182_引き寄せ(はじめに)

引き寄せの本が選べないので、引き寄せの概要の把握と、これに関する個人的なとらえ方は後回しにして、とりあえず、引き寄せについての感想や雑談の形で適当に散発的に書いていくことにする。

当初の予定から外れ、かなり話がとっちらかるかもしれないし、見切り発車で、締まりのない、いい加減な話になるかもしれない。

ということで。

引き寄せ界隈(?)でよく言われる言葉の「願いを叶える」。

じゃあ、この「願いを叶える」の「願い」とは一体何を指しているのだろうか?

私達のほとんどすべての人は、悟りを開いていないから、人間=肉体人間という肉体人間観に縛られている。

従って、とりあえずは、肉体の五感にまつわる欲望を満足させることを基本に、様々な欲求を抱(いだ)くものと言えるだろう。

現在は、貨幣経済だから、まずは少しでも暮らし向きが良くなること、できれば、潤沢な資金を背景に、安心して余裕のある裕福な暮らしをしたい、と考えることが自然だろう。

まあ、そこまでいかなくても、普段から生活面での不安にさいなまれることのない、そこそこ安定した生活を望むのが普通だろう。

現代では、ただ一人、人里離れた山奥の洞窟や、はたまた無人島で、そこそこ足りる生活に満足できるような暮らしをすることは、まずあり得ないし、こうした生活をするのこと自体が、そもそも難しく、現実的とは言えないからだ。

しかも、仮に現代社会で孤独を楽しみながら生きていくにしても、何かしら他人とのかかわりを持たずには生きていけないようになっているのが普通だ。

無人島や山奥にこもって、昔の仙人のようにたった一人で、自給自足の生活をするのは、まずあり得ないだろう。

では、こうした世の中で「願いを叶える」の中の「願い」として私達が抱く欲望は、どのようなものになるのか?

社会で首尾よく成功をおさめ、余裕のある、できる限り裕福な暮らし向きの生活を手に入れること?

見目麗しく、性格の良い異性を伴侶として獲得して、穏やかな家庭を築き、子孫を残すこと?

それとも、当面、向き合わざるを得なくなっている、病争貧苦を何とか克服できるものなら克服すること?

まあ、大体のところは、これらに関連することがほとんどなんじゃないのかな。

でも、こういった欲望にもとづく願いを叶えるのに、なぜ、わざわざ、引き寄せや潜在意識という、目に見えて、あるいは、言語化が難しい仕組みに頼ろうとするのか?

唯物論で考えられる限りの自分の正当な努力だけでは叶えられない願いだからなのか?

これ、「苦しい時の神頼み」に似ていやしないだろうか?

どうも、既存のまともな唯物論の理屈にもとづく努力だけでは願いが叶いそうもない、あるいは、叶えることができるかもしれないけれど、面倒くさいなど(?)の理由で、どうやら飛び道具のような効果(?)があるかもしれない、引き寄せや潜在意識の力があるようだから、これに頼ってみよう、と。

そうした動機が多いんじゃないのかな。

神が光あれ、と言われた話ではないけれど、人間には神様との何らかのつながりがあり、こうした神様の有する神秘力の片鱗を持っていると無意識に感じているんじゃないのかな。

だから、こうした不思議な力が、潜在意識や言霊に宿っているらしいと当たりをつけ(?)、これを活用してみよう、というのが引き寄せや潜在意識を活用した始まりなのかもしれない、と考えたりもするんだけどね。

叶えたい欲望=願い、はある。

ただ、それを叶える手段については、唯物論で考えられるところの世間一般で行う、手間がかかり地道な努力とはまた違った特別な方法が、どうやら世の中にはありそうだ。

しかも、その効果が普通の地道な努力とは比べものにならないほど、大きな著効(?)をもたらすものとなりそうだ。

せっかく、こうした可能性を持っている飛び道具らしきもの(?)がある、あるいは、ありそうなのだから、これを活用しない手はない。

そう考えているんじゃないのかな。

悪い言い方をすると、世の中に、何となく存在しているらしい、全容を把握できない、得体のしれない(?)ものがあり、効果も得られるかもしれないから、これを使ってみよう、と。

だから、引き寄せには、効果が得られるまでに、好転反応というまったく予想だにしない、あまり好ましくない、不思議なことが起きてくる場合がある。

とりあえずは、今回はここで区切る。