だいぶ前に書いた ( 124_あるがまま ー 平等とは ー - おぶなより2 ) の続き。
肉体人間(以下、人間または人と略)は平等だという建前がある。
しかし、現実のこの世では、人それぞれに、容姿から才能から、健康状態から、生まれつく環境から、現在の社会的地位から、何から何まで、あらゆるものが異なっている。
それなのに、なぜ、平等を謳うのか。
これは、人間の本質が神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)である、つまり、本質は神様に他ならないことまで遡らなければ、理解は難しいと思う。
みんないろいろな理屈をつけても、ここまで行き着かない限り、納得することが難しいからだ。
もっと言えば。
これはこと人間に限った話である。
人間がその本質である霊魂魄も、その肉体も、すべては神様から頂いているもので、構成されている存在に他ならない以上、いかなる過去世の因縁の違いにより、この世へのあらわれ方が異なっていたとしても、神様の形を変えたあらわれだから、それなりに尊重しなければならない、という意味合いである。
さらに、自然から何から何まで、すべてのものは神様があらわしたものである、つまり、万物の創造主は神様であるとすると。
ありとあらゆるものは、神様の形を変えたもののあらわれである、神様の形を変えたお姿である、と理屈の上では考えることができることになる。
実際には、過去世の因縁などにより、不幸や災難などの病争貧苦などがあるから、なかなかこのように感じることはできないが、突き詰めて考えれば、このようになってくるのである。
ありとあらゆるものには、神様から授けられたそれなりの意思と想いが宿っていると考えることができることになるのだ。(*1)
それぞれに、それなりの神様の命の息吹を吹き込まれて、それなりに生きている、と考えることができるからだ。
しかも、そうした生物から静物である物質まで(そして、おそらく目に見えない気体も何もかも含めて)、それなりに意思を持っている、と。
「ありがとう」という言葉に、なぜ、意味があるのか、それなりのご利益があるのかは、上記のように考えてくると、直接的にも、あるいは、間接的にも、つまるところは、「神様ありがとうございます」と感謝していることになっているからだ、と考えられるのだ。
「ありがとうございます」と言うたびにすべてにつながっている、ありとあらゆるすべてのものの奥につながる神様に感謝を捧げることになるからだ。
この世にあらわれている、ありとあらゆることに感謝を捧げる。
それは、あらわれの仕方は異なっても、それはすべて神様につながっているものだから感謝しているということになる。
「ありがとう」という言霊に力があること、そして、「感謝」が大事なこと、さらには、仏教の浄土門の南無阿弥陀仏一念による敬虔な祈り人である、妙好人の源左さん、才市さん、宇右衛門さんのような「感謝一念=あらゆることに感謝」が意義深いのはこのようにとらえることができるのである。
もちろん、ごく普通の人にとっては、嫌なこと、つらいこと、苦しいことに当たることでさえも、その意味を見いだし、感謝することのできる、信仰者としての達人、もっと言ってしまえば、宗教の達人が、源左さんや、才市さんや、宇右衛門さんのような妙好人と呼ばれた人達なのである。(*2)
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(*1)生物や静物の中でも、人間だけが神様のお命を直接に分け与えられているがゆえに、知恵(智慧)と創造力とを授かり、万物の霊長となっている。
(*2)なぜ、このように解釈できるかは、 ( おぶなより ) とここ ( おぶなより2 ) でも何回か書いてあるので、省くことにする。ご了承頂きたい。