前回 ( 204_地道な運命好転の方法(はじめに) - おぶなより2 ) の続き。
私なりに独自の形で、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の話をまとめ直そうしたのだが、何回か繰り返して話を聞いているうちに、思うところがあり、五井先生の話の原形(オリジナル)に近い形で、再現することにした。(*1)
そこで、なるべく手を加えず、できる限りオリジナルに忠実に、再現してみることにする(なお、どうしても音声が聞き取れなかった箇所は ??? とした。おそらく、五井先生が中年頃にされたお話だと思われる。五井先生の話し方は、とてもハキハキとしているのだが、早口である。また、適宜、カッコ書きなど加筆と、ごく一部の省略などの改変をしている)。
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ーーーーー (前略) ーーーーー
まあ、美人だとか美男っていうのもありまさあね。
顔のきたなく生まれる人もあれば、きれいに生まれる人もある、ね。
それも過去世の因縁。(*2)
どういう因縁かって言うと、やさしいいい顔をしているような人は、昔(=過去世で)、柔和な心を出してね、人々に、もう、愛を振りまいて(=愛を施して)、いうような人は、顔が良く生まれる。
(それとは正反対に、過去世で)あんの野郎、コンチクショウ、 ??? ってやっているのは、こういう、年中人を恨んだりなんかしてる想いがあったらば、それは顔にあらわれてくる、ね。
それで、生まれ変わって来ると、顔が悪くなる訳ですよ。
だから、自分の顔にしても、ね、自分の才能にしても、自分の生まれた氏素性(うじすじょう)にしても、ね、すべて、自分が過去世において作ったものなんですよ。
(今生の、今あるありと)あらゆるものは、親のせいでも何でもない。(*3)
自分が過去世において作ったものが、ここ(=今生)にあらわれてくる。
だから、(今生で)自分の環境が良くって、自分の姿が良くって、自分の才能があったら・・・。
ああ、ありがたいな、私は過去世で、うんと働いたんだな、ああ、守護霊さん、守護神さん、ありがとうございます、ますます私は立派になりましょう、とこうやればいいんだし。
もし、(今生に)悪い環境に生まれ、悪い姿に生まれ、才能がなく生まれたとするならば、ああ、私は過去世において本当に怠けて、良いことしなかったんだから、今生は本当に一生懸命やりましょう、どうぞ神様、私の天命がまっとうされますように、世界人類が平和でありますように、とこういうふうにやっていく訳です。
そうすると、過去世の因縁のたまったものが、出てしまいますね。
(世界)平和の祈りの中で、神様の中に入っていきます、どんどん、どんどん。
そうすると、そこで(過去世の因縁が)消されてしまって、新しく神様の方(ほう)から、能力も才能もね、すべて、こう、与えられてくる訳。
(そうする)と、今までは全然才能がなかったように見えたものが、パーッとある時、才能が、ね、思いもかけない才能が発揮されて、で、パーッと素晴らしくなってくる、ね。
そういうふうになってくる。
例えば、目鼻立ちが悪かったとしますね、仮に。
それで、生まれてきた。
ところが、もう、そういう(世界平和の)祈りによって、自分の想いは(過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ、すべてが平和でありますように、みんなが幸せになりますようにって、まあ、そういう柔らかい、やさしい、愛の心で生きていきます。
そうすると、目鼻立ちは整っていないのに、だんだん、だんだん、だんだん、顔が良くなります、ね。
それで、何とも言えない、愛らしい、何とも言えない、ね、こう、清らかな、そういう感じが出てくることあるんですよ。
だから、よくありますよ。
あの、男の人でもって本当に不器量なね、まあ、見られないような顔の青年がいたとする。
それが、だんだん、だんだん、立派に勉強をし、素晴らしく努力をし、人のために尽くし、ね、社会のために尽くして、偉くなってきます。
地位が出てきます。
本当の意味の地位ですね、良いことをしながら地位が上がってきたような人。
そういう人、私(←五井先生)、ずいぶん知ってますけども。
そういう人の顔はねえ、顔形(顔貌 。かおかたち)が悪いのにねえ、何とも言えない良い顔してます。
何とも言えない良い顔してるんですよね、それが。
美男とか何とかっていうんじゃなくとも、あ、立派な顔だな、って顔になってくる、ね。
それは、男性も女性も同じなんですよね。
だから、もし自分に、今不満な、能力に不満があるとか、ね、顔や姿に不満があるとか、地位に不満があるとかいう人があったらば、その不満を(過去世の因縁の)消えてゆく姿として、それは、過去世の因縁で、これが消えてゆく姿なんだ、これをなおすためには、すべての人の平和を願い、すべての人の幸福を願う、そういう想いに切り替えなければ、これはなおらないんだ、そういう覚悟をして、それで、世界平和の祈りを祈り続けるんですね。
みんなが幸せでありますように、どうか、みんなが仲良くいきますように、ね、素晴らしい平和な世界がまいりますように、世界人類が平和でありますように、そういうふうに、どういう想いでもいいから、そういう想いを持って、いつも、いつも、生きている訳。
