021_不条理

私は以前、
私達肉体人間が
神様の分け命を
本体とするがゆえに、
肉体を与えられ、
この世をわたっていく、
また、
地球さんを開発していく、
これらの双方の理由から、
肉体維持のために、
自己保存の本能を
さらに与えられてはいても、
本来は
本体の神様と同じく
気高くあらねばならないこと、
そして、
本体としての肉体を生かす命も、
この肉体も、
すべては
神様がお与えになったものゆえに、
やはり気高いものである、
ことを書いてきた。

そして、
神様の分け命を頂く
肉体としての肉体人間は、
やはり、
本体が神様と同じである以上は、
真善美に悖る想いと行いは、
あってはならない
相応しくないものだ、
とも書いてきた。

ということは、
当然に、
肉体人間の主体として、
こうした想いを抱き、
行いに移すことは、
あってはならない
ことになる。

もしも、
そのような、
真善美に悖る想いと行いの
業想念を生じさせてしまったら、
原則として、
世を隔てる形、
すなわち、
来世以降に
なかったものとして打ち消す、
すなわち、
清算するという形を
とらなければならない。

人様を傷つけたら、
世を隔てて、
人様から傷つけ返される。

場合によっては、
まったく逆の立場に置かれ、
同じ目に遭うという形で
清算することになるのである。

そっくりそのまま
入れ替わる形で、
主客転倒した形で、
同じ思いをさせられるのだ。

身勝手な、
やりっ放し、
ヤリ逃げは、
決して許されないものとなるのである。

しかも、
清算する、
つまり、
世を隔てて報いを受ける時には、
その正当な理由は
わからないようになっているのだ。

身に覚えがないのに、
理不尽な目に
遭う形をとるのである。

なぜならば、
生まれかわって、
この世に生をうけたら、
原則として、
過去世の記憶は
消されてしまうからだ。

自分が過去世で
何をやらかしていたのかは
わからない。
だから、
その報いを受ける正当な理由が
わからないのである。

そうすると。

理由もわからず、
今生で
これといった悪行をしていないのに、
何でこんな目に遭わなければならないんだ、
神も仏もあるものか、
と神様を呪う気持ちにもなるのである。

実は私も、
自分に起きたいくつもの不幸を
受け入れ切れず、
いまだに、
こんな気持ちに
なることがあるのだ。

すべては、
神様を信じるか否かに
かかってくるのだが、
もしも、
神様は
私達に不公平はもたらさない、
と神様を信じるならば、
輪廻転生を通した
業想念の清算があることを、
納得しなければならないことになる。

つまり、
輪廻転生とは、
世を隔てて業想念を清算して、
業想念というこの世も含めた
神様の世界にあってはならない
悪いものは清算する、
そうして公平さを保つ仕組みだ、
と言えるのである。

つまり、
不条理ともとれる、
デタラメかつ滅茶苦茶に見える
この世の有り様は、

その深層に
輪廻転生という仕組みを用いた
この世に生を受ける
個々の霊魂魄同士の
公平さと公正さを
保つための仕組みを
あらわしているもの
と考えることができるのだ。

霊魂魄としての自身の気高さ。
霊魂魄同士のお互いの公平さ。
双方ともに、
すべて保たれなければならない。

ツイフェミさん達の使う
愚かきわまる蔑称
ジャッポス。

なんという
愚かきわまる低劣な言葉を作り出したのか。

同胞、しかも同じ民族に対して。

誰が作ったのか知らないが。

ハッキリ言って、
最低・最悪である。

こうした言葉を想うこと、
使うことが、
果たしてどのような意味を
持つことになるのか。

「穴モテ」もそうだが、
こうした
下品かつ悪質な蔑称を
作り出した人は、
きわめて罪深いのだよ。

いや、
とてつもなく
罪深いとさえ言える。

なぜならば、
自らが
こうした神性を著しく汚す、
輪廻転生上で重い報いを伴う
蔑称を使うのみならず、
たくさんの、
霊性や輪廻転生の
意味や仕組みを
いまだ知らない人達に、
こうした蔑称を
きわめて安易に
使わせてしまう
可能性が生じてくるからだ。

