123_箍

・箍~たが~桶(おけ)樽(たる)などの周囲に巻いて、締め付けるための竹や金属製の輪。
(用例)箍が緩む~年を取ったり緊張が緩んだりして、締まりがなくなる。

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肉体人間の本質は神様の分けられたお命である、分霊(分け御霊。わけみたま)であるとはいっても、自己保存の本能が与えられたために、日本でも国内外で戦争や奴隷貿易などをはじめとして、人類は悲惨な歴史を作り出してきた。

あくまでも、「人間とは肉体人間である。肉体そのものが人間に他ならない」としか考えない。

そして、「その肉体を生かす意思をもった命こそが本当の人間である」とは考えない差別的で排他的な人間観が、根付いてしまったからだろう。

このように考えてくると、自分とその利害をできるだけともにできる近しい者の利益だけを最大化させることに血道を上げ、肉体として別れた他者にまで、自らと同等の愛を及ぼすことは難しくなったのが、この肉体人間観を持つようになってしまった根本的な原因だと言える。

この視点からすれば、自己保存の本能は、あらゆる争いの諸悪の根源と言えないこともない。

そうなると、肉体人間の本質は、あくまでも神様の分けられたお命である、神様の分霊である、神性にあると思うわためには、どうしてもそれなりに啓蒙をする人があらわれて、それなりの教えを説く必要が生じてくる。

自己保存の本能に任せたままの放任になってしまうと、自己の利益確保を巡って相争う、世の中が欲望と恐怖にまみれた地獄の様相を呈してしまう可能性が出てくるからだ。

以前、キリスト教系や仏教系の新興宗教の人達とかかわりをもったことがあった。

それぞれに、個人的にはかなりの疑問を感じる組織ではあったのだが、そこの信徒であった若者達(2、30 代)は、こちらがそれなりの敬意をもって、丁重に接しさえすれば、ある程度の信頼感と安定感を感じとることができた。

彼らの立ち居振舞いには、決して常軌を逸した滅茶苦茶な言動や迷惑行為をすることはまずない、というかなりの安心感を感じることができたのだ。

万が一、彼らがキレるとすれば、それは彼らの信仰や教祖を否定されることくらいだろう、と思われた。

組織全体としては、かなり問題があるものではあっても、そこに所属する個人個人の普段からの想いや行いを律する効果が、それなりにあるのだな、と感じざるを得なかった。

これはやはり、肉体人間としての自分よりも一段上に崇めるべき神様やイエスさんや教祖なりをおくことで、ある程度、自らの肉体人間としての五欲にもとづいた欲望の暴走にストップをかける、抑制する制御が働いていたのだろう。

逆に、こうした信仰が一切ない人の場合には、どうしても自然にそなわった良心にしか頼るところがないわけで、何かと世間の欲望と恐怖の煽動に影響されて、不安定になりがちな人が多いような気がする。

取り澄ましている表面はそこそこよくても、ひとたび軋轢が生じたりすると、とたんに内面の不穏さや不安定さが顔をのぞかせる人が少なくない、と感じられたからだ。

このように考えてくると、信仰(もちろん過激なものは除外する)をそれなりに持つことは、西遊記の斉天大聖孫悟空(アニメのドラゴンボール孫悟空ではない。あくまでも西遊記のお猿さんの元祖孫悟空のこと)の頭に嵌(は)められている緊箍児(きんこじ)のような役割を間接的に果たしているように思える。

いわば、肉体人間として自己保存の本能と五欲を求めることによる暴走に歯止めをかける箍(たが)のような役割を果たしているのではないか、と考えられるのだ。

つまり、彼らにとっての信仰は、人間誰しもに本来そなわっている良心を支え、それなりに生き方の拠り所となっていたように思えるのだ。

こうした側面から見ると。宗教は人間に対してある程度縛りの効果がある、すなわち、拘束力があると言える。人間を支配する道具として使われる成り行きになるのも、半ば当然だろう。

権勢欲の強い人間にとっては、有効に活用しないはずがない手段だからだ。

こうした宗教という力学を悪用した悲劇が、歴史上、一体どれほど巻き起こされてきたことか。

自らの信仰が本当に神様のみ心に適うと言えるのか。

適わないのならば、どうすればいいのか。