203_話し手への要望

能弁か。

確かに、こういう人はいるよな。

よくこんなに次から次へと淀みなく(人によっては速射砲のように)話続けることができるな(しかも、滑舌がいい)、という人は確かにいる。

ユーチューブにもこういう人がいるね。

もちろん、編集の繋ぎ目が明らかにわかる動画がほとんどなのだが、それにしても全体の時間が 10 分台から 20 分台に収まる動画には、よくまとまっているものが多い(中には、繋ぎ目の間隔が短すぎて、次の接続部分の頭が切れぎみで、前後の繋がりがやや唐突で、なんだか接頭部分を間引かれたような印象を受けるものがいくつかある。せめて 1 秒でも間を挟めば繋ぎ目がスムーズになるんじゃないのかな)。

彼ら(彼女ら)は、かなり頭の回転が早くて、それなりに優秀な人なのだろう。

しかし、だからといって、話の内容が完璧なのか、というと・・・。

答えは否の場合があるんだな。

いくら、聞く人を圧倒するように、まくし立てるように話す人でも、肝心の内容が伴わず、「画竜点睛を欠く」のようになってしまっていては、本来の意思伝達から外れた本末転倒な結果となってしまうからだ。

まあ、簡単に言えば、一番大事なのは量より質、形式より中身、ということ。

例えば、人格や霊格が高い人の特徴云々を取り上げていたとある精神世界を扱っている話があった。

確かに、言っていることそうだろうし、何とか話をわからせようと、一生懸命に話しているのはわかるのだが、肝心の根っこというか、本質に触れていない。

いわば、本質の周辺をなぞる、近場のハウツーを散発的に説いているような感じに見えてしまうのだ。

人格や霊格の話ならば、五井先生の神様観(人間観?)から考え、応用すればすべてわかる。

すなわち、神様は、真善美に悖らず、愛そのものの存在であり、肉体人間は、その神様の分けられたお命を頂いている、神様の子供に他ならないとすれば、これからすべて演繹的に考えることで、様々なことへの対処の仕方が自ずとわかるようになるからだ。

だから、あたかも勉学や技能習得のハウツーのように、細々とした必須の知識のように、箇条書きのように細目を覚えなくても、本来ならば対処ができるはずなのだ。

私達には元々神性がそなわっていて、その深層には神意識があるのだから。

確かに、人格がまだまだ至らない場合には、こういった本質まで触れないハウツーで詰めていくことで、人格の向上を目指していくのも、一つの行き方となる側面もあるだろう。

だが、やはり、常に、常に、肉体人間の本質に立ち返り、考えられる癖をつけるようなあり方が自然に身につくように、言い換えれば、そうしたハウツーをわざわざ箇条書きのような知識として覚えなくても、日常茶飯事の何気ない行いとして、自然な形として行えるように、人格向上のための努力が必要になると思うのだ。

見識を広め、知識を習得するのも、それなりに意義があると言えるだろう。

ただ、こうした知識を何気ない日頃の想いと行いに、自然な形で反映させるためにも、人格の向上に向けての努力、もっと言えば、霊性の開発が一番適していると思うのである。

そのためにも、世界平和の祈り一念のあり方をご一考願いたいのである。

簡にして要を尽くす、しかも正鵠を射るような話や文章。

こうした内容を伴った話や文章が増えていくためにも、霊性の開発をお願いしたいのだ。

一生懸命努力はしているものの、こうした形には程遠い、冗長なグダグダした文章しか書けない私が、人様のことをとやかく言えた義理ではないのだが、まあ、一つの要望としてここに記させて下さい。

(追記)
批判めいた話になるが、要望ついでにもう一つ。

これはテレビ・ラジオなどのマスコミ媒体を問わず、VTuber(バーチャルユーチューバー)までも含めてのこと。

身体的な事情があり、上手く話すのが難しい方(かた)なら致し方ない場合もあるだろうから、以下、これは例外として除くものとする。

ユーチューブなどで、老若男女を問わず、滑舌が悪く、日本語としての話言葉がピシッと決まらず、フニャフニャ、モゴモゴと話す発信者がいる。

また、言葉の中の一語一語のつながりが、雪崩を打つようにグシャグシャ、グニャグニャで、どうにも聞き苦しく話す人も多い。

ああいうの、何とかなりませんかね?

