135_あるがまま5 ー 頂き直す ー

前回 ( 134_あるがまま4 ー 智慧の実践 ー - おぶなより2 ) で、何事をはじめるに当たっても、まずは祈りをして、常に神仏からあらゆることを頂き直すつもりでやっていく、と書いた。

今までにも再三再四書いてきたように、私達肉体人間(以下、人間または人と略)は、その命から、肉体=身体から何から何まで、神様から頂いている。

もちろん、地球さんをはじめとした、ありとあらゆる周辺の環境も頂いている。

つまり、神様は造物主だから、元々、ありとあらゆるものは、神様から頂いているのである。

ところが、肉体を与えられ、この世で生きていく便宜上、自己保存の本能を与えられた私達は、どうしても、自分中心のエゴイズム(利己主義)に走り、真善美に悖る想いと行いの業想念を輪廻転生を通して溜め込むようになっている。

そのたくさんの過去世の想いと行いが、この世での私達のあり方のかなりの部分を規定し、また、さらに今生でも過去世の因縁とは別に新たな想いと行いもエゴイズムに走りやすい。

だから、この過去世から規定されて今生あらわれてくる想いも、今生から新たに作り出す想いも、そのすべての一切合切をリセット(ご破算に)するつもりで、神様にお返しするつもりで、祈りをする。

すべての想いを、いったんリセットして、神様から頂き直すつもりで祈りをするのである。

どうしてこのようにするかというと、上記のように、私達は自らの命から身体から周辺環境から、何から何まで、元々は神様から頂いているからだ。

要は、すべては神様から始まっているのだから、自分自身の想いも、過去世から溜め込んでしまった業想念も含めて、改めて神様という出発点に立ち戻って、想いを浄めて頂いて、再出発する気持ちで、まずは祈りから始めるのである。

つまり、祈りをすることによって、自分を少しでも神様に帰一させるように、努めるのである。

私達の行動には、それに先立って想いがある。無意識であるか否かにかかわらず、必ず想いが先に立つのだ。

意識的であるにしろ、無意識であるにしろ、この想いが過去世のものが今生にあらわれたものであれ、今生からのものであれ、ありとあらゆるすべての想いを、神様にひとまずお返しすることによって、自らを神様の下に帰一させるようにするのである。

つまり、「南無阿弥陀仏」や「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉は、「神様!」と神様を呼んで、(このような未熟で至らない罪悪深重の凡夫の私(わたくし)でも)どうか神様と一つにならせて下さい、と願う祈りだ、と解釈することができるのだ。

そうすることで、そこから改めてすべてを始めるようにして、生き方を変えるように努めるのである。

とは言うものの、事は一筋縄にはいかない。

そうして神様(守護の神霊さん。人間の過去世からの運命の修正のご加護は守護の神霊さんのお役目だから)に浄めて頂いても、過去世の因縁によっては、どうしても今生で果たさなければならないものは、修正の恩恵には預かれないだろう。

それでも、ほんのわずかでも修正の恩恵に預かれるものかあれば、これによって想いを徐々に修正していきながら、少しずつ改善していくように、地道な努力を積み重ねていく。

このようにして、普段からの想いと行いを、徐々に徐々に、矯正していくように努める。

そうした中から出てくる知恵ならば、時間はいくらかかっても、やがては、徐々に良きものになるように、変わっていくはずである。

こうして、ごく普通の知恵を智慧に少しでも近づけるように、地道な努力を積み重ねていく。

これが前回書いた「頂き直す」ことの意味合いである。

これが、地味で、根気の要るやり方ではあっても、信仰に無理が生じ難い、易行道のやり方なのである。