた状態から見たこの世が、
一時的にはあらわれても
必ず流れ去り消えてゆく

神様の光がこの世まで
通り切っていない、
神様の世界がこの世に
映され切っていない、
地上天国化が成就しない、
中途の過程となっている、
いわば、かりそめの姿
という仮想現実だとわかるのに対して、

悟りを開けない
私達一般人から顕在意識で見たこの世は、
肉体の五感で認識できる
今生の現時点そのままが真実の世界に思えてしまう、

ということ。

しかも、
こうした私達一般人にも
意識の深層には
悟りを開いた境涯に通じる
神意識があるので、

(深層の神意識からすれば)あるべきはずではないものがあらわれて、
しかも、
(顕在意識からすれば)肉体人間を本当の人間だと思い込んでいるから、
肉体にまつわる五感で認識されるあらゆる不条理なもの、
例えば、痛さなどの様々な苦しみをはじめとする不幸や災難が
つらくて仕方がない。

つまり、
潜在意識を通り越した深層の神意識と、
顕在意識との間に、
認識の混淆が起こることで、
論理的な齟齬が生じてしまい、
これで苦しむことになってしまう
訳です。

その齟齬となっている、
そのわからない内容をひもとくことが、

そのわからない内容の
原因となる過去世のありようと、
結果としての今生のありようとの、
因果関係を解明することが、

つまり、
過去世にこのような原因があるから
今生にこうした結果が起こってくるんだよ、と
わからせてあげること、

これが
過去世の因縁をつまびらかにすることによって
ある程度可能になる訳です。

そうして、今生で苦しんでいることの原因を明らかにしてあげることによって、苦しんでいる人の負担を少しでも軽くしてあげるんです。

過去世での神様のみ心に適わない(想いと)行いが原因となって、それを来世以降に償わなければならないと神意識ではわかっていても、

過去世の記憶をなくして今生に生まれてきているから、肉体人間としての顕在意識ではそれがわからなくて、納得できずに苦しんでいる、

その苦しみを過去世での(想いと)行いを該当者(=本人)に教えてあげることによって苦しみを解きほぐすように試みる訳です。

今生で、今現在、悩み苦しんでいることの原因は、過去世においてのそのような事実にあったのか、そういう訳だったのか、とわからせてあげるように仕向ける訳です。

自分でも不可解な自分を責めるようなことをしてしまったり、
自分の理性ではおかしいとわかっていながらも、わざわざ自分を傷つけ追い込むような行動をしたり、

はたまた、

他人からいわれもなく、謗られたり、心を傷つけられたり、損なわれたりした、

そうした、自分の意志の力だけではどうすることもできなかった悩みや苦しみの背景をわからせてあげるようにしていく訳です。

そのようにすれば、今生での自らの行為の中に、(それなりの報いを受けなければならないと思われる)原因となるものが、何一つ思い当たるものがなく、訳もわからずに、ただただ苦しんでいるよりは、ずっと楽になるはずです。

だから、前世療法にも、それなりの効果があるんですよ(その時点で輪廻転生の仕組みをかなりの程度納得するだけの過去世の因縁があることが条件となるが)。

とは言うものの。

宿命通のような特別な能力がないとわからない(=読み取ることができない)んですよ、こうした因縁因果の全容は。

ちょっとした霊感があって、たまたま、過去世の原因となるありようがわかり(これがわかるのも過去世の因縁によると考えられる)、または、そのような霊感のある人に会えて(これもやっぱり過去世の因縁によるものと考えられる)、少しは楽になった、多少は気持ちが救われたという程度では、万人に通用する処方箋とはならないんですよ。

