207_気にしいを和らげる

今は、かつてのテレビや新聞や雑誌や書籍などの、マスコミのきわめて限られたフィルターのせいで、なかなか表に漏れ出てこなかった様々な事実が、いろいろなネット媒体の出現でかなりの程度表面化し、特にここ最近( 20 年くらい?)は、情報の選択肢が格段に増えた(完全とはいかず、信憑性の程度に問題がある場合があることは別にしても)。

ただ、あまりにも、情報が増えすぎて、混乱する側面があるけどね。

例えば、人物評。

一般的には、素晴らしいとされる人の評価を目にしたり、話に聞いたりする。

仮に、その人物のファンだったりすると、こうした好評価は好ましく思うことが多い。

それというのも、ファンとなっているということは、その人物は、自らそうありたいと夢想(?)した、いわば自らを重ね合わせた憧れや、性別を問わず親しみを感じる親愛の対象でもあり、言ってみれば、自我の延長であり、自分自身の一部でもあるからだ。

だから、そうした好ましい人物に対する好評価は、快く感じることが多い。

逆に、こうしたファンとなっている人物に対する悪口を目にしたり、その人物を悪し様に罵るような人に対しては、ムカッとすることが多い。

上記に述べたように、ファンとなっていることは、いわば、その人物が自我延長の一部となっていることであり、それを貶(けな)されるということは、自分を貶されているような気持ちになるからだ。

といった感じで。

世の中には、ありとあらゆる人から、完璧な好評価を得ることはない。

絶対といっていいほどに。

毀誉褒貶ではないが、必ず、自分なら自分を悪く言う人間がいるものだ。

これを個人的な視点からみると、どうも他人からあまねく好評価を得たいような人が、往々にしているようなんだな。

悪口を言われると、不快感を覚え、最悪の場合には反発して怒り狂う(?)か、逆に、落ち込むか、のようになりがちだから。

でもね。

悟りを開けない人は、どんなにいい人でも、八方美人でも、何かしら悪口はついて回るものなんだ。

悟りを開いたお釈迦さんでさえ、そうなんだから。

嫉妬をはじめとして、何かしら、悪口を言われることは避けられない。

それが、何かしら果たすべき過去世の悪い因縁を持って、この世に生み出されてきた私達の宿命。 

それが、無数の網の目で張り巡らされ、この世で交錯するのだから、他人から悪く思われることなんかあって当たり前。

そう考えられるね。

つまり、この世に生まれ出でるほとんどすべての人は、悟りを開いた覚者ではない(例外は過去世の記憶を持ったまま夭逝して解脱する人)のだから、こうした人々で世の中が構成されている以上、正当なものか否かにかかわらず、他人からの批判や悪口を受けることは避けられない、ということ。

何が言いたかったのかというと。

他人に悪口を言われることを気にしすぎる人や、悪口を言われることに沈み込みやすい人に、強くなってほしいんですよ。

自分が、自らの神意識に問う、すなわち、真善美と愛に悖らず、神様のみ心に適ったことだと思われることに対しては、他人から何を言われようとも、バカにされようとも、一切、気にしないようにして頂きたいんですよね。

もちろん、自分の深層の神意識に、厳しく問いただしてみて、これは間違いない、絶対良いことだ、と感じるくらいの吟味は必要になるけれど(もちろん、瞬時でも)。

自分の身に無理がないように人のために尽くす、あるいは普通に何気なく生きる。

そうした時に、悪口を言うような人は、相手にしない。

気にしない、気に病まない。

クヨクヨしない。

こうしたものは、全部、過去世の因縁のこの世で時間をかけて解消されてゆくものが形となってあらわれ、なおかつ、消されてゆく姿だとして、一切、気にしないようにして頂きたいんですよね。

