152_反芻

・反芻~はんすう~①牛・羊・ラクダなどが、一旦飲み込んだ食物を口に戻し、さらに噛んで飲み込むこと。
(用例)反芻動物。
②(転じて)繰り返しよく考えたり味わったりすること。
(用例)言われたことを反芻する。
ここでは、②の意。

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現代は、未だに唯物論全盛のご時世のように思える。

精神世界を扱う、いわゆるスピリチュアルとされる分野の内容も、何となくフワフワして、これといったカチッとした芯が感じられない。(*)

精神世界の書籍や動画も、それなりに流布しているのは確かだが、まだまだ内容が玉石混淆なこともあり、唯物論を凌ぐほどの主流にはなれていない感じだ。

それはともかく。

精神世界に否定的な唯物論者と思われる人でも、精神世界に肯定的な人でも、ある種の共通項が見てとれる人がいる。

それは。

いくつかの書籍や、動画などで、
「 ああ、また同じ話をしているな 」
と感じる人がいることだ。

再度こうした話を見聞する場合には、
「 またあの話か 」
と感じることもある。

しかし、私は、これをとても好ましく思っている。

それは、その人の言っていることが、立場や時期によって変わることがなく、首尾一貫性が保たれていて、信用できると思えるからだ。

少なくとも、同じことをいい続ける限り、その人は信用できると思えるのである。

もちろん、人間は様々な経験を重ねて進歩するというか、変わっていくものだから、いつまでも同じ考えでいないことも確かだ。

しかし、同じ考えの繰り返し、いわば、反芻のような態度を維持する人は、それなりに誠実さのある人だと思うのである。

特にご本人の固有の経験にもとづいた事実についてそれを感じる。

「 私は、この事実については、経験したこと、そして思うままを、そのまままっすぐに伝えます 」

という、相手の立場や状況に左右されることのない、誰に対しても変わらない態度を見て取ることができるからだ。

進歩したり、変わるのが悪いと言っているのではない。

なぜ、このようなことを言うのかというと。

とある有名な女性作家さんについてのこと。

彼女は、若い頃は、仕事には真面目ながらも、恋愛などで破天荒な生き方をして、様々な紆余曲折を経られたようなのだが、一生懸命生きた人ではあるし、人のためにも随分と尽くしてきた人である。

しかし、その人の考えが、時と場合によって違うのをいくつか見てきたのが、何とも残念に思えたことがあったのだ。

「 今だから言うの。
  今だから言えるの。
  これホント 」

としてそれまでに言わなかったことや、以前と違った考えを言う。

こうしたものを見聞すると、その人に対して抱いていた信頼感を半ば裏切られたような気持ちになるのだ。

やはり、私達肉体人間は、神様の分けられたお命を本質としているために、あくまでも、愛に満ちて、真善美に悖らない真っ正直な生き方を、いわば、信義誠実の原則のような生き方を本来的に好ましく思うようになっているからだ。

いかに世の中が乱れ、犯罪がはびこり、騙しが横行していたとしても、私達が生きていく上で、いかにウソをつかずに生きてはいけない厳しい環境下に置かれていたとしても、人間同士で互いに信じ合うことが、気高く尊いことであると、意識の底に神意識があるために、無意識にわかっているからだ。

だから、言うことをコロコロと変えられてしまうと、

「 じゃあ、あなたのそれまでの言っていたことは、一体何だったんだ、ウソだったのかよ 」

と思ってしまうのである。

もっと言えば、

「 あなたが世間一般の人々に対してかつて言っていたことは、その時点でのあなたの精一杯の誠意を込めて話した真実ではないということなんだな。

つまり、あなたは、相手となる私達を欺いていたんだね 」

と言えることになってしまうのだ。

その点、時と場所を変えても、同じ考えをあらわす人は、信用ができて、好ましい人だと思うのである。

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(追記)
実は、こうした人間の性質を悪用した、裏技というか、とんでもない事例がある。

それがナチスプロパガンダの 1 つ
「 嘘も百回言えば真実になる 」
だ。

人間の本来的に持つ、真善美に悖らない、すなわち、正しいもの、美しいもの、従って、互いの信頼関係を結ぶことを好む人間の奥深くにそなえている本質的な性質を悪用したとんでもない事例である(言霊云々その他の話はとりあえずここでは除外する)。

簡単に言うと、人間の本来的に持っている、
「 人を信じたい、人と信じ合いたい 」
という気持ちを悪用したものと言える。

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(*)スピリチュアルを語る人の書籍や動画では、よく以下のように言われます。

宇宙、宇宙、・・・。

宇宙といってピンときますかね?

じゃあ、その宇宙をつくったのは誰なの?

創造主もなしに、自然発生的に宇宙は生成されたのですか?

それとも、主体と客体の因果関係を抜かしながら、因果関係を説く、仏教の不思議な縁起というものですか?

そうしたものよりも。

神様といった方が、ずっとスッキリして見通しがいい。

わかりやすい。

宇宙、宇宙の連呼をみていると、もしかしたら、現時点での宗教の分裂や争いに鑑みて、神様を持ち出すべきではないと考えているのかな?

スピリチュアルを語る人達の宇宙の連呼を聞いていると、そんな気がすることがあります。