仮にも、表舞台に立つ、組織や自らの主張を発表する立場にある人ですよ(現代のネット上での、ブログやユーチューブ動画などの一般公開は、ある意味、これに相当する。ブログや動画などへのアクセスがバズろうが、閑散としていようが、絶無だろうが、世間様に向けてこれらを公開することには何ら変わりがないのだから)。

という訳で。

こうした人達に対する要望を簡単に言うと、もう少し、誠意を尽くしてほしいんですよ。

誠意を尽くしてほしいのよ。

私達肉体人間は、神様の分けられたお命を本質としている存在です。

つまり、本質は神様です。

だから、話をする場合には、主体となる話し手として、聞きやすく、間違いのない話し方をするべきだ、それが本来のあり方だと思うんですよ。

つまり、話し手として、神様の子供としての存在に見合った、気高く、誇り高い姿勢を見せてほしいのですよ。

かりそめにも、人様の前で意見を発表して、聞いて頂くのですよ。

端的に言うと、ナアナア、ダラダラではなく、身を引き締めてほしいんですよ。

言葉さえ、紡ぎ出せれば何でもいい、というのではなくて。

そして。

聞き手となる人々も、本質的には同じく神様となる訳ですから、その方々に対する、いわば大切な献上品を差し上げるつもりで、話し手としては、誠意を尽くして、聞きとりやすく、間違いのない、威圧感がない程度にハキハキとした、かといってけたたましくも、やかましくも、騒がしくもない、落ち着いた気品のある話し方をしてほしいのです。

また、人によっては扱う話題が深刻な内容であるにもかかわらず、おちゃらけの態度が過ぎて、「この人は本当に被害者の気持ちがわかっているのか?わかっていたら、とてもではないが、おちゃらけた態度や笑いを絡めるなど、もっての他で自粛すべき内容なのに、何を考えているんだ、この人は?何だかんだ言っても、やっぱり被害を他人事にしかとらえていないんだな、この人は」と感じる人もいる。

何でも笑いに変えればいいもんじゃないんだからね。

場をわきまえなければ、笑いが被害者の傷に塩を塗ることになりかねないからだよ。

ここ最近は、テレビをほとんど見なくなりましたが、容姿がそこそこいい、とある当時( 10 年程前に)中年と思われる女性キャスターで、話し方がお世辞にも上手いとは言えず、滑舌が悪く、フニャフニャモゴモゴと何を話しているのか、まったく聞き取れないことがある人がいました。

語尾が消え入るような感じになることもたびたびで、そんなありさまを、一切の訂正もせず、詫びもしない。

彼女には悪いですが、「こんな話し方しかできない人が、何で番組の看板を担うキャスターなんだよ」と、見ていて本当にイライラして仕方がなかった。

いくら見栄えがそこそこよくて、語学が堪能でも、あれではねえ・・・。

こうした人は、男性には少なかったです。

それでも、皆無という訳ではなくて、男性アナウンサーでも、言葉が飛んでしまったり、明らかに滑舌が悪い人が数人はいましたね。

仮にも、プロ(プロフェッショナル)として厳選されたはずの、番組の看板となっている人達がこれです。

いくら容姿端麗その他の理由があっても、話を提供する側の放送局の誠意を疑ってしまうのですよ。

なぜ、こうした人達を選ぶの?

なぜ、こうした人達を使うの?

なぜ?

特別なカリスマ性や人気が必要となる芸能やお笑いなどの番組ならいざ知らず、仮にも報道系であの人選はないでしょうに。

そう感じた事が何回もあり、我慢ができずにとうとうブチ切れてしまい、テレビを見るのを止めたといった側面もありました。

報道系ですらこれですから、芸能系はもっとひどい。

最近、かなり昔と思われる時代劇がユーチューブにアップされていて、そのいくつかを見ました。おおむね、上手い人が多かったのですが、やはり紅一点的に出演しているような若い女性などの中に、セリフがフニャフニャな人がいた。

情感の表現までは無理だとしても、あまりにもひどいと、せめて一通り、セリフをこなしてよ、と感じてしまう。

だって、仮にも選ばれて、たくさんの人に「見て頂く立場の人」なんですよ。

それに見合った自覚のある姿勢を見せてくれなければ、どうしようもないじゃありませんか。

今取り上げたのは、かなり昔の放映当時で言えば、脇役か添え物的(?)な感じの人の話ですが、テレビを見ていた一昔前(約 10 年前)当時でも、主役を張る人でも、存在感はともかくとしても、どうにもセリフが頂けない人が、年齢を問わず、何人もいました。

この人、これで主役俳優さんなの?