現に使っている人がいる。

蔑称を使った重いツケを
輪廻転生を通して払うのは、
自分だけでは済まなくなるのだ。

霊的なことを何も知らず、
軽率に使ってしまったら
人様にも
多大な影響を及ぼすのである。

たかが言葉一つじゃないか、
たかが笑い一つじゃないか、
たかが仕草一つじゃないか、
などと本当に軽々しく言えますか?

霊性

輪廻転生?

ケッ、バカバカしい。

そんなもの、あるわけないじゃん。

信じることができない人は、
このように言って、
バカにするかもしれない。

私は自分の苦しみから、
霊性や輪廻転生を個人的に調べて、
考えに考え抜いた。

ちまたにある
霊的な内容を扱った本に
書いてある書き方には、
多くの曖昧さがあり、
わかりにくいところが
たくさんあるからだ。

今までに私が書いてきたことは、
それに対する
かみ砕いた理解であり、
わかりやすく
掘り下げた理解であり、
その集大成として
書いてきたものだ。

自分のような者にさえも
理解できるような形で書けば
老若男女を問わず
誰でも理解が可能となるはずだ
と信じながら。

あのように
神様を信じることができなければ、
やりきれないんだよ。

人生は 1 回コッキリ。

不幸や災難も、ただの偶然の産物。

人生、皆、それぞれ出たとこ勝負。

まさに、混沌(カオス)。

人生はたったの 1 度きり。
そのような気概を持つことは
一生懸命生きる上では大事だが、
それとは別に、
輪廻転生という生まれ変わりがない、
すなわち、
輪廻転生を通した努力さえも、
まったく関与する余地がない。

これでは、やりきれないではないか。

言い換えれば、こういうことだ。

意味があって苦しむことと、
意味がなく苦しむこと。

それなりの苦しみを
生じる仕組みがあり、
それなりの裏付けが得られれば、
わずかながらも救われる。

過去世の因縁、
つまり、
今生の不幸の原因を知りたくても、
これは原則として、
教えてもらうことは
叶わないのだ。

本当は、
ここまで教えてもらい、
理由がわかれば
もっと救われるのだが、
教えてもらえないのだよ。

過去世において
自分が何をしでかしてしまったか
真善美に悖るどのような想いと行いを
しでかしてしまっていたかは、
わからない、
教えてはもらえないことが
原則となっているのである。

訳もなく
ただ苦しみに耐えることと、
理由が多少なりともわかり
苦しみに耐えること。

どちらが、
救われ、
絶望的にならないか。

仕組みだけでもわかれば、
多少は救われるのですよ。

それが、仕組みを信じることが、
ひいては、
神様を信じることにつながる。

どう見ても、
人格的に立派とは言えないのに
堂々と世の中を闊歩している
人がいる。

どう見ても、
生得的な境遇や才能にあぐらをかき、
他人を平気で見下し、
贅沢三昧、享楽三昧を謳歌している
人がいる。

どう見ても、
人格的に問題のないのに
不幸や災難にあえいでいる
人がいる。

どう見ても、
厳しい生得的な境遇や
環境を呪うことなく、
清く物静かに生きている人がいる。

神様とは
こんな不平等で不均衡な世の中を
是とする存在なのか?

これが、
ありのままの、
神様のおつくりになられる
公正で平等な形なのか?

違う。
そんなはずはない。
そんなはずがないと信じたい。

信じるならば、
この世のこの有り様は、
どのように解釈したらよいのか?

そう考えた時、
輪廻転生という生まれ変わりと、
霊性という神様としての
輪廻転生を通して
生き通しの永遠の命が、
この世の不条理を
理解するための鍵となる。

以上をどうお感じになるかは
読まれた方次第だが、
上記を参考に考えて頂ければ
ありがたい。