118_負け惜しみ

読まれた方に真善美に悖る想いと行いの業想念を抱かせる可能性があるので書かなかったが、やはり、建前というか、綺麗事ばかりでは、本音というか、抱いていた疑問を隠したままでいることになってしまうと思えるものがあるので、一応、記しておく。

以前に、アクセスの少ないブログを書くに当たっての心構えをいくつか書いた。

ただ、あの建前のように見える考え方だけではなくて、実は別の考え方もあったことも事実なのよ。

業想念になってしまうかもしれないが、これも書かずにおくのは隠し事をしているようで、あまり気分が良くないのこと、そして、正直とはならなくなってしまうので、やはり、記しておくべきだと考えた。

その疑問も踏まえた上で、やはり、あれらの心構えが最終的な結論であることには何ら変わりはないんだけどね。

私の抱いた疑問、それは、「アクセスの多いことの価値」についてだ。

本当にアクセス(はてなさんのブログならはてなブックマーク)が多いことだけが、絶対に良いと言えることなのか?

絶対の正義(?)なのか?

Google の検索アルゴリズムに適するように、本来の内容に手を加えて、内容を加工することが、本当に良いと言えるのか?

バズれば、あるいは、人気さえあれば、それだけでいいのか?

いいねをたくさんもらうことが、本当に良いことなのか?

要は「何をもって良いこととするか、価値があることとするか」なのだが、ブログの場合なら、とりあえずは、読者に必要とされる情報を提供することがあげられるだろう。

もちろん、必要とされる情報には、取扱説明書や製品選びのような技術的なものだけではなくて、読者の気持ちに刺さる、あるいは、寄り添うような感情に訴えるものもあるだろう。

ただ、これはまた個人的な独断と偏見になってしまうのだが、はてなさん以外のちまたのランキング上位の記事をいくつか読んだ時に、うーんと思ってしまうものがあったのも確かなのだ。

「微細なアクセスしかない痴(し)れ者が、何を言うか!」と怒られてしまうかもしれないが、そう感じられたものがあったのである。

そんなことを言うなら「じゃあお前は一体何がいいと言うんだ?」と聞かれそうだね。

答えを簡単に言ってしまうと、私が考える良い内容とは「読む人の霊性の開発に資するもの」だ。

よって、一番まずいと思うのは、真善美に悖る想いと行いの業想念だらけの、罵詈雑言や悪口雑言だ。

書いたご本人の輪廻転生に悪いものしかもたらさないばかりでなく、読んだ人の想いも乱すために、読んだ人の輪廻転生に対しても悪い影響を及ぼすことが必定だからだ。

もう 1 つは、読む人に不安や恐怖を抱かせるもの。

こういった文章や動画をやたらに出す人がいるが、私は軽率だと思わざるを得ないんですよ。

なぜならば、人間の想いは、原則として世を隔てて、輪廻転生を通して、この世にあらわれてくるからだ。

守護の神霊さんのお浄めで消して頂けるもの以外は、原則として輪廻転生を通してこの世にあらわれてくるようになっているからだ。

不安やおそれは、それが確実に対策ができて、無事に対処できるものならば、まだ、警告という意味で意義があると言えるのかもしれない。

しかし、どう考えても、対処のしようがないことを、人々の想いに植えつけるのは、悪いことにしか思えないのだ。

何の責任もとれる訳でもなく、人々に不安やおそれを抱かせる。

こうしたことは、やめてほしいのですよ。

要は、早く地上天国化に向けて世の中が進んでほしいんです。

その妨げとなるものが、肉体人間が抱く業想念。これが増えれば増えるほど、輪廻転生を通して巡る病争貧苦も増えることとなり、地上天国化は遠のくことになると考えられるから。

この世のかなりの出来事が、いくら過去世の因縁の時を経て消えてゆく姿(=業想念の輪廻転生を通して巡る姿、または、業想念を相殺するためにあらわれる病争貧苦としての姿)だとしても、なかなか、素直にこのように納得するまでには、それなりの修行(霊性の開発)が必要だし、理解すること自体がそもそも難しいのでね。

だから、霊性の開発に資するものを少しでも増やしてほしいんですよ。

もちろん、読む人の利便性に資するものもいいだろうし、たまの息抜きのような娯楽の内容もいいだろう。

ただ、読んだ人が、肉体人間というものは、やはり、本質に神性をそなえているんだな、人間とはいいものなんだな、互いに尊重し、慈しみ、愛し合い、調和をはかっていくことこそが、私達の本当のあるべき姿なんだな、と改めて、魂に染み込むというか、訴えかける内容の作品(文章でも、絵画でも、写真でも、音楽でも・・、つまり、肉体人間の創作物一般なら何でも)なら文句なしなんじゃないのかな。

それが、ひいては巡り巡って遠い将来の神様の世界の実現に資することになると思えるから。

とは言うものの、残念ながら、自分にはまったくこうした内容が書けたことがないし、アクセスも微細なので、正真正銘の負け犬の遠吠えになってしまうのだが、自分の考える良い内容は、このようになります。

という訳で、「アクセスなどの多寡だけがすべてなのか」について個人的に疑問として感じていたこと、考えていたことは以上です。