012_気高い2

( お断り ) 誠に勝手ながら、都合により、従来 ( 012_気高い2 ) と ( 013_気高い3 ) と分けて記載していたものを、ここに改めて ( 012_気高い2 ) としてまとめ直すこととする。
ご了承頂きたい。
従来の文章はそのままに、 ( 旧 ) というカッコ書きを頭につけて示した。

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( 旧 ) 012_気高い2

前回 ( 011_気高い ) の続きになる。

蔑称と過去世の記憶の抹消と肉体人間としてのあり方について補足をする。

1.蔑称について

前回 ( 011_気高い ) を読まれた方なら、気がついた方がいるはずだ。

コイツは何を矛盾したことをしているんだ? と。

コイツ、バカじゃないのか? と。

そう。

それは・・・。

最近の私の「ヤリチン」と「ヤリマン」という言葉の多用である。

実は、私も自らを傷つけているのだ。

私自身も、自分の来世以降に向けての悪い因縁を作っているのである。

「ヤリチン」、「ヤリマン」と言うたびに。

きわめて下品な内容で申し訳ないのだが、解説をさせてもらうことにする。

お許しを頂きたい。

ヤリチンとは、自分の性欲や、その性欲の衝動のおもむくままに、自制心のかけらもなく、女性相手にセックスをやりまくる男性に対する蔑んだ呼び名、すなわち、蔑称だ。

その男性の全人格と、女性とのセックスに使われる男性固有の快感を得るための起点となる生殖器の俗称チンコを含めて、否定して、蔑んでいる蔑称になる。(*1)

かなり下品であるのみならず、きわめてタチの悪い蔑称なのだ。

だから、本来ならば、霊性上は、絶対に使ってはならない言葉なのだ。

ヤリマンもまったく同様に考えればよい。

私はこれをあえて何回も使った。

話をよりわかりやすくするために。

少しでも印象(インパクト)を与えるために。

本来なら、男女ともに、淫乱とでも呼ばなければならない案件なのだ。

これらの言葉を使うとわかるのだが、慣れてくると、使う感覚がマヒして、使うことに対する抵抗感が薄れてくる。

思い返してみてほしい。

おそらく、どなたでも、このヤリチン、ヤリマンという言葉を初めて使った時には、かなりの抵抗感があったはずだ。

やはり、各自の深層の神意識が、こうした言葉を使うことを、阻もうとしていると考えられる。

だから、使おうとすることが躊躇われるのだ。

よほどの因業人間か、サイコパスのように、過去世の因縁が悪く深い者でないと、こうした「ヤリチン」「ヤリマン」といった蔑称は、心に強いブレーキがかかるはずの言葉なのだ。

とは言うものの、よほど、霊性が高い人でないと、やがては、使い慣れ、下手をすると安易に流されて、軽く使ってしまうようになる恐れがある。

だから、これを読まれた方は、以後、絶対にヤリチン、ヤリマンという言葉を使わないようにお願いしたい。

なお、女性に関して、ヤリマンの別の代名詞のように日本で固有に使われる「ビッチ」という言葉がある。(*2)

これも、実質的にはヤリマンと同じか、動物に例えている分、さらに悪いくらいなので、これも絶対に使わないようにお願いしたい。

2.過去世の記憶の抹消について

過去世の記憶の抹消、すなわち、輪廻転生を通しての前世以前の記憶の抹消について、である。

前回は書かなかったが、輪廻転生が厳しく恐ろしいのは、この過去世の記憶が抹消されていることにもある。

簡単な例でいうと、殴られたり、浮気されたりするものが、あげられる。

訳もなくいきなり殴られる。

誰だってこんなことをされたら黙っていることはできない。

やり返さないではいられない。

しかし、もしも、過去世において逆のことが起きていたら、どうなるか?

殴られたという不条理を納得するための理由がわかるようになるのである。

ああ、俺は過去世でこの人を、身勝手にいきなり殴っていたのか、ならば、これは仕方ないな、と。

しかし。

今生では、今回の人生では、この殴られる正当な理由であるはずの過去世の記憶は抹消されていて、納得できないようになっているのが、一般的なのである。

殴られる原因としての過去世の記憶がないこと、そして、さらには、宿命通という過去世を読み取る特別な能力を、私達のほとんどすべての人は備えていない。

だから、過去世で自分が何をしでかしていたか、何をやらかしていたかは、わからないのである。

そんな私達にできることは、ただ一つ。

古の浄土門の敬虔な信者である妙好人の、源左さん、才市さん、宇右衛門さんのように、今現在起きてきたことから、過去世であったことを、逆算・類推することしかできないのである。

だから、殴られることは、あたかも、無実の罪を償うような厳しいものとして、あらわれてくる場合があることになるのだ(すべてとは言い切れないが)。

さしづめ、この世も広い意味では神様のおつくりになられた神様の世界の一部なのだから、真善美と愛に悖るものの存在は許されないことになるから、一時的、すなわち、仮にあらわれることはあっても、最終的には必ず消し去るための過程があらわれてくるから、真善美と愛に悖るものが起きてきたら、その大半は過去世の因縁が解消するためにあらわれてくるもの、と考えておいてよさそうだ。

