127_基準3

前々回 ( 125_基準 - おぶなより2 ) や前回 ( 126_基準2 - おぶなより2 ) 、そして、今までも含めて、私達がこの世に生まれてくることの奇跡的なあり方や、受精からはじまって、赤ちゃん、そして、大人にまで成長していく不思議な力の働きかけや、今生きていることの不思議さ、すなわち、生命の維持そのものの不思議さなどについて、これらのすべてが、たまたま偶然にそうなっているのではなくて、神様の命の働きかけがあるからこそだ、ということを書いてきた。

つまり、私達は生まれるのも、生きていける(=有機的な生命体として生きていくことができている)のも、(自殺などのように人間側の意思で勝手に命を断たない限り)寿命が尽きてこの世を去ることになるのも、すべて、他動的になっている。

自分の意思で、自分の力で、やっているのではない。

自分の意思で心臓に規則的に鼓動を刻ませている訳でもなければ、自分の意思で肺臓を規則的に収縮させて気管と連動をはかりながら呼吸をしている訳でもない。

これら心臓や肺臓を含めた五臓六腑をはじめとしてすべてそのようになっている。

しかも、誕生から寿命が尽きるまでの、私達人間の一生にわたるすべてのことが。

私達は、当たり前のように何気なく生きているようでいて、よくよく考えれば、実はこのようになっていることに思い至るのである。

従って。

私達人間側の意思でどうこうできない、しかも、よく考えると奇跡的な組み合わせ・巡り合わせの連続で、生きていけるのだから、これは謙虚にならざるを得ないことになる。

その不思議な力の働きかけの元になっている存在は何か、と考えた時に、やはり、これは明らかに絶対的なる存在、絶対の力を持つ存在、すなわち、神様だと考えざるを得なくなってくるのですよ。

しかも、私達人間は、こうして生かされているだけではなくて、そのために必要となる周辺の環境となる、ありとあらゆる原資が、すでに与えられていて、整えられている。

地球さんをはじめとして、空気も水も緑をはじめとして何もかも。

もちろん、それらの周辺環境を活かして、人間の生活を快適にしていく工夫をするための、創造力と知恵(智慧)も、神様のお命を直接に頂くことによってあらかじめ授かっている。

しかし、こうした世の中のありように対しての、私達人間側の実際の意識はどうなっているか。

何言ってやんでえ。

あらゆる才能に恵まれて、眉目秀麗(男性の場合)、容姿端麗(女性の場合)に生まれつくならともかく、勝手に生まれてきて、ただ、今生きているだけじゃねえか。

好き好んで生まれてきた訳でも、生んでくれと頼んだ訳でもない。

親達が勝手に産んだんだ。

生まれてくるなら、もっと万能に生まれつきたかったのに、そうじゃない。

しかも、病気やいじめや苦労などが散々ある。

何でこんなに辛い思いをさせられる人生に感謝しなきゃならないんだよ。

それに苦労は少ない場合だって、生きているのは、ただ生きているだけだ。

半ば無意識で、当たり前のように生きているのに、何でそんなに一々へりくだらなきゃならないんだよ。

何だって生きていることは当たり前。

できることは当たり前。

ほしいままにして、何が悪い。

だから、苦労して金を稼ぐことができるようになりさえすれば(または、元々金持ちならば)、モテの技術さえ会得さえすれば(あるいは生得的な要素を活かすことができれば)、何でもかんでも、贅沢三昧、遊興三昧、放蕩三昧、ヤリチン(ヤリマン)三昧のように行動したってこれは俺達(私達)の自由のはずだ(はずよ)。

気高い生き方なんか知ったことか。

やりまくるだけやりまくったら、後は人生逃げ切りになるだけだ。

つまり、あらゆるものを、貪るだけ、貪り尽くしたら、それだけでいいのだ、と。

かなりの人(特に唯物論者)がこのような意識を、程度の差こそあれ、大なり小なり持っているのではないか?

今までに歴史上存在した権力者、超がつくほどの金持ちには、こうしたほしいままの生活をした人がたくさんいたのではないか?(*1)

転輪聖王や、これに匹敵する霊性の高い人は数えるほどにしかいなかったのではないか?

これはおそらく、私達の長い長い、果てしない輪廻転生を通して、人間=肉体人間であるという、肉体人間観が染み付いてしまったことと、その輪廻転生を通して、肉体化にあたっての自己保存の本能に起因する真善美に悖る想いと行いの業想念が、たくさん積み重ねられてしまったことが原因だろう。

で、問題は私達にありがちなこのような意識を、どのようにして矯正していけばいいのか、ということになる。

矯正。

はからずも、この言葉を使ったのは、私達の本質が神様の分けられたお命である、従って、元々はこのようではなかった、ということ。

肉体化と自己保存の本能で、業想念を積み重ねて、おまけに輪廻転生もたくさん積み重ねて、輪廻転生のたびに過去世の記憶も消されているから、わからなくなってしまっている。

けれど、元々は違うんだ、と。

従って、肉体を持ちながらも、自己保存の本能を持ちながらも、しかも、その上で、元々の神様の分けられたお命にふさわしい形に近づくように、自らを修めていくこと、精進していくことが、霊性の開発になる。

このように考えてくると、ただ唯物論に任せた考えをしているだけ、唯物論だけしか知らず、ごくありきたりな良心に自然に任せたままでは、どうしても限界があることになる。

だから、霊性の開発は必要だと。

しかも、たった一人あるいは、ごく少数の人だけの霊性の開発だけでは、この厳しい世の中を、私達の元々のあった形の集合体としての社会=神様の世界に近づけていくことは、到底、不可能。

だから、業想念で満たされてしまった(?)、人間の想いの世界の幽界を、少しでも浄めるようにしていかないと、どうにもならない、ということになる。

想いは(原則として)世を隔ててこの世で実現することになるからだ。

その幽界を浄める、人間の想いを浄めるための、一番やさしい方法が、言い換えれば、神様の想いである神様の光を押し広げていくための一番やさしい方法が、易行道になる。

残念なことに、結果的に、自力で神様の光を押し広げていくことになる難行道は、あまりにも難し過ぎる上に、現代では条件的にもほとんど実践不可能になっている。(*2)

だから、結果として一般向けとして残るのは、易行道しかない。

結局、それかよ、と思う人がいるでしょうけど、そうなんです。

結局、これしかないんですよ。

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(*1)過去の歴史上に、こうしたほしいままの生活をしただけではなくて、傍若無人に振る舞い、暴虐の限りを尽くした権力者がどれほどいたことか。

こうしたものを見ると、すべての人ではないにしろ、ある程度の身の安全がはかられ、他人から侵されることはまずなく、絶対優位にある、と踏んだ人間は、いかに傲慢になり、残虐になる場合がありうるか、の証左となっている。

歴史を経て、だいぶ改善されてきた側面があるとはいえ、私達の本質は神性にあることをわかるように、自らの身を修めていくことは、必須だと思わざるを得ない。

それと並行して、幽界に溜め込んできた、人類の乱れた想いをどうしても浄めていく必要があるともね。

(*2)例えば、お釈迦さんがそうですね。

お釈迦さんは、元々は人々を教化するつもりはなかった。

少なくとも、自分の至った悟りの境地や感覚は、他の人々には感得することはできないと考えていた節があった。

そうして、安寧の境地に浸っていたお釈迦さんにに梵天という神様が、世の中の有り様を鑑みて、どうか教えに立ってほしい=(おそらく)たくさんの迷える苦しむ人々を救って欲しい、と懇願されて、とうとう折れて、教えを広めることを決意した。

お釈迦様さんの在世当時の 2500 年以上前でも、それなりにたくさんの人はいた訳で、お釈迦さんたった一人が悟って安寧の境地にいることが、果たしてたくさんの人々にお命を分け与えている神様のみ心に合うものかどうか。

神様からご覧になって、たった一人、艱難辛苦を乗り越えて、見事に悟ったね、ああ、よしよし、愛いやつじゃ、となるものかどうか、という話です。

お釈迦さんは、結局、梵天様にほだされて(?)、結果として教化を決意された。

だから、人としてあるべき厳しい教えを広めていくことによって、結果的に、神様の光を広めて、幽界を浄めることにもなっていく訳です。