人気があれば、カリスマ性があれば、話題性があれば、視聴率さえ稼げれば、セリフ回しや、芝居の中身なんかどうでもいいの?

・・・。

だから。

努力して、改善すべき点は改めてその時点からでも何としても向上させる。

それがどうしてもできないというのなら、自分から身を引いて、他の適格者に道を譲る。

育てる側も、我慢して使い続けていても、あまりにもひどく、改善の余地がな皆無ならば、それなりに見切りをつけるべきですよ。

そういった態度がまったく感じられない状況を放置し続けているのを見せつけ続けられるのは、本当にたまらない。(*)

また、ユーチューバーや VTuber 、特に、 VTuberに見られるのですが、小中学生でもしないような、簡単な漢字の読み間違いなどが、当たり前のように何回も何回も繰り返されるのを聞いていると、本当に苦痛で仕方がないのですよ。

「だったら見るな」と言われそうですが、見たくなくても否応なしに、「これでもか、これでもか」とタイトルが上がってくることが避けられない対談型アニメ風の解説動画(いわゆる、ゆっくり系の動画)がありますのでね。

自動音声読み上げソフトを使っているのかどうかわかりませんが、少なくともあんな状態では、誠意を尽くしているとは言えませんね。

視聴者をナメているのか、バカにしているのか、とさえ感じますよ。

キツイ言い方をすると、「こんな間違いなんか大したこたあねえよ、いくら放置したって構やあしねえぜ」といういい加減な態度をしている、と読み取れるからですよ。

つまり、スタートラインに立つ以上は、まずはきちんとした誠意を伴った形式を整えてほしいんですよ。

もちろん、諸般の事情から見切り発車にしなければならない場合もあるでしょうから、その場合でも少しずつでも時間をかけて、最低限でもこのスタートラインは整えてほしいんですよ。

勝負は、あくまでもそこから始める心構えのつもりで。

以上は、主として形式的なことではあるし、内容の充実度も大事ではあるでしょうが、やはり、誠意を尽くさないやり方は、改めてもらいたいと思いますね。

「やたらめったら数さえこなせば、間違ったあり方なんか放置したって知ったことかい」という感じで、「みっともない状態を放置し続ける」という、いい加減な俺様主義というのではなくて、訂正すべき部分があれば、そのまま放置せずに必ず訂正を施して、これからの態度も誠意を尽くしたものに改める、ということです。

ごく簡単で初歩的な間違いを、いつまでも、いつまでも、いつまでも放置し続けるということは、学生以上の人間には不快感を抱かせ、幼児には間違った言葉遣いを覚えさせる、あるいは読みを混乱させることをしているんですよ?

いいんですか、そんな有り様で?

最初に、形式よりも中身が大事だと書きましたが、その形式さえも、やはり誠意を尽くせるところがあれば、それなりにきちんと誠意を尽くしておくべきだ、ということです。

それが、上記のように、私達肉体人間の本来のあるべき姿に他ならないからです。

あと、これはどうでもいいことなのかもしれませんが・・・。

上記は、話し手に対して、何の疑いも持たずに、素直にその有り様を受け取って、書いてみた訳です。

しかし、もしも万が一、そうではなくて、故意に間違いを紛れ込むようにしている可能性もゼロとは言えないかもしれない。

例えば、仕事が物凄くできる人が、上司の憎しみやそれにもとづく人事の被害を受けないために、完璧な仕事を仕上げた中に、あえてどうでもいい、重大ではない些細なミスを紛れ込ませ、故意に抜けたような姿を上司に見せることで、警戒心を抱かせないようにさせて、安心させる、といったやり方です。

発信者になぞらえて言えば、こんなひどい、きわめて程度の低い、子供でも滅多にしないようなミスを連発するような発信者だから、目をつけられることにはならないだろう、と演出をする可能性がある訳です。

私なんかは、天然抜け(=ミスをしたくなくてもミスをしてしまう)のタイプですが、こうした故意に謀ったミスは、計算した上での策略ミスになりますね。

つまり、敵対者(???)を安心させるための演出をしている訳です。

まあ、その可能性は、ほとんどないとは思いますけれど・・・。

あと一つあげておくと。

人(ひと)を「ひと」と読むべき文脈で「にん」と読んだりと、本当にどうしようもなく酷い読み間違いの連発いくつもいくつもいくつもされると、本当に不快だし、イライラしてくる。