以上、前回は触れなかったことについて2つ補足をさせて頂いた。

細々とうるさいと思われるかもしれないが、一応、これが輪廻転生に関しての前回と今回の説明になる。

ご了承頂きたい。

3.肉体人間のあり方について

ハートカフェなどのコメントを書き込む男性は、世の一般女性や婚活女性に愛想を尽かし(尽かしている割にはいつまでも執着しているから、私のようなへそ曲がりはウラ読みしてしまうのだが)、もう独身でいい、などと言っている人がいる。

中には、風俗やダッチワイフやその他(二次元の話をする人は、私には無理をしているように見えるのでここでは除外する)のことで、性欲などについては代替すれば良い、という意見もチラホラある。

その他には、一夫多妻の制度を公然化すべきだのような意見まである。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。

神様は私達肉体人間を、男性と女性に分けて、有性生殖の形をお選びになり、子孫の引き継ぎをお考えになったと読み取ることができるからだ。

一夫多妻などは、明らかに個々の向き合う男女の尊重し合う形には、そぐわない形である。

嫉妬、怨念、いさかい。

こんな業想念の起きる可能性を孕む制度が、神様のみ心に適(かな)ったものであるはずがない。(*3)

なぜ、それがわからないのか。

いや、本当はわかっているはずだ。

ただ、経済面までをも含めた、現状があまりにも厳し過ぎるので、諦めで言っているのだろう。

しかし、現状の姿とあるべき姿は、別だ。

私達肉体人間は、神様に生かされている以上、あるべき形を求めていくべきはずである。

万が一、それで、神様のみ心に沿った形をとるために、誠心誠意を尽くしても、人類が存続できないならば、それも神様のみ心ということになる。

しかし、私は、神様はその神様の世界をこの物質の地球上に映し出すことを、お考えになっているからこそ、守護の神霊さんまで配して、私達をお守り下さっていると信じています。

どのようにお考えになるかは、読まれた方次第、もっと言えば、読まれた方の因縁因果次第だと、個人的には考えています。

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(*1)調べてみたら、男性の生殖器(性器)の陰茎(=ペニス)をあらわす「チンコ」も「チンポコ」も「チンチン」も、すべて幼児語らしい。

なお、これらのうち、「チンコ」と「チンポコ」は手持ちの国語辞典には載っておらず、ネットにしかなかった。

国語辞典に載っていたのは、男性の生殖器(性器)の陰茎(=ペニス)をあらわす、「チンチン」だけだった。

(*2)ネットで調べてみると、ビッチは、誰とでも寝る(=つまり、男となら誰とでもセックスするという意味だろう)とんでもない尻軽女に対する蔑む呼び方で、雌犬を転用したものらしい。

ならば、なおのこと、「ビッチ」は絶対に使うべき言葉ではないと言える。

「ビッチ」は、動物とは異なり、神様のお命を分け与えられている肉体人間を、あえて動物にまで落とし込み、蔑む呼び名に他ならないからだ。

これが輪廻転生上、どれほどに重い意味を持ってくるのかは、皆様ご自身でお考え頂きたい。

(*3)まあ、男性に凄まじい性的な魅力があり、しかも周りの女性をまんべんなく可愛がり、かつ、女性達から崇拝(?)というか、好かれているハーレムのような状態もあり得るのかもしれない。

が、やはり、この世の同時代に神様に生かされている不思議さやありがたさを心から噛みしめ、堅い信頼関係と厚い血縁で結ばれた夫婦・家族関係こそが、神様のみ心に適うものだ、と思うんですけどね、個人的には。

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(旧) 013_気高い3

前回 ( 012_気高い2 ) の続きになる。

気づかれる方がおられるかもしれないので、その内容を「気高い」の表題の一連の続きのとりあえずの補足として書いておく(今回の内容とは別に、あともう一つあるのだが、長くなるので、それは次回に書くことにする)。

それは、
この世で起きてくること
について。

前回、
過去世であった自らにまつわる出来事(事実)の記憶を抹消された上に、
さらには宿命通という各人の積み重ねてきた過去世で何があったかを読み取る能力を備えていないところの、
私達、一般的な肉体人間は、
現代のこの世に起きてくることから、
過去世であったことを、
逆算・類推することしかできない
と書いた。

そうすると問題になってくるのは、
この世で起きてくることのうち、
どのくらいの割合のものが、
過去世の因縁を原因とした結果として、
起こってくるものなのか、
となってくる。

これは、宿命通と同じで、
六神通のような特別な能力と同様に、
私達、一般的な肉体人間にはわからない
ことになる。

こうしたことは、
おそらく、
お釈迦さんのような悟りを開いて、
神通力を獲得している人
でないとわからない。

五井先生の本によると、
この世で起きてくることの
粗方、約 8 割方が
過去世の因縁の結果としてのあらわれ
であるらしい。

しかし、
五井先生の本に書いてあることも、
本によっては、
この世で起きてくることは、
すべて過去世の因縁を原因とした結果として起こってくるあらわれのような書き方になっているものもあり、
今一つハッキリしない。

