129_ふと2

前回 ( 128_ふと - おぶなより2 ) は、私達にごく一般的にありがちな、恋愛にまつわる求愛行動の一環の事例をマッチングアプリを例に取って触れてみました。

前々回 ( 127_基準3 - おぶなより2 ) では、私達にありがちなエゴの志向が尖鋭化することを、何でもかんでも肉体にまつわる欲望を最大化することに執心する思い上がった権力者やお金持ちを例に取って触れてみました。

以前から、 ( おぶなより ) でも、このブログ ( おぶなより2 ) でも再三書いてきたように、私達がこの世に生を受けることは、実は貴重な機会を得ていることに他ならないことを、仏教をも含めて何回も触れてきました。

そして、これも再三再四書いてきたことですが、私達がこうして生きていけることも、実は摩訶不思議と思われる力、すなわち、神様のお力によっていることも書いてきました。

つまり、この世に生まれることも、生きていけることも、類い稀なる数々の偶然と巡り合わせの恵みによって起きていることに他ならないのです。

たとえ、

「なんでえ、俺(私)なんか何十億という地球の人口のたった一人にしか、過ぎねえじゃねえか(過ぎないじゃないの)」

と思えたとても。

そこで、です。

傲慢な権力者でも、お金持ちの人でもいいのですが、もっと卑近な、身近な例として、ヤリチン(またはヤリマン)のような行動をとる人を例にとって考えてみます。

私達は、そのあらゆる人が、簡単にはこの世に生まれつくことはできない、と考えた時に、それならば生まれつくための、何らかの役割や働きが期待されているのではないか、と考えることができます。

何らかの役割や働きの期待も何もなく、ただ、カオスよろしく無作為に、無秩序に、めちゃくちゃに生まれつくとは考えられないからです。

稀少な確率を突破して生まれてきた上に、こうして摩訶不思議な生命活動を支えに生きている以上、それなりの理由付け、裏付けがあると考えざるを得ないからです。

私達は、それなりの貴重な機会と恵みをいかして生きているからです。

ただ、こうしたことを考える人は、おそらく稀です(現代なら、スピリチュアルにのめり込んでいる人なら、そこそこいるのかもしれませんが)。

使命というと、高邁であり、思い上がった印象があるので、とりあえず、役割ということにしておくと、私達がこうしてこの世に来ていることの役割は何か、何が期待されていて、この世に生まれついているのか、を考えるのもそれなりに価値がある、ということになります。

繰り返しますが、生まれつくことが貴重な機会を得ていることであり、生きていけることも貴重な機会を得ていることに他ならないからです。

そこで、卑近な例としてあげた、例えば、ヤリチン(またはヤリマン)の人にきいてみたいのです。

あなたは、おそらく上記のようなことは、まったく意識せずに、ただ性欲のおもむくままに、行動してきたのだとは思います。

そこで、上記のようなこの世に生まれつくことと生きていけることの不思議に思いを馳せた時に、どのような感想を持つか、をきいてみたいのです。

とは言うものの。

まあ、きくことは無理でしょうから、ご自分で内省されて、お考えになってみてほしいのです。

自分は、今は性欲に突き動かされているけれど、これは一体何なんだ、と。

半ば、無意識的に突っ走っているけれど、自分は一体何をしているんだろう、と。

みんなめいめい勝手きわまる生き方をしている、しかも、我の強い人が栄えているかのようなこの世で、自分も同じように生きているかもしれないけれど、この人生とは一体何なんだろう、と。

私が言いたいのは、感謝を抱(いだ)けとか、ありがたく思え、というような説教ではありません。

多少は、そうした意味合いも含んでしまうことは否めませんが、そんなことよりも、私はあなた方ご自身が自らの心と静かに対話をして下さることを望んでいるのです。

もちろん、世の中で、かかわるいろいろな人達に感謝することも大事かもしれない。

しかし、何よりも、自分のことは自分で決めていく、考えていくべきものであるはずです。

わざわざこの世に生まれてきて、個体としての一個人として、こうして生きているのですから。

そのように考えてきた時に、自分の行動のよってきたる根幹は一体何か、生きている、生きていくのは、一体何なのか、と。

あなたの人生の羅針盤を描き、舵を取るのは、他ならぬあなたしかいない。

どんなに限られた環境でも、その限られた中で、行いの意思決定をして、責任を負うのはあなたしかいない。

今生の想いと行いの責任を来世以降に果たすのも、あなたしかいない。

あなたご自身は、あなたという世界にたった一人のあなたにとっての最大の利害関係を持つ意思決定者に他ならないのです。

なので、他ならぬご自身のことについて考えるのは確実に意義深いことになるのですから、おためごかしのうるさい話と思わずに、お考え頂ければ幸いに存じます。

しかし。

本来ならば、やたらめったら使ってはいけないはずの「ヤリチン」と「ヤリマン」という言葉をずいぶん使っちまったなあ。

以後は、少しでも控えるように心がけるしかないか。

しかし、はじめこそかなりの抵抗があったけど、使い慣れてしまうと、これ(=心理的抵抗感)がまったくと言っていいほどになくなっちゃうんだよ。