188_引き寄せ3(部分と全体)

引き寄せに関する前回 ( 186_引き寄せ2(今生を元にした願望と天命の一部分の相違) - おぶなより2 ) の続き。

ちょっと嗜好を変える。

以下、私達肉体人間のの想いと行いについては、行いの前に必ず想いがあるので、この二つを含めて、「行い」としてまとめて表すことにする。

前回までに書いてきたことを簡潔に示すと以下の通り。

(1) (過去世のものがかなり含まれる)今生での行い(*)
  ↓
(2) (原則として)輪廻転生を通す過程
  ↓
(3) (原則として来世以降の)結果

この一連の過程の中の (2) が、言い方は悪くなってしまうが、私達にはまったく予想することができない、考え及びつかない、ブラックボックスのように、長い長い輪廻転生の過程の中の
今生という一つの人生から見た場合に、
具体的に、
来世以降のいつの時代の、
その人生でのいつの時期の、
どのような形で反映されてあらわれてくるのか、
はわからないことが大半である。

つまり、
今生の行いを投入(インプット)とすると、

途中は、
輪廻転生の仕組みという、
ブラックボックスの中に入り、

(原則として)来世以降の、
どの時代の、
どの国籍の、
どのような人の人生の、
いつの時期に、
どのような形であらわれてくるのかは、
つまり、
産出(アウトプット)については、
大体のことしかわからない、

ということになる。

もちろん、良い行いは、よい結果を、悪いものは悪い結果をもたらすことにはなっても、因縁と因果の関係づけのための追跡調査は、ほとんどできない場合が大半なのではあるまいか?

例えば、

①今生で身勝手に 甲 ををひっぱたく
   ↓
②今生で 甲 からひっぱた返される

というのはまれで、来世以降に ② が起きてくることが多い、というように。

しかも、お互いに、過去世の記憶は消された形で。

これでも、かなりわかりやすい例だが、これをもっと多様化して一般化した因縁と因果の関係の形となると、
輪廻転生の中のどの人生の行いが、
その人生から見て来世以降のどの人生に反映された形で循環していくことになるのか、
は基本的に私達にはわからない。

これがわかるのは、中でも輪廻転生の全容を一瞬にしてわかるのは、漏尽通を獲得している、悟りを開いたような高潔な人格者くらいしかいない。

従って、今はほとんどいないだろう。

万が一、いたとしても表舞台には出ずに、ひっそりとしている可能性が高いためだ。

とにかく。

いつの時代で、
どこの国のどのような人生の行いが、

その人生から見て、

来世以降のどの時代の
どの国に
どのような形で反映されて巡っていくのか

は私達にはわからない。

霊感があってわかる人がいても、わかるのは、ごくごく、一部のみの因縁と因果の対応くらいしかない。

神様のおつくりになられたと思われる、輪廻転生という壮大な仕組みならば、それなりの法則性や規則性があり、デタラメでメチャクチャなカオスのような因縁と因果の対応をさせるようにしているとは考えられない。

やはり、それなりの法則性や規則性があり、きちんとしたものとして、おつくりになられたと考えられる。

ただ、このように考えられる輪廻転生の仕組みは、とても壮大で、全体の流れを俯瞰することができるのは、上記のような特別な人しかいない。

神様のおつくりになられたと思われる法則性や規則性のある輪廻転生という壮大な仕組みでさえ、因縁と因果の対応は、こうして簡単にはわからないようになっていると考えられる。

従って、すべては神様の目からご覧になった私達一個人(個々の霊魂魄。しかも魂の分割と結合があるから一律には言えない。詳細は省く)に、輪廻転生を通して果たすべく授けた一つの天命の中でのありようと考えられる。

今生というのは、この過去世から来世以降にわたって展開されるいくつもの人生の中のたった一つの人生、きわめて狭い範囲の話ということになる。

その長い長い輪廻転生を通して、果たされるべく私達に授けられた天命は、神様のみ心で決められることになるから、私達にはわかりようがない。

わかるはずもない。

だから、言葉は悪いが、輪廻転生の循環過程の一つの因縁と因果がめぐる間をブラックボックスと書いた。少なくとも、ホワイトボックスのようなものではないとだけは言える。

いわば、神様のおつくりになられた正当な因縁と因果の対応さえも、このような輪廻転生の一過程の中にいる私達の視点から見て、わかりようもないほど複雑怪奇(?)というか遠大(?)というか高尚(?)な仕組みになっていると考えられる。

引き寄せというのは、

こうした長い長い輪廻転生という壮大な過程の中の人生の今生という、ごくごく一部分を切り取って、

その人生の中で、こうした神様のおつくりになられた壮大な輪廻転生という仕組みを用いて、私達個々の霊魂魄に授けた天命とはまったく別な形で、

一つの人生、今生なら今生という一つの人生に限って、強引な形で、肉体の五感にまつわる唯物論的な願望を叶えるために、無理矢理に因縁と因果を対応させてしまおう、としていることに他ならないのではないか?

神様の輪廻転生を通して私達個々の霊魂魄に授けた天命という見えざる手(?)に勝手に介入して、今生の欲望を無理矢理実現させるようにしてしまおう、という形の。

私には、そのように見える。

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(*)今生での顕在意識のうち、かなりのものが、前世、前々世、・・・の集積となる過去世において(その各々の過去世の時点から)の行いだとしても、これを判別することは私達にはできない。

わからない。

これがわかるのは、やはり、悟りを開いて、漏尽通を得ている高潔な人格者しかいないと考えられる。

だから、私達にはわからずとも、今生の今現在の顕在意識には、実は過去世におけるものがかなり含まれている、ということ。

だから、今生のうちのかなりのものは、過去世のありよう(ここでは行い)=因縁の今生の今現在で時間をかけて解消されていく(=消えてゆく)姿ということになる。

従って、今生の中の今現在の因縁と因果が対応しているように見えたとしても、その内実は、過去世の因縁が、今生の中の今現在の因果という結果としてあらわれて対応している可能性が高い、ということになる。