010_フェミさん

最近書いた内容から、ひょっとしたら、私が女性解放論者(フェミニスト)のように思われる方も、まれにはいるかもしれませんね(そもそも、はてなさんにおじゃまさせて頂いて、その片隅で細々とやっている超場末のブロガーなので、論者という存在にはほど遠いレベルです。残念ながら)。

しかし、まったく違います。

私はフェミニストさんは苦手です。ありていに言って大っ嫌いです。あの人達は、少しでもかかわれば、必ず真善美に悖る業想念を抱くことになるのは、必定だからです。

あの人達は、潜在的に承認欲求に根強い不満を抱え、常に怒りや憤りといった不穏な想いを抱き、業想念の渦に満ち満ちている。(*1)

なかでも、ツイフェミと呼ばれる人達は、そうした不調和の想いを、やたらめったら、ぶつけてくる人達なので、さわらぬ神に祟りなし、で、とにかくかかわらないに限る、と思っているからです。

かかわるとロクなことにはならない人達。

それがツイフェミと呼ばれる人達です。

こうした人達には、黙って祈りをして差し上げるしかありません。

ただ、私はきわめて霊性が低いので、彼女ら(彼ら)のあまりの罵詈雑言や悪口雑言のひどさに、祈る気すら起こらないというのが、正直なところです。

直接は彼女ら(彼ら)のためには祈りを捧げることはできないから、平素の世界平和の祈り自体をより深くしていくしかないですね。

そうすれば、間接的に彼女ら(彼ら)のために祈ることにつながっていきますから・・・。

想いを乱すということは、今生も含めて来世以降の自らの運命を悪くすることに他なりません。

仮に論駁を加えようとしても、ロクなことにはならないと思います。論駁したところで、メチャクチャな逆ギレをされて、逆恨みされるのがオチだと思います。

女の人の恨みは、しつこくて、深いですからね。

とにかく。私があの人達にして差し上げられることはただ一つ。

世界平和の祈りだけですね。

なので、あえて大げさな表現をお許し頂けるならば、男女を含めた人間解放論者のはしくれの、さらに下のはしくれだけでも目指すことができればありがたいと願っている者です。

何十億分の一だけでも、ほんのささやかに貢献できれば、幸せだと。

そうした思いから、 ( おぶなより ) で、霊性の開発や仏教の古い経典を、やっとのことで見てきました(仏教は深く難しいので、まだまだ、ほんの触りしか扱っていませんけど)。

最近見た本で、AV女優さん関係のコミック本の巻末に、その原作者の M さんと、とあるフェミニストの T さんの対談が出ていました(いずれも女性です)。

この方達は、案の定、バリバリの唯物論者でした。

肉体人間をほとんど唯物的にしか見ていない。

神性や霊性といった観点は、まったくと言っていいほどに重視していない内容でした。

その原作者である女性作家 M さんは、「怒りは尊い感情」だとしている方で、対談のお相手のフェミニストの T さんは、「下劣で嫌な言い方」だとは一応断りを入れながらも(ということは、深層意識、神意識では、自分がきわめて不適切な言葉を使った悪い表現をしているとご自身では理解していることになります)、いまだに日本社会の男にとっては、「女は穴と袋」だ、などという、きわめてひどい言葉を使っている。

神様がおつくりになられた、その神体の映し身としての性別を分けられた肉体人間としての女性は、やはり、それなりの神様のお考えのもとにつくられたものであるはずです(もちろん、男性もそうです)。

その尊いはずの肉体人間の女性を「穴と袋」という品性のかけらのまったくない、無論、感謝のかけらもない、物に置き換えたような表現をする(そのフェミニストさんは馬鹿にするかもしれませんが、紙だろうと鉄だろうと、どんな素材であれ、そうした物理的な穴や袋といった物体にも固有の意思はあるはずですよ)。