やっぱり、過去世の因縁を含めた上で、すべてを解決する、あるいは、解決する方向に少しでも近づけていくようなあり方を、それなりに行じていくしかないことになるんです。

世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行は、そのためにこそ、あるような気さえするんですよ。

とにかく。

私達一般人は悟りを開けない以上、
この世での顕在意識では
人間は肉体人間だと思っているし、
輪廻転生も真から信じられない(=過去世の自分の真善美に悖る想いと行いがわからないから)し、
唯物論にも振り回されているし、
世の中の様々な不条理なことも、
(神様の思し召しと)素直な感謝で受け入れることができないのが普通だから、
想いを整えるためにも、
因縁因果をよくするためにも、
世界平和の祈りと守護の神霊様への
感謝行をするべきだ
と思うんですよ。

閑話休題

まあ、KKO という言葉を使った報いは、多分病気にはならないと思うけどね(みんなそれぞれに過去世が異なるから、どのような形になるかは決めつけることはできないけれど。おそらく、ケースバイケースで守護の神霊さんのお導き次第になると思われる)。

私は、とてもじゃないけど、妙好人の宇右衛門さんみたいに偉くはなれないから、病気特有のつらい思いや苦しみや悩みは、正直言ってもうこりごりなんですよ。

病気で悩み苦しむつらい修行をありがたいなんて、妙好人の源左さんや宇右衛門さんよろしく、阿弥陀如来様(神様)に対して、「ありがとうございます」なんて無垢な赤ん坊のように素直に感謝することなんてできないし、神様も信じられない。

病気に伴う精神的な苦しさや肉体的な苦しさやその他のつらさがあるから、苦しむのはやっぱり嫌だ。

だから、とてもじゃないけど、源左さんや宇右衛門さんのような敬虔な信仰者にはなれない。

ただ、病気に対する生き方そのものではないけれど、宇右衛門さんの感謝一念で、周りの人を感化して、神様の子として目覚めさせる素晴らしい境地は、もう天上人みたいなもんだよね(五井昌久著「生きている念仏」(白光出版) 参照)。

宇右衛門さんはまさに宗教信仰者の鏡(=素晴らしいお手本という意味)と言っても過言ではないから。

という訳で。

私は、とてもではないが、こんな恐ろしい言葉(「KKO」のこと)を作ることも、使うこともできない。

輪廻転生を考えたら、こんな言葉を作り出して使った報いは、驚倒するような内容に思えてならないからだ(あくまでも私の想像にしか過ぎないけどね)。(*2)

たとえ、他人から、来世以降なんて、現世の記憶は過去世の記憶として消されてしまうんだし、その時に何もわかりゃしないんだし、苦しみの想像なんて来世以降の時点でのことになるんだから、今から心配したってしょうがないじゃないか、どうでもいいじゃないか、と言われたとしてもやっぱり嫌だ。

たとえ、来世以降の時点で、過去世の記憶がなくたって、つらい思いをすることになるのに変わりはないし、苦しむのはこりごりだから、来世以降に悪影響を及ぼすことは、何としても避けたい。

だから、私はこうした KKO のような侮蔑表現を安易に使うことは絶対にしたくない。

つまり、この世での苦しさやつらさを身に沁みて味わったから、たとえ生まれ変わることがあったとしても、もう二度とこんな類いの経験はしたくないの。

でも、ごく普通にああした言葉を使いたがる人はそうじゃないんだろうな。

せいぜい、今生で、もしかしたら、いずれはしでかしたよからぬことの報いが来るかもしれない、と漫然と思っているだけなんじゃないのかな。

だから、多分、魂の学習として、この世でそれなりの身に沁みるようなつらく苦しい経験をしないと、わからない人が多いんだろうな。

やはり、過去世で、かなりの苦労をしていたり、霊性が開発されていないと、わからない可能性が高そうな感じがするね。

結局、唯物論の思考に縛られていると、本当にどうにもならないんだろうな(おそらく過去世からの因縁因果のためにこのようになっていると思われる)。

それにあの内容の中には、自分にもかかわる部分があるからね。

まあ、仮に自分に言われたとすれば、蛙の面に水(下品な言い回しだと小便)だから、ただ受け流して(感謝ができるならばして)、できれば、世界平和の祈りとともに、こんな言葉を発したお相手の天命を祈るしかないけどね。