そうすると、知らない間に、顔形も変わってきます。
それから、地位や何かも変わってきます。
運命がまるで変わってくるんですよね。
だから、自分の運命は、もうすべて自分の責任、過去世の責任。
今の責任にすると、自分がつらくなりますから、過去世の自分の責任であるんだ、ということにしてね、どんどん、どんどん、それは(過去世の因縁の)消えてゆく姿にして、それで、改めて、神様から、大きな知恵、力を頂きなおす、そういうふうに生きていくんですね。(*4)(*5)
そうすると、変わります。
必ず、もう、これね、 3 年なり、 5 年なり、 10 年なり続けたら、必ず変わらないことありません。
絶対に変わるんです。
それで、やがて、立派な人間になっていく。
そうすれば、本当の幸せがその人のところにくる訳ですよね。
ーーーーー (後略) ーーーーー
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(*1)「思うところ」というのは、五井先生のお話を繰り返し聞くうちに、たくさんの人を導いた人(=五井先生)の完成された内容を、皆さんになるべくそのままお届けするのが最善だ、と思うようになったから。
平たく言うと、(抜本的に)いじってはいけない、すなわち、下手に手を加えて作り変える必要がないほど、完成されている話だと思ったから。
(*2)過去世の因縁とは、
過去世にある、今生に起きてくること(=結果)の原因となる、
過去世においてしていた肉体人間としての想いと行い、
という意味。
すなわち、
自分(霊魂魄)が、肉体人間としてこの世に生きていた過去世において、抱いていた想いと行いが原因となって、
今生における容姿、才能、境遇などの形が結果となってあらわれてくる、
ということ。
つまり、
原因=過去世の因縁=過去世において肉体人間として為(な)していた想いと行い、
結果=今生の今現在にあらわれている、または、いずれあらわれてくる、(生まれつきを含めての)境遇、容姿、才能、その他もろもろのこと(「その他もろもろのこと」には、この世の幸せに当たる良いことばかりではなくて、病気や、争い事や、貧乏や、様々な苦労などといった、いわゆる、病争貧苦などの不幸や災難などの悪いことも含まれる)、
ということになる。
人(霊魂魄)は、何度も、生まれ変わる、輪廻転生する、とした場合には、過去世は、前世、前々世、前々々世、・・・の総称を意味する。
「過去世の因縁の消えてゆく姿」を直訳すると、
「その人(=霊魂魄)が過去世において肉体人間となり、この世で抱いていた想いと行い、すなわち、過去世の因縁が、今生のこの世において時間をかけて解消されていく姿」となる。
(*3)五井先生は、至極簡単に、あっさりと言われていますが、これ、明確な「親ガチャ」の否定ですね。
今生の今現在、このような自分があるのは、親のせいでも、偶然でも、何でもない。
今生の今現在、自分と自分の置かれている状況の根元的な原因は、他ならぬ自分自身(霊魂魄)が、肉体人間として生きていた過去世の生き方が、原因となって、今生の今に反映されているものに他ならないのだ、と。
過去世の記憶が消されてこの世に生まれてくるから、顕在意識ではわからなくとも、自らの過去世の因縁が(もちろん、親の過去世の因縁も)あって、しかるべくこの世の親と子として、双方生まれ合わせる(=この世で相まみえる)ことになったのだ、と。
(魂の分割と結合というケースはあるにせよ)私個々の魂には、良いことも、悪いことも、輪廻転生を通して公平な報いが来る、公正さが保たれているから、あくまでも法則に則った結果が、過去世の因縁の反映として、今生以降に因果としてもたらされる、ということですね。
ただ・・・。
私のように、なまじ輪廻転生という仕組みを知り、これを信じるようになったばかりに、自分が今現在、理不尽につらさ(私の場合は病気)を味わっている原因となる過去世の因縁が知りたくてもわからなくて、苦しむ人間が出てくることにもなるんだけどね。
まあ、しょうがないな。
神様を善なる存在、と仮定する限り、こうした論理の帰結にならざるを得ないのだから。
(*4)これは、私の勝手な独断と偏見による推測だが。
過去世の因縁があまりにも厳しい場合や、今生にも原因がある場合には、自分を責め苛む悪影響を避けるために、とにかく、一切合切、過去世の因縁ということにする、という意図だと思われる。
(*5)今生で今ある境遇や起きてくることを、どんどん、(過去世の因縁の)消えてゆく姿にして、それで、改めて、神様から、大きな知恵、力を頂きなおすように生きていく仕方は、南無阿弥陀仏祈り一念の信仰の仕方と、本質がまったく同じです。
この私達の肉体を生かす神霊(仏教ならみ仏・阿弥陀如来様のお命)から始まって、何から何まで、み仏・阿弥陀如来様(=神様)から頂いているのだから、(過去世の因縁も踏まえて)今あること、起きてくることすべてに感謝をして、そして、み仏・阿弥陀如来様からのおはからい・思し召し・お救いにすべてを委ねて、改めて、日々、新たに様々なことを頂きなおすという行き方です。
だから、南無阿弥陀仏の唱名(祈り)一念の信仰も、世界平和の祈り一念の信仰も、その本質は、
「神様ありがとうございます」
という感謝を根底に据えた信仰になるんですね。
あと、置かれた立場で精一杯、できる範囲で、神様のみ心に適った行いと努力をすることをお忘れなく。