160_一択2

前回 ( 159_一択 - おぶなより2 ) などで書いたように、私は悪い予言といった類いのもの、すなわち、人々に不安や恐れを抱かせるものには否定的である。

それは、以下の 2 点の理由による。

例えば、信賞必罰。

これは、賞すべき功労のある者には必ず賞を与え、罪過のある者には必ず罰すること。賞罰を厳正にすることだ。

しかし、こうした教えの背景にあるのは何だ?

人間は、もともとは、自分勝手なエゴの固まりの悪い存在である、ちょっと目を離すとすぐに怠けたり、悪いことをしがちだ。

だから、普段から厳しく躾をして、締め付けていなければ、良い状態が保てない。

よって、鞭(ムチ)で叩いて無理矢理にでも、良い状態を保とう、という発想が根底にあるのではないか。

要は、こうした罰を与えることで、人間を動かそう、この場合なら、悪いことをしないようにさせて、いいことをさせるように仕向けよう、ということではないのか。

何が言いたいのかというと。

こうした、信賞必罰に代表されるやり方は、本質的に人間を信用していない、本質的に人間を良いものととらえていない、と思われるのだ。

では、なぜ、そんな人間を良いことをするように、仕向けようとするんだ?

どうせ、人間がそんなロクでもない本質を持つ存在ならば、そもそもよくさせる意味なんかあるのか?

そんな意味はないんじゃないのか?

放って置けばいいじゃないか。

社会を構成する個人が、めいめい勝手なことばかりしていると、社会秩序が保てないからか?

あくまでも、自分が損なわれないという利害からだけか?

それだけじゃないだろう?

やはり、私達人間は、本質的に良い存在であるべきだ、と無意識にわかっているからこそ、社会秩序の維持だけではなくて、自らを修めるべきだと感じているからではないのか?

だから、人間の本質があくまでも真善美に悖らない神様の分けられたお命である、自然に、真なるもの、善なるもの、美なるものを求めてしまう性質を持っていると考えた場合には、こうした信賞必罰のやり方は、自家撞着に陥っているように思えてしまうのだ。

私達が霊なる人間から、肉体人間としてこの世で生きていくために、自己保存の本能を与えられ、エゴに走りがちなことが、やむを得ない傾向として、強固にあるにしても、あくまでも、その本質は違う。

これを前提として考えると、信賞必罰のようなやり方は、便宜的で対症療法的なやり方に過ぎず、人間の本質をあらわすまでの、過渡期的なやり方に見えてしまうのだ。

極端なことを言えば、孔子のような仁や徳に訴えるようなやり方は、人間をその本質的なものとしての真善美に悖らない存在に導くためには、あくまでも、対症療法にしか過ぎないように思えてしまうのである。

やはり、人間に追加してそなえられた、自己保存というエゴを志向する傾向を抜本からなくすようにしていかないと、根本的な解決にはならないような気がするのだ。

老子のように無為自然、流れるように、良いことをするためには、私達はやはりそれなりに、自らを修める必要が、それもかなりの修行が必要になってくると思わざるを得ない。

これを、自力で成し遂げようとする典型的なやり方が、お釈迦さんのような修行やそのお弟子さん達の修行であり、祈りながら神様にお任せする、すがっていくのが、絶対他力のやり方である。

そうすることで、可能な限りエゴをなくして、霊なる人間という本質に沿った存在になるように努めていく。

以上のように考えてくると。

悪い予言などといったものは、こうした教えを守らないと、お前達は恐ろしい目に遭うぞ、お前達は大変な目に遭うんだぞ、といわば人を恐怖させ、震え上がらせる、脅迫を本質とするものであり、脅しの効果がなければ、ひいては、教えの効果がないという本質を持っているのではないか、と考えられるのである。

つまり、予言などを用いて、人を脅したり、恐怖させたり、といったやり方は、人間の本質的にそなわった真善美や愛をあらわすやり方としては、便宜的なものであり、対症療法的なものに過ぎず、あまり好ましくないやり方に思えてしまうのだ。

これがまず 1 つ。

そして、もう 1 つは、人間(肉体人間)の想いは、輪廻転生を通して循環するということだ。

つまり、不安や恐怖を抱いてしまうと、原則として来世以降に、それが何らかの形となってこの世にあらわれてきてしまうのだ。

だから、不安や恐怖、もちろん、一般的に悪いと思われる想いを抱くのは、結果としてこの世に悪いものしかもたらさないことになるのである。

真善美に悖る悪いものは、原則として輪廻転生を通して、この世を悪くすることとしてしか実を結ばない、ということになってしまうのだ。

以上、教えとしてのあり方と、輪廻転生を通して人間の想いが巡るという観点から見た場合に、悪い予言などの人々に不安や恐れを抱かせるものは、あまり上等なやり方とは言えない、もっと言ってしまえば、ふさわしくないやり方だ、と思えてしまうのだ。

神様への道、宗教の本質としては、あくまでも自分自身が想いを浄めて(普通、特別な人以外には目には見えない)神様の光明で満たされる、そして、その光明を近しい人から漸次段階的に他人にまで押し広めるようにして、感化していくやり方が、本当のやり方だと思うのである。(*)

他人を思うがままに強引に動かそうとしても、欲得の結び付きがなければ、所詮はすぐに切れてしまう脆い関係か、それなりの効果しか得られない場合がほとんどだ。

欲得によらない、純粋な真善美に悖らないいい動機からの行動であっても、欲得が深く絡んでくれば、あっさりと、そうしたいい行動は放棄してしまうことになりがちだからだ。

つまり、

まずは欲目を度外視した、内かわき出る自然な行いをするための良い想いを抱けるようになること、

そして、

この厳しい火宅の世の中において、常に自分がそのような想いで満たされているようになるためには、

どうしても自分から神様に飛び込んで行き、その光明で自らを満たし、そして、広めていくやり方をしていく必要がある、

と考えられるのである。

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(*)神様の光は、普通の(肉体)人間には、目には見えずとも、深層に神意識があるために、何となく感得はできる。

これがミソだと思う。