神様のおつくりになられた肉体人間に対して、感謝も敬意も慈しみも抱かずに、大切な身体に対してあのような蔑む表現をする。

これが、フェミニストとされる人の、人としてのあり方なのでしょうか(多少の罪悪感を抱かれていることは先のセリフからわかりますけど)。

詳しくは書きませんが、私が ( おぶなより ) で述べてきたこととはまったく相容(あいい)れない内容です。

なぜならば、神様から与えられて生かされている自らの命はもちろんのこと、神様のおつくりになられた一切のものに感謝を抱かず、ただ、肉体人間としての自らに都合よく功利的に立ち回ることばかり考えていて、まるで神様に反逆しているかのようにも取れる内容だからです。

厳しく言ってしまうと、この方達のような考えばかりをしていては、真善美に悖る業想念の渦(輪廻転生の渦)からは抜けられないと思います。

この世の中の不条理や不均衡が、なぜ存在するのか、なぜ起きてくるのか、なぜこの世は火宅の世のようなっているのかを、あまり深く洞察したことがないのかもしれないですね。

この世には、なぜに病争貧苦があるのか、なぜに肉体人間の人生には、楽しくて嬉しいことばかりではなしに、辛くて苦しいことが多いのか、あるいは、あるのか、をあまり突き詰めてお考えになっていないのかもしれない。

そんなふうに感じます。

どうしようもない不可抗力の苦しみを味わうと、いやが上にも、この世のそのままをありのままに認めたくはなくなり、唯物論にとどまらず、いろいろと考えるようになるはずなんですけどね。

この人達は、それなりに社会を渡り切る強い力や才能を持っている方達なので、不可抗力に打ちのめされて、絶望に沈むような境涯にまでは至らず、なかなか、輪廻転生や霊性を深く考える機会がなかったのかもしれません。

とにかく。

たとえその場、その時に、どんなに正当であると思われたとしても(輪廻転生を通して見てくると違ってくる場合が大半。ほとんどの人は過去世の記憶が消されてしまう(=従って、自分が過去世で何をやらかしてきたのかはわからない)し、過去世を読み取る宿命通という特別な能力を持たないから納得するための正当な理由がわからないままにこの世に生まれてくる)、肉体人間にとっての怒りは、輪廻転生を通して悪いものしかもたらさない想いであることは違いがありません。

仏教の初期の古い経典であるダンマパダ(法句経)にある通りです。(*2)

また、肉体人間としての女性を「穴と袋」などと表現するのは、神様の分け命を頂く者としては、はなはだ使うに相応(ふさわ)しくない表現であり、肉体人間の女性そのものをひどく蔑む言い方になる(ひいては肉体人間としての本質の神性の著しく重い否定になる)ので、絶対にお使いにならないことをお願いしたいと個人的には切望致します。

(追記)
以下は、あくまでも私の個人的な感覚にもとづいた感想です。

その点は、あらかじめご了承願います。

あくまでも、私個人の主観にもとづいた、独断と偏見にしか過ぎません。

その点は、あらかじめご承知置き下さい。

この対談をした女性作家さんのコミックとしての人間の描き方には、老若男女問わず、独特なものがあります。

特に顔です。

ご本人も十分に意識されているのかもしれません(私はご本人はおわかりになっていると思います)が、私は何とも言い様のないものを感じるんですよ。

生命を宿しながらも、独特のものを抱えているような感じがします。

独特な無表情をあらわす人間の顔つき。

彼女はなぜにあのように人間の顔を描くのでしょうか。

私には、あの顔からは、いかなるセリフが放たれようとも、いかなる表情が描かれようとも、神様の愛や、明るさや、慈しみを感じることができません。

逆に、ある種の悲しみのような、穏やかで幸せな感情を押し潰したような、否定したような、独特なものを感じるのです。

あの対談で、彼女は表面的には唯物論でイキっているように見えますが、心の奥底の神性を覆い尽くせない矛盾が、心の奥底の神性からの訴えが、はからずも無意識的ににじみ出ているように感じます。