実は、私も過去の文章で、
すべてと書いたり、大半と書いたり、
文脈で適当に使い分けて書いてきた。

これについては、
本来なら確定的に書きたいのであるが、
五井先生がご存命でないから聞くことができないので、
ハッキリしたことはわからない。

だから、大体、とか、大半のように理解してやってきた。

とは言うものの。

これは、納得し難い話である。

なぜならば、
この世で起きてくることのかなりの部分が、
もうかなり昔に
それぞれのいくつもの過去世の
想いと行いのある程度の集大成として、
そこそこには決まってしまっている、
ということになるのだから。

ましてや、
これがすべてとなってしまうと、
この世であらわれてくるすべてのことが、
宿命として決まり切っていて、
未来を切り開こうとする夢も希望もなくなってしまう(ような気がする)。

どうせ何をやったって、
努力も何も
壁にぶち当たることになっている。
どんなに努力したって、
成長したって、
決まった限りがあるんだ、
となってしまったら、
何だか空しくなって、
何事もやる気力がなくなってしまうような気がするからだ。

この世で様々に思いを巡らしているとばかり思っていた自由意思さえも、実は元々決まりきっていた過去世のものがあらわれてきたものだとしたら・・・。

何だかつまらなくないか・・・。

未知の可能性を探るワクワク感が無くなってしまうようで・・・。

それでも、なお、やる気を奮い立たせるのは・・・。

ちょっと難しいような気がするのだが・・・。

とにかく。

一応、このように理解する場合には、こうした努力をするのもしないのも、恣意的に見えるものも見えないものも、すべてはあらかじめ決まっているということになるのだろうが・・・。

そうだとしても、やっぱり、何か、希望を削(そ)がれた空しい気持ちになってしまうことは否めないのが正直なところだ。

とりあえず。

五井先生の本によると、この過去世の因縁で粗方決まっている 8 割を差し引いた残りの 2 割方が修正の可能性がある、宿命ではない運命として、守護の神霊さんがそれなりに救う、運命の修正をして下さるとも書いてはあるのだが・・・。

実は、この救済さえもあらかじめ決まっているかもしれない・・・。

ここまでくると、もう、ちょっと訳がわからないな・・・。

とにかく。

自らの(真善美に悖らない)前向きな運命の切り開きやその改善に向けての努力と、守護の神霊さんのお浄め・救いによる、合わせて 2 割方の修正と救済、まあ、このように捉えるしかないかな、と個人的には考える。

結論としては、いくつもの過去世の集大成として、今生の 8 割方の大枠がある程度決められていて、残りの 2 割方を今生の新たな努力などとして、足し増しして、これを来世以降につなげていく。

もしも、過去世の悪い因縁があったとしても、その内容によっては、守護の神霊さんのお浄めで、これを消して修正して頂く。そうして、この世での実現化を未然に防ぐ、あらわれないようにする。

こうしたことを繰り返しながら、最終的な輪廻転生の上がりを目指して精進していく。 

こんなところですかね・・・。

なお。

以下は雑談になりますので、お忙しい方は省いて下さい。

この世に生まれてくると、人それぞれに環境がまったく違う。

無論、外見的な容姿も才能も、あらゆるものが異なっている。

そして、成長する過程も運命の展開も、それぞれにまったく異なる。

そう考えてくると、やはり、これは何らかの元となる原因があり、その結果として、それぞれの環境要因や運命の展開過程が異なると考えられる。

与えられている環境だけは、少なくとも本人の意思や努力に関係なくもうすでに、生まれる前に出来上がっているもの。

その環境のつくられた原因は、何かと考えた時に、輪廻転生を前提とするならば、おそらく誰しもが一番納得しやすいと考えられるのは、古(いにしえ)から何回も生き死にを繰り返し生きてきた人生、つまり、あまたの人生、すなわち、過去世の積み重ねが原因となって結果をもたらしているということになる。

逆に、この過去世の反映がまったく無しで、そもそも、過去世なるもの自体すらなく(従って、輪廻転生もない)、人生はたったの 1 回コッキリ、この世のすべてのことが起きてくるとすれば、まさに、カオスであり、すべては突発的な偶然の産物であり、人生としての幸せは、僥倖頼み、運頼み、になってしまい、出たとこ勝負で、何の因果関係も必然性も存在しない、訳のわからないものになる。

これをどう捉えるか。

これこそが幸せなことだと捉えるか、いや、過去世というフィルターを通した努力がまったく反映されないのは、理不尽きわまりない、そんなものは、認められない、認めたくない、と捉えるか。

さて、どうしたものか。

私は、過去世というフィルターを通した努力が反映された方が、やはり、納得しやすいとは思うのだが。

後は、読まれた方の考え方次第になる。

やはり、運命修正の余地はあってほしいと個人的には考える。

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・僥倖~ぎょうこう~偶然にめぐってくる幸せ。
(用例)僥倖にめぐまれる。