112_二面性

表題の二面性とは、肉体人間の想いと行いの二面性を略したものだ。

ここでは、私独自の考えで、勝手に二面性と名づけさせてもらう。

因縁因果の法則というものがある。

前に、 ( おぶなより ) で何回か触れてきたことなのだが、これは二方面から解釈できる。

巨視的(マクロ的)な視点と微視的(ミクロ的)な視点だ。

まあ、微視的(ミクロ的)というよりは、個別的と言うべきなのかもしれないが。

まず、大前提として考えられるのは、神様によるこの地球物質世界を神様の世界の映した世界としてあらわす、具現化させること。

いわゆる、地上天国化だ。

そのために、わざわざ、制約の多い肉体をまとい、肉体身として生きていくために、神様は私達肉体人間に新たに自己保存の本能を与えられた。

そして、本来の神体としては無限の命ながらも、肉体人間としては有限な命となった。

それも、20 才まで成長して、あとは限られた寿命まで、徐々に衰えていく肉体人間として。

その未開発な物質地球世界に遣わされた肉体人間は、男性と女性とに分かれて、有性生殖の形をとりながら、世代を引き継いでいくようにされた。

神様の分けられたお命は、永遠なものとして、肉体身をまといながらも元の神体に近づいていくように、たくさんの輪廻転生を繰り返しながら、徐々に霊性の開発をして、地球世界を完成させるまでにふさわしい肉体人間として、漸次、時間をかけて成長していくことになる。

本来の神体としての人間ならば、その想いと行いは、真善美に悖ることはなく、自らを中心とした利己的なものとなることはない。

しかし、肉体人間として、数十年と寿命を限られ、成長後の段階的な老衰を定められた身では、自己保存の本能も相まって、肉体身としての自己とそのごく近しい者だけの利害得失の内の利益を最大化して、損失を最小限にとどめる、いわゆる、利己主義的な生き方をすることが、当たり前になってしまう。

それが、何代も何代も世代を引き継ぎ、習慣化されてしまうと、元々の神体の時にあった、互いを尊重し、協力し合う姿勢は、次第に忘れ去られていくようにななっていく。

そして、人間=肉体人間である、人間とはこの肉体の五感で認識できる肉体人間こそが人間なのだ、と思い込むようになり、自己保存の本能により、元々の神性を忘れて、自らを中心とする利害得失計算ばかりに狂奔することにもなってくる。

こうした環境下で、肉体人間の抱く想いと行いが、地球が開発され尽くして、神様の世界がそのまま映し出されるまで、ずっと繰り返されることになる。

ただ、人間=肉体人間であると思い込んでいる、利己主義に明け暮れるままの人類では、やがて、地球世界そのものが行き詰まり、人類自体も滅亡しかねない。

そこで、こうしたことをすべてはじめからお見通しであられた神様は、私達を支え、そして見守る、守護の神霊さんである、守護霊さんと守護神さんを個別につけることとされた。

こうした環境下で、繰り広げられる肉体人間の想いと行いは、神様の世界がこの地球上に映し出されるまで、真善美に悖らない良いものも、利己的な真善美に悖る悪いものも、数限りなく、人類全体として、それぞれの個々の輪廻転生を通して、繰り返されていくことになる。

肉体人間の良い想いと行いは、原則として輪廻転生という生まれ変わりを通して、後のこの世で良いものとして、実を結ぶ。

反対に、肉体人間の悪い想いと行いは、原則として輪廻転生という生まれ変わりを通して、後のこの世で悪いものとして、実を結ぶ。

肉体人間の想いと行いは、良いものも、悪いものも、個々の輪廻転生を通した生まれ変わりでは、すべて、発した想いと行いが、そのまま、原則として、輪廻転生を通すという世を隔てた形で、自らに返ってくる、ということになる。

他方、これが、肉体身として、霊魂魄同士と相対的に分かれた形から見ると、肉体人間の想いと行いは、良いものも、悪いものも、やったものが輪廻転生を経て、相手方を通して返ってくる、ということになる。

この肉体人間のこの世での想いと行いの内、特に悪いものは、世間一般に言われる因果応報のように、まるで神様から罰を与えられると錯覚させるかのように感じられる。

同じく肉体人間の想いと行いの内で、良いものは、元が神体であり、好ましいものであり、快いものであるから、どんなに返ってきても、ことさら、問題にされないだけである。

ただし、霊格の高い、霊性のかなり開発された人ならば、肉体人間として生まれることの稀少さや、守護の神霊さんを遣わされる神様のご加護や、他人様の本体が神様であることがよくわかっているから、私達が普通なら見過ごしてしまう、何気ない日常の当たり前の事柄としての良いもの(こと)に対しても、深く感謝を抱くことができるのである。

以上のように、肉体人間の想いと行いは、輪廻転生を通した生まれ変わりをする霊魂魄のまとまりという全体の視点から見る、すなわち、いわゆる、巨視的(マクロ的)な視点から見ると、想いと行いが単純に循環することになる。

これに対して、肉体人間の抱く想いと行いが、輪廻転生を通した生まれ変わりをする霊魂魄同士という、肉体人間として分かれた形になっていると、微視的(ミクロ的)というか、個別的・相対的にあらわれて循環することになる。

従って、肉体人間の抱く、同じ想いと行いでも、その後の上記のような循環の仕方いかんにより、霊魂魄の全体としてとらえるか、個々の霊魂魄同士のやり取りとして相対的にとらえるか、で二面性を持つように見えることになる。

私は、世間一般でよく言われる、因果応報やブーメランが、こうした二面性をよく理解せずに、混同して、一緒くたに用いられているように見えるのだ。

もちろん、唯物論しか認めず、これに依拠していて、霊魂や輪廻転生は認めず、因果応報やブーメランが、今生のみであるととらえた上で。

だから、因縁因果の法則には、こうした二方面から見ることができる側面があること、そして、今生内での起承転結ではない、むしろ、今生内での起承転結はあまりないことを、よく理解しておく必要があると考える。

なお、今回の内容とほぼ同じことを、以前に、 ( 013_気高い3 - おぶなより2 ) ( (旧) ( 014_気高い4 ) ) としてすでに書いている(こちらの方が、より内容を具体的にしてある。これらを図解化してよりわかりやすく示したのが、 ( 189_引き寄せ4(ミクロとマクロ) - おぶなより2 ) の (*2) である。