あくまでも、個人的な独断と偏見にしか過ぎませんけれど、そんなふうに感じます。

~~~~~

(*1)あの人達に言わせれば、世の中にある男女不平等を元にしていると思われる様々な出来事に対して、憤りを感じるから立ち上がるんだ、叫ぶんだ、はたまた、ツイッターなどで呟く(呟きと呼ぶには過激すぎる気がするが)んだ、と言うのかもしれない。

しかし、よく考えてみてほしい。

例えば、お釈迦さんだ。

時代状況が今とはかなり異なるとはいえ、果たして、お釈迦さんが、その自らの教えの伝道で、ゴリゴリの自己主張をしたり、叫んだり、喚いたりしましたか?

しませんよね、そんなことは。

サンガ(僧伽)を作って教えを広めた時にも、こんな強引で、自分たちから無理を生じさせるような形で、周囲にトラブルを巻き起こすようなやり方はしていない。

それはなぜですか?

(*2)ご参考までに、以下に怒りに関するダンマパダ(法句経)の特徴的な経文のいくつかを上げておきます(適宜、改変あり)。

心はすべての物事に先立ち、
すべてを作り出し、
すべてを左右する。
もし人が、
汚(けが)れた心で話し、
行動するならば、
その人には、
苦しみがついてくる。
車輪が荷車を牽(ひ)く牛の足跡についていくように。
(一) (第01章 対句 より)

心はすべての物事に先立ち、
すべてを作り出し、
すべてを左右する。
もし人が、
清らかな心で話し、
行動するならば、
その人には、
幸せがついてくる。
影が体を離れることがないように。
(二) (第01章 対句 より)

「あの人は私を罵(ののし)った。
あの人は私を傷つけた。
あの人は私を負かした。
あの人は私から奪った。」
そういう思いを抱(いだ)く人からは
怨(うら)みはついに消えることはない。
(三) (第01章 対句 より)

「あの人は私を罵った。
あの人は私を傷つけた。
あの人は私を負かした。
あの人は私から奪った。」
そういう思いを抱かない人からは
怨みは完全に消える。
(四) (第01章 対句 より)

実にこの世では、
怨みが怨みによって消えることは、
ついにない。
怨みは、
怨みを捨てることによってこそ消える。
これは普遍的真理である。
(五) (第01章 対句 より)

霊性的に簡単に言っておくと、ここに書かれている心とは肉体人間の抱く想いのことで、怨みや怒りという、肉体人間の本質である神様の分け命には、本来ならば、ない、あってはならない想いを生じさせてしまったら、あまたの輪廻転生を通して、その想いを収めるまで、消し去るまで、その循環過程が続いてしまう、ということです。

ダンマパタ(法句経)の経文にあるように、怨みや怒りといった業想念を起こすのをやめるか、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行で、怨みや怒りを浄めて消して頂かない限り、輪廻転生を通した怨みや怒りという業想念の無限ループが繰り返されてしまうことになるのです。

これが、私達、神様の分け命を頂く者、肉体人間としての宿命となっているのです。

なお、(五) について、今枝さんの注釈があるので、これもご参考までに引用しておきます(改変あり)。

1.この (五) の経文について
第二次世界大戦終結したサンフランシスコ講話会議(1951年)で、仏教国セイロン(現在のスリランカ)は、日本に対する損害賠償請求権を自発的に放棄した。
セイロンを代表した、J・R・ジャヤワルダナ蔵相(後に大統領。1906ー1996)は、その理由として、ブッダ(お釈迦さんのこと)のこの言葉を引用している。

2.真理(dhamma)について
漢訳仏典では、「法」と訳され、「達磨」と音写される。
きわめて意味範囲が広く、多岐にわたる言葉で、日本語では一つの言葉をあてることが不可能である。
それゆえに、ここでは「真理」と訳した。