他人に対する批判や悪口はどうしようもなく見苦しい。
恨み言のような批判や、およそ明後日の方を向いている見当違いの批判や、すぐの仲間割れや、敵対しての自己正当化の見苦しい言い訳や、罵り合い、などを見ていると、本当に気持ちが悪くなってくる。
えもいわれぬ嫌悪感とともに、本当にムカムカ、モヤモヤしてくるのだ。
見ないようにしていても、ネットを見ていると否応なしに見てしまうことがあるからだ。
見切れたらなるべく早く離れるようにはしているけどね。
高揚して(?)書いているご本人も、罵り合いをしている当事者の人達も、あれで本当に平気なのかなあ?
他者否定の業想念はどこまでいっても、いつまでたっても業想念。
ダンマパダ(法句経)にある通り(これもこれまで何回書いてきたことか・・・)。
論駁したところで、結局は悪い因縁因果を作り、世の中を悪くすることにしかならないことがほとんどなのに。
まだまだだねえ。
それと。
これは俺がきわめて気か弱く小心者のせいでもあるのだが・・・。
世の中には、人を不安に陥れる情報を発信する人があまりにも多すぎるよ。
明快な解決策を提示しながらならまだしも、解決策への道筋もないまま、ただただ不安を感じさせるような内容がきわめて多いように思えてならない。
要するに、結果的にただご自身の不安を吐き出すだけのような内容になってしまっているものが多い、ということ。
本当の実質的な解決策(=世の中の因縁因果を少しでも改善すること)は、どんなに微細でも、極小でも祈りしかないとしか考えられない。
その祈りも一切せずに、不安を広めるということは、たくさんの人々の意識に不安を抱かせる、場合によっては植えつけることにしかならないことになる。
誰も解決なんかしてくれませんよ。
何となくの期待はすぐに霧消しますよ。
他力本願を期待しても本当にもろい。
小規模な者は小規模な者で、終始内部分裂や抗争を繰り返してゴタゴタやっているので、まとまって大きな力になることなど到底あり得ないとしか思えない。
最近もこうした典型例のようなゴタゴタがあったね。
民主主義の素晴らしい建前は、もちろん、きわめてありがたいたくさんの恩恵をもたらしてはくれるけれど、やり方によっては見事なまでに形骸化されてしまうのではありませんか?
この世の中で悟りを開いたような人はまずおらず、肉体人間観に縛られた唯物論の思考をする人がほとんどなのに、なぜこんなことばかりするんですかね?
理由は考えられなくもないけど、やっぱりやめてほしいんだなあ。
祈りをしながら、不安を吐露しないではいられないならともかく、祈りの一つもしないのに、不安を吐露して、助長するというのは・・・。
ご自分の荷物はご自分で持ちましょうや。
そのためにも、浄めのツール(?)もあるんだし。(*)
南無阿弥陀仏や世界平和の祈りのような。
俺も今回は批判めいたことを書いてしまった(=業想念)が、本当はこんなことは他人に指摘なんかされなくても、常に常に、自分の神性(=五井先生の本には確か本心さん、本心さんと神性を本心と表現していた記述があった。どの本だか忘れてしまったが)と対話していれば、わかることなんだ。
押し留めようもない、過去世からの業想念で、この世に出てきてしまうものなら、上記の南無阿弥陀仏や世界平和の祈りで、み仏(神様)におすがりして何とか浄めて頂けるものなら、浄めて頂くように習慣化していくしかない。
他者批判をして、いい気になっていても、決して業想念の渦を抜けることはできないからだ。
さしずめ、この業想念の渦の中でガタガタやっていることが、がダンマパダ(法句経)で述べられていることなんだ。
仏教の経文も、書籍やネットなどの巷間にあるそれに関する解説も、あまりにも常識論に偏り、なおかつ、簡素すぎて、ただの軽い勧善懲悪のような話が多いから、どうしてもわかりにくい嫌いがあるからね。
だから、何もわざわざ瞑想をするまでもなく、自分の心(=神性または本心)に真剣にたずねてみればいいんだよ。
肉体人間観にもとづいた、自分の利害得失を計算した利己的な行動基準ではなく、業想念に振り回されたような行動基準ではなく、あくまでも自分の中の神様にたずねてみるんですよ。
とてつもなく業が深い、因業人間やサイコパスでなければ、わからないはずがないんだから。
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(*)南無阿弥陀仏の祈り言葉や世界平和の祈りを「ツール」というのは、あまり適切とは思えないな。
ツールは、道具や手段のことだし、わざわざ、横文字にするのは、神性の面から考えても、深く正しい意味もないままに、安易に横文字化をしている、端的に言ってしまうと、チャラい言い回しになってしまうからだ。
南無阿弥陀仏にしても、世界平和の祈り言葉にしても、私達の顕在意識では理解できなくとも、実質は、み仏(神様)から頂いたありがたい祈り言葉なのだから、こんな「ツール」などという軽々しい響きを持つ言葉を使うべきではない、と考えられるためだ。