もちろん、併せて、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして頂ければベストだけど。

自らの悪口を言われても、尊敬する人物や憧れの人物の悪口を言われても、蛙の面に小便、あるいは、柳に風で受け流すようにして。

とにかく、自分に不穏な気持ちを抱かせないように、自分を痛めないようにして頂きたいんですよね。

そうして、自分と自分の神性との対話だけをして、あとは一切気にしない。

みんな消えてゆく姿。

そのようにして、強くなってもらいたいんですよね。

今回は、クソとバカと小便いう言葉を使ってしまった。

失礼致しました。

~~~~~

(追記1)
まあ、これは唯物論の思考にとらわれている人には、上記に書いたことよりもさらにわけのわからない、チンプンカンプンな話になると思うけど。

(あくまでも自分や尊敬するあるいはファンになっている人に非がないことが大前提ではあるが)いわれのない悪口をいわれようと、感謝で乗りきればいいんです。

とにかく、何でもかんでも、
「(過去世の記憶がないから、今生の今現在の顕在意識ではまったくわからないし、納得することもできないけれど)自分の過去世の悪い因縁が、こうして解消されていくんだ」(*)
と解釈することにする。

悪口を言われるたびに、
「ああ、また一つ自分の過去世の悪い因縁が消えた、ああ、また一つ消えた、それだけ自分の霊魂魄の汚れを祓(はら)い浄めて、霊性を磨いて頂いたんだ、よかった、よかった、ああ、ありがたいな、守護霊様、守護神様、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように
としていく。

私達(の大半の人に)は過去世の因縁がわからないのだから、とりあえず、みんな自らの過去世の悪い因縁が解消されていくものと「みなす」ことにして、何でもかんでも感謝をして、さらに世界平和の祈りをするんです。

そうして、感謝一念、祈り一念の対処の仕方に切り替える。

つまり、感謝という神様の光を出す訳です。

加えて、さらに世界平和の祈りをすれば、言うことなし、になるんです。

まあ、仮に自分側に何の落ち度もなく、いわれもない悪口を言われたとすれば、来世以降に、相手側に、間違った悪口を言ったことの償いをしてもらうという、いわば貸しを作ったことになるんですよ。

でも、こうした貸しを返してもらうという欲得で計算するよりも、とにかく、いわれもない悪口であろうが、そうでなかろうが、何でもかんでも、一切合切、自らの過去世の悪い因縁が消されていくんだ、とみなす方が、いちいち、悪口に振り回されることもないし、楽です。

だから、あらゆる悪口は、すべて過去世の悪い因縁が、守護霊様と守護神様によって消されていくんだ、ありがとうございます、の一辺倒でやっていく方が、想いを一切乱されることがなく、楽なことになるんですよ。

来世以降に貸しを返してもらうかどうか、という損得勘定なんて、どうでもいいことにするんです。

という訳で、すべての悪口には、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行で、機械的に対処するのが一番楽でいいし、世界平和の祈りで善因も積むから、因縁因果にも好影響しか残らないことになるんです。

これを習慣化してしまえば、悪口を気にする負担が、少しずつではありますが、減っていくものですよ。

~~~~~

(*)「過去世の記憶がないから、今生の今現在の顕在意識ではまったくわからないし、納得することもできない」

というのは、実は、

「あくまでも自分に非がないことが大前提ではあるが」

さえも突き抜けるということ。

つまり、今生の今現在、自分には何も非がない、いわれもない悪口を言われることは理に適わない、と思えていても、

これは、今生の今現在の顕在意識でのことであり、過去世では自分が悪口を言った人を、逆に悪く言っていたという可能性がかなり高い訳です。

もちろん、過去世で、自分が悪く言っていた可能性がないこともない訳ではないのですが。

しかし、自らの落ち度=過去世で自分が悪く言っていたこと、の可能性がある、その可能性が高い以上は、それがあったものと一律にみなす方が、自分の過去世の悪い因縁があったかどうかと気をもむことも一切なくなるし、ずっと楽ですよ、

しかも、人として感謝という神様の光を出し、さらに、世界平和の祈りで善因を積むことにもなるから、今生と来世以降を見据えた場合には、最終的にはお得だし、神様のみ心にも適いますよ、

ということなんですよ。

ちょっと複雑で、わかりにくい話かもしれませんが、今生で起きていることだけでは決してわからないことが、すなわち、今生で今起きていること、また、起きてくること(=結果=因果)の背景には、実は、決して一般的な私達にはわからない、目には見えない、過去世の因縁という原因があったんだ、その可能性が高いケースがかなりあるんだ、という話なんです。

だから、悪口などの想いを乱される可能性のあるもの、しかも、避けることで、一時的には逃れることができても、過去世の因縁により、いずれはまた必ずあらわれてくるものならば、この際だから、万能ブルドーザー(?)の感謝という神様の光と世界平和の祈りという功徳を伴うお祈りで、お掃除をしてしまいましょう、ということです。

1 回で掃除しきれなかったら、 2 回、 2 回で掃除しきれなかったら、 3 回、というように繰り返す癖をつけて、なれっこになりましょう、ということです。

そのうちに、多少は気持ちが変わってきますから。

~~~~~

(追記2)
今回書いたことは、今生の私達の臆病などをはじめとする性質は、過去世の影響を受けているから、これを世界平和の祈りの功徳を伴う神様の光で浄めることで、徐々に、徐々に、過去世を原因とする想いのクセをなくすようにして、今のあまり好ましくない性質を少しずつ矯正していきましょう、という話です。

私達の本来の性質は、過去世の影響がなければ、真善美と愛に悖らない、勇気のある人間となるはずです。

しかし、たくさんの過去世で、様々な体験を積むことにより、それぞれに固有の想いのクセが出来上がったり、トラウマを残すような強烈な体験をしたりすると、これが今生の想いのクセのように反映されて、今生の様々な性質が形成されてくる。

これが陽気な性質のように、本来の真善美と愛と勇気と親和性が高く、近いものなら、何の問題もないことになるけれど、臆病などの本来の真善美と愛と勇気から外れた、本来の人間としては好ましくない性質を持って生まれてくると、この世が生き難くなってくるという訳。

つまり、臆病などの本来の人間に好ましくない性質は、過去世を原因として作られたものであるということ。

だから、今生で臆病を直そう、あるいは、短気を直そう、と試みても、そう簡単に直すことができなくなっている。

そこで、本来の人間にはないはずの、好ましくない性質である、臆病や短気の原因となっている過去世の想いのクセや生き方やトラウマの残る強烈な体験が元でつくられている過去世の因縁を、世界平和の祈りのお浄めで、徐々に、徐々に溶かすようにして、直すようにしていきましょう、ということです。

臆病や、短気、その他諸々の好ましくない性質を、心がけで直そうとしても、修養で直そうとしても、中々直せないのが普通だから、その根本の原因となっている、過去世の因縁を浄めることで直すようにしつつ、今生の性質の改善を目指していきましょう、という話です。