085_一助

私達の本質は神性だ。

地球さんを開発して、最終的に地上天国をつくること、すなわち、神様の世界をそのままに、この世の地球世界に映し出すために、便宜的に、肉体と自己保存の本能を与えられ、どんなに、自らを中心としたあらゆる利益を最大化する利己主義にまみれて生きているように見えたとしても、その根っこには神性、すなわち、神様が宿っているのだ。

分け与えられた神様のお命が宿っているからこそ、この肉体は有機的な生命体として機能することができるし、そうしてこそ、私達は生きていくことができている。

そのようにして生きている私達は、肉体と自己保存の本能という利己的に生きる傾向を与えられてはいても、その本質を違えることは許されていない。

例外的に許されているのは、守護の神霊さんのおはからいによる救済しかない。

だから、肉体人間として、真善美に悖る想いと行い、つまり、業想念を新たに生じさせてしまったら、原則として、世を隔てて生まれ変わる、すなわち、輪廻転生を通すといった形で、清算されることを余儀なくされてしまう。

しかも、基本的には、数々の輪廻転生を通した様々な人生での記憶、すなわち、あまたの過去世での記憶は、原則として消し去られた形で、次の世以降に生きていくことになる。

つまり、仏教でいうところの、六神通の一つ、宿命通という特別な能力がない限り、私達は過去世で何をしでかしてこの世に生を受けているかは、わからないようになっているのである。

この世で肉体を持つがゆえに、生老病死を避けることができず、また、様々な過去世で積み重ねてしまった真善美に悖る想いと行いである業想念のために、病争貧苦も免れることはできない。

つまり、この世は苦だ、というのは、本来の神体にはないはずの、生老病死と病争貧苦を生じさせる原因となった、輪廻転生を通して過去世から積み重ねてきた業想念を浄めて、肉体人間としてのあり方を、神様から頂いているお命という本質=神体にふさわしいあり方に近づけていく、魂(霊魂魄)を磨き上げていくための修行の場が、この世になっている、ということなのだ。

肉体人間としてこの世に生を受けたならば、神体と肉体の乖離がある限り、普段からの想いと行いを磨き上げられてゆく宿命があり、そのためには神体そのままの自由自在な働きは、できないことになる。

本来の思うがままにならない、というこというのは、この意味合いである。

例えば、悪口雑言というものがある。

口に出したり、言葉に書き出すことだけなら、原則として誰にでも可能だ。

その気になればいくらでも、わき上がってくる(ただし、霊性の高い人はこうならない)。

それも、こうした悪口雑言も、神様から分け与えられたお命によって得られている能力があってこそできることなのだ。

真善美に悖る肉体人間の想いと行いの業想念を、肉体人間としてこの世で新たに作り出してしまったら、原則として来世以降にすべてなかったものとして、時間をかけて(=何世をかけてでも)清算されなければならなくなる。

肉体人間として生じさせた、業想念という、神様のお命を頂いている、神様の子供としてふさわしくない想いと行いを生じさせてしまった魂(霊魂魄)としての責任は、あくまでも、自分で果たさなければならないのだ。

誰も他の者(霊魂魄)に対して、自らの責任を転嫁することはできないのである。

迷った霊の憑依も、先祖が為(な)したよからぬ因縁も、実は、すべて自らの過去世で作り出した業想念に起因しているものなのである。

あくまでも、過去世において自分のしたことが、輪廻転生を通して、(原則として)今生以降の自分に返ってくるようになっているのだ。

従って、今生のことならば、返ってくるのは、(原則として)来世以降ということになる。

良い想いと行いも、悪い想いと行いも、この世を通しながら、世を隔てながら、巡るのだが、その中でも悪い想いと行いは、この世としては、辛く苦しいものとしてあらわれてくるのだ。

それが、業想念の清算である。

悪い想いと行いの、世を隔てた、いわば、償いに当たる。

しかも、この世に起きてくる、悪い想いと行いのどれだけが、この世で新たに起こされたものかはわからないのだ。

なぜならば、上記のように、私達は輪廻転生を通して生まれ変わると、原則として過去世の記憶は消されてしまうからだ。

まあ、それでも、かなりの想いと行いは、過去世に起因するものではあるらしいのだが、この世を少しでも良くしようと思ったら、自らの人生を少しでも良くしよう、苦しみを少なくしようと思ったら、悪い想いと行いは、少しでも減らすに越したことはない。

そうすると、悪口雑言は、まったくすすめることができないものとなってしまうのである。

というか、そもそも悪口雑言そのもの自体が、論外な言動になってしまうのだ。

神様のお命を分け頂いているお陰様で、思考、創造をはじめとして、様々なことができるようになっているのに、よりによって、悪口雑言のために、こうしてせっかく授かっている能力を、やみくもに使いまくる。

しかも、悪口雑言をこの世で新たに発してしまったら、自らの来世以降に向けての悪い影響しか残らない。

のみならず、たくさんのかかわる人々の想いを乱し、悪い想いを抱かせることにより、かかわる人々の来世以降にも悪影響を及ぼすことになる。

こうした現状が、霊性上、輪廻転生上、何をもたらすかを、をまったく知らないか、あるいは、聞かされていてもバカにして歯牙にもかけないのか。

どちらであるのかは不明だが、とどまるところを知らない、ツイフェミさんなど世間の一部にある、思いつくままに、やみくもになされているかのように見える悪口雑言の限りを尽くす行状には、何とも言えない気持ちになる。

神様から与えられた言語を操る能力は、そんなことのためにあるものなのか?

まあ、個人的には、世界平和の祈りをするしか、やりようがないが・・・。

自分の非力さを思い知るばかりだが、因縁因果に悪影響を及ぼさないための方法はこれしかない。

私達は、神様のお命をわけ頂いているお陰様で、思考する力や独創的な想像力を授かっている。

私達は、神様のみ心に沿うように、気高く生きたければ、どこまでも気高く生きることができるかわりに、肉体を得ることで与えられた自己保存の本能により、利己的に生きようとすれば、どこまでも悪辣(あくらつ)に生きることができる。(*)

過去世の因縁があるとはいえ、自由意思を与えられているから、それを、生かすも殺すも、本人次第なのだ。

ただ、真善美に悖る想いと行いの業想念だけは、原則として世を隔てて、つまり、輪廻転生を通して、この世に、辛く、苦しいものとしてあらわれる形で、清算されることになっているのである。

私は、皆様が、神様から与えられている能力を、この世でどのように生かしていくかを、考える一助(いちじょ)としてもらうように願っている。

なお、これは個人的な考えではあるが、天に唾するという言葉があるが、私は地に唾するという行為も、非常にまずいものではないかと思っている。

詳しいことは省くが、これもご一考頂ければ幸いである。

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(*)過去世の因縁もあるし、本人の良心の咎(とが)め=呵責もあるから、どこかしらで、歯止め(ストッパー)がかかるとは思うけど。