ということは・・・。

つまり、動画を視聴する人の普通の良心(その大元は真善美と愛に悖らない神意識)を、あえて傷つけ、想いを掻き乱すことで、視聴者を不愉快にさせる。

つまり、神様のみ心には適わない、真善美と愛に悖る悪い感情を視聴者に惹起させることで、ひいては人々の間に不穏な想いの土壌を形成させる狙いですかね。

あまりにも酷い現状から逆算すると、このような可能性が考えられますね。

つまり、この世を故意に悪い方向に持っていこう、悪くしようとして行われる一つの手法。

って言われても仕方のない話。

ただ、こんなことをしても、企てた当人には、それ相応の重い報いが来ることになるのにね。

(追記)
またか、と思われるかもしれませんが・・・。
バカ、
アホ、
クソ、
グズ、
ゴミ、
などを使うことも、厳しく言えば、ご法度ですよ(私はこうした言葉を「バッキャロー」をはじめ、すでに何回か使ってしまったので、これは私よりも遥かに人格の高い、ブログや動画をネットに上げる、たくさんの普通の人達に向けて言っている)。

ましてや、精神世界(スピリチュアル)の話をする場合ならなおさらのこと。

仮にも精神世界(スピリチュアル)関連の内容を発信する人が、神様のみ心に適う見本を示さないで、バカ、アホ、クソ、グズ、ゴミなどの汚れた言葉を使ってどうするんです?

肉体人間や人類のことを、バカだの、アホだの、クソだの、グズだの、ゴミと言うってことは、その本質となる神様をバカだの、アホだの、クソだの、グズだの、ゴミと言っていることに他ならないのですよ。

どんなにもっともらしいご高説を垂れていても、肝心要の神様を棄損しているんです。

バカだの、アホだの、クソだの、グズだの、ゴミといった汚い言葉を遣うことで、
自分という主体として神様の本質を汚し(=神様がこうした汚い言葉を発することになる)、
人様という客体の神様の本質を汚している(=人様という相手方=神様を汚い言葉で貶めていることになる)
からですよ。

これに気づかないということは、肉体人間の本質が何かがわかっていない、肉体人間の本質が神様の分けられたお命という光明体、光であるということが理解できていない、とわざわざのたまっていることになるんですよ?

いいんですかね、そんな状態で?

悟りを開けていない肉体人間は、罪悪深重の凡夫。

しかし、あくまでもその本質は、神様という光(霊光)につながっているんじゃないの?

いくら、光、光ったって、肉体人間が本当にバカ、アホ、クソ、グズ、ゴミだったら(=その本質が神様ではなかったら)、そもそも光なんか出やしませんよ。

そもそも、クソ、グズ、ゴミでさえも、元をたどって考えれば、いずれ消え去るにしても、何らかのそれなりの意味合いを持ってこの世にあらわれた神様の化身と考えることができる訳で・・・。

これがわからないで、宇宙や、ワンネス云々を説いてもねえ・・・。

・・・。

まあ、俺も人様のことをとやかく言えた義理ではないが、できる限り自分で心がけるのは・・・。

どんなに、つまらないと言われようが、刺激がないと言われようが、世界平和の祈りとともに、あくまでも、気持ちを平らに、平穏な世界に近づけていく。

ただ、それだけだな。

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(*)仮に、番組制作に必要な要件を著しく満たさない人しかいない場合ならば、つまり、メンツが揃わなければ、そもそも番組を無理して作らないという選択肢はないんですかね? スポンサー事情が厳しい昨今では、ますます番組に空きを作りたくないのかな。 24 時間近く、のべつまくなしに放送をするのではなくて、番組の間に隙間を作り、どうしても空きを埋めたければ、再放送を流すなり何なりして。 番組を作れないか、これに匹敵する状態なら、無理矢理番組を作るのもどうなんですかねえ。 ネットのブログや動画なら、制作される映像などのモノの完成度や品質がテレビ番組には及ばなくても、モノを作れない場合には、必然的に空きができる訳だし、視聴者側としても、見たい時間も、見たい箇所も自在に選べるから、自由度が高く、時間にも縛られず、録画の手間がない分、テレビとは違い明らかに便利ですよ。 そう考えると、テレビは番組表の計画を含めて、いやが上にも変革期を迎えているのかもしれませんね。