でも、おそらく、これを何気なくできるようになるまでには、かなりの修練が必要になるんじゃないのかな。

やっぱり、人生は修行ですね。

~~~~~

(*1)「過去世の記憶がほとんど消されてしまう」と書いたのは、この世での顕在意識でははっきりとはわからずとも、何となくという形で過去世で相手と自分との間にあったことが感じ取れる場合があるから。

例えば、過去世でいじめにいじめ抜かれた相手、散々な目に遭わされた相手は、顔を見るだけで、何となく虫が好かない人間だ、何となく気に食わない人間だ、嫌な人間だと感じることになるらしい。

逆に、過去世において自分によく尽くしてくれた、たくさんよくしてくれた相手には、何となく感じがいいな、好ましいな、と感じるようになっているらしい。

だから、過去世の記憶が消されてしまうといっても、完璧に消されるとはならないようだ。

どういう訳か、うっすらとした過去世の記憶の残滓(?)があるんだね。

過去世の記憶が完璧に消されるものとするならば、このように感覚的に感じることは、起こり得ないはずだからだ。

といった次第で、輪廻転生という生まれ変わりを通して、今生から来世以降へと世を隔てると、「過去世の記憶がほとんど消されてしまう」と書いた。

なお、なぜ、このような過去世の記憶が完璧に消されるようになっていないのか、過去世の記憶の痕跡が残されたようなケースがあるのか、神様がどのようなお考えのもとに、このようにされているのかの理由はわかりません。

また、ここでは、六神通(中でも宿命通)のような神通力を持つ悟りを開いた人や、ある程度霊感があり、それなりに過去世を読み取ることができる人は、除外している(もちろん、こうした人達にも同じような感覚はあるんだろうけど)。

(*2)なぜ、このようなことを言うのかは、私のブログを読んで頂きたいところ(例えば、 ( 011_気高い - おぶなより2 ) 、 ( 162_原理 - おぶなより2 ) など)だが、それは到底無理だろうから、手近な霊性に詳しい人で、人格者と感じられる人に質問されるようにおすすめしたい。

私のこの文章に縁があった、たどり着けたということは、きっと、そうした人からも何かしらのヒントは得られるはずだと思うから。

より詳しく言えば、お読みになった方(かた)がこの文章にたどり着いたのは、その方の守護の神霊さんのお導きによるものだ、と考えられるからです。

なので、守護の神霊さんは、何らかの形で、このような輪廻転生の仕組みを知らせるために、引き続き、他のより適切な方に読まれた方を導かれると思われるからですよ。

霊性のことや、輪廻転生の仕組みを信じることができるか否かは、その人の過去世からの因縁因果次第(だと思う)。

現在の科学の段階では、唯物論者を完全に納得させることができないと思うからだ。

というのは、現時点での過去世の因縁因果のありようが、霊性や輪廻転生を(たとえ頭の中だけだとしても)それなりに理解できる段階にまでいたっていなければ、どんなに、個人の体験談などで、周辺前後の状況証拠を揃え、理詰めで納得させることができるようなケースであったとしても、決して納得させることはできないからだ。

因縁因果の壁を破れなければ、本人は決して納得することはないのである。

どんなに、理屈の上では納得せざるを得ない、霊性や輪廻転生についての個人の体験談などの材料を突きつけても、(まだ因縁が解消される時期に到っていない)本人は、はぐらかす(?)なりなんなり(?)して、意地を張って、決して霊性や輪廻転生を認めることはしない。

つまり、唯物論の理屈だけでは、因縁因果の壁を破ることはできない、ということ。

という訳で。

量子力学の進歩や神様のみ心(=ご判断)次第だとは思うが、現段階ではいまだこのような状態だね。

なお。

驚倒は、あまりにも大袈裟過ぎると思われる方がいるかもしれないが、あくまでも私の個人的な主観なんでね。

強いて言えば。

拙稿 ( 011_気高い - おぶなより2 ) をよく読んで納得して下さった方ならば、私が言わんとしていることも、ある程度はおわかりになる(=ご想像がつく)と思いますよ。

なぜ、想像される内容を書かないかは、 ( 011_気高い - おぶなより2 ) の冒頭に記したように、あまり否定的(ネガティブ)なことを書いて、読まれる可能性のある方に、不安や恐れを抱かせるのが嫌だから。

