023_不条理3

私が前回 ( 022_不条理2 - おぶなより2 )、前々回 ( 021_不条理 - おぶなより2 ) 書いたことは、見方によっては、お説教にもなるし、余計なお節介にもