139_迂回

これまで、私達は、その本質となる命=神様の分けられたお命から、身体から何から何まで、神様から頂いていることを書いてきた。

もちろん、このような被造物であることは、私達自身のことだけではなくて、地球さんをはじめとする、周辺環境の何から何までに至ることも ( 130_あるがまま2 ー ありがとうの意味 ー - おぶなより2 ) 、 ( 135_あるがまま5 ー 頂き直す ー - おぶなより2 ) など)。

こうした話は、神様が万物を創造した造物主だと考えれば、あっさり(?)というか、スッキリと理解できる。

気づいた方もおられるかもしれないが。

そうした観点からすると、仏教で言われる、山川草木悉有仏性や、造語の山川草木悉皆成仏 は、奥歯にもののはさまった表現のように思える。

神様が造物主だとすれば簡単な(というか明快な)話で済むところを、これを認めない(認めたがらない?)ばっかりに、縁起だの何だのの理屈とのすり合わせのためか、非常に回りくどい話になっているように思えるからだ。

なぜ、このような形になっているのか、
もっと言えば、
なぜ、お釈迦さんが、神様のことを説かなかったのか、
の理由については、 ( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 - おぶなより ) で、
すでに触れている。

あの時は、
「果たして、真相やいかに」
としておいた。

これらを、どのようにお考えになるかは、読まれた方次第(読まれた方の過去世からの因縁因果次第)だ。