~~~~~

(追記1)
私は、早く世界が平和になってほしい、安穏になってほしいという自分勝手な欲望があるから、こうしたことをしたためている。

なぜかというと、生来、小心者で臆病だし、人間=肉体人間観に縛られているから、(皆さんと同じように)霊なる人間が本当の人間だとは思えないからだ。

私がはてなさんのブログで書かせて頂いていることは、五井先生の著作を読み込んで、その内容を敷衍または拡大解釈などをした上で、頭の中でとりあえず理解していることに過ぎない(残念ながら)。

だから、不安や恐怖を感じさせられる世の中や、その元となる争いやいさかいに満ちた人々のありようを見ていると、どうしても一言言いたくなる。

できれば、今生のうちに、不安や恐れのない、安心できる世界になってほしいのですよ。

つまり、臆病者のエゴで、早く世界平和が実現して欲しい訳です。

本来ならば、世のため人のためを思って世界平和を願うべきところだけど、そんな高邁な心境には、とてもじゃないけどいたれない。

まだまだ、道ははるか彼方です。

とにかく。

不安にさいなまれながらも、想いを乱しながらも、周章狼狽しながらも、ほんの少しでもいいから、想いを乱さないように努める。

自力で想いとなる感情を無理矢理押さえ込んでも、今生か、来世以降になるかはわからないが、輪廻転生の過程に乗って出てきてしまう。

自分でその感情の結果を受け止めることになるか、もしくは、祈りによる守護霊さんのお浄めで感情を消して頂くより他はない。

であるならば、祈りによって乱れた想いを消し去って頂けるものならば、この方がいい。

因縁因果にも悪影響を及ぼすことがないからだ。

たった一人でも、何十億人分の一人でも、その個人個人の想いの集積が、個人個人の輪廻転生の集大成が、結果として世の中の流れになるのであれば、やらないよりはやった方が絶対にいい。

どんなに微力でも、たった一人でも、なるべく想いを乱さないように努めたい。

世界人類の平和を願っている。

~~~~~

(追記2)
五井先生(日本の宗教家五井昌久さんのこと)は、体得して真からわかりきっているから、
「消えてゆく姿」
と一言で済ませるんだろうけど、これは私達一般人の悟りを開けない人間にとっては、決して真からはわからないことなんですよ。

般若心経や生長の家の言い回しほど極端(=ぶっきらぼうで不親切に過ぎるという意味)ではないにしろ(=般若心経や生長の家の言い回しをかなり手前に引いてきてわかりやすくしてくれているとはいえ)、やっぱりちょっとわかりにくいところがある。

この世は、この世にあらわれてくる様々なことは「消えてゆく」とはいっても、一時的には必ずあらわれるものだから、これを「消えてゆく=消えてしまう」(般若心経や生長の家だと「ない」ともっと極端)とつづめてあらわしてしまうことは、やっぱり、悟りを開けない一般的な私達にはわかりにくい。

「消えてゆく姿」という言い方は、確かに般若心経や生長の家よりは、はるかに親切な言い回し(=表現)ではあるけれど、悟りを開けない、人間は肉体人間ではなく霊なる人間こそが本当の人間なんだ、とはわからない、この世がかりそめの仮想現実であり、消えてゆく姿だとは感得できない私達には、完全にわからせるにはちょっと無理があるのではないですかね。

非常に残念なことではありますが。

「ない」、「消えてゆく」といくら言われても、肉体人間が本物の人間だと思い、五感に感じられるものは本物(一時的にせよ、消えてゆかない、ある)だと思う、悟りを開けない私達には、どうしてもピンとこない。

まあ、「消えてゆく姿」を私流に直訳させてもらえば、
「過去世の因縁が
今生となる、
今現在のこの世において
時間をかけて解消されてゆく姿」
になりますけどね。

しかし、これを完璧に理解するには、普通のこの世の肉体人間が、
前世、前々世、前々々世、・・・の総まとめとしての過去世を経てきていること、
すなわち、たくさんの輪廻転生を経て今現在の今生があること、
しかも、
そのうちのどの過去世のどの因縁が
今現在の今生の有り様に反映されているか、
場合によっては、
複数以上の過去世にもなるのか、
などなどを完璧に読み取れて、
真から(=心身ともに)感得できなければ、
輪廻転生という生まれ変わりを肯定することはできない。

輪廻転生を万人に納得させるためには、万人の顕在意識とその深層の神意識を含めたすべてに通じて、これを説得できるに足りる内容を提示しなければならないからだ。

今現在のような、悟りを開いた人さえほとんどいないと思われるような状況や、量子力学の段階では、到底無理だとしか思えない。

従って、今現在はまだ、輪廻転生は信じるか、信じないかは、人それぞれの過去世の因縁によって分かれてしまう段階だとしか考えられない。

しかも、過去世といっても、単一の霊魂魄の話というだけではなくて霊魂魄の分割や結合までがあるから、さらに話がややこしい。

もう、ここまでくると、超難解の極みですよ。

こんなに、複雑怪奇(?)では、私達一般的な人間に、一個人の輪廻転生さえ、その概要はわかるはずもない。

悟りを開いて、こうした複雑怪奇(?)で込み入った内容さえも、直感的に一瞬にしてサッとわかるような境涯になっていなければ、お話にならない。

つまり、悟りを開いたかなりの人格者で、六神通をそなえたような、完璧な宿命通の能力を持った人でなければ、輪廻転生は感得できない。

悟りを開けない、一般的な私達には、輪廻転生を感得することはできないんですよ。

さらには、こうした六神通をそなえた人がいたとして、いくら完璧な過去世を読み取れても、これを教えてもらえるとは限らない。

過去世を知りたい人の状態によっては、六神通をそなえた人が、(恐れを抱かせるなどの悪影響などがあるから)その人に過去世を知らせるべきではない、と判断したら、過去世の内容を教えてもらうことはできないことになると考えられるためだ。

だから・・・。

この世は、仮想現実だ、かりそめの姿だ、消えてゆく姿だ、とどんなに言葉を尽くして、上記のようにくどいほど説明を試みても(ごちゃごちゃしているかもしれないが、私としてはあれでも考えに考え抜いて精一杯言葉を尽くした)、私達には真からわかることは、やっぱりちょっと無理があると思うんですよ。

悟りを開けない以上は。

だから、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行で、霊性の開発をしながら、「ああ、そういうものなのかもしれないな」とおぼろげながらでも納得するような状態のまま、精進していくしかないのが現状だと思いますね。

逆に言うと、般若心経や生長の家の言う「ない」、そして、五井先生の言う「消えてゆく姿」が心身ともに完璧にわかった、感得したと言える境涯なら、悟りを得ているとも言える訳です(こうした人は、ほとんどいないと思われる。ましてや完全無欠な人は。なぜならば、万が一仮に完全無欠な人がいたとしてもそのままでは表舞台に出続けていることはできないからだ。それを可能にするためには特定の要件を満たす必要がある)。

従って、今後どのようなことになるかは、量子力学の進歩を含めた神様のご判断次第になるのではないか(もっとも神様の中では何もかもがすべてご予定済みなのかもしれないが)、と考えられる訳です。

私がいろいろと書いてきたことは、あくまでも頭の中だけで理解できたことなので、実感(体得)できないのが何とも残念なところです。

なお、退行療法(退行催眠)についてはあえて触れていない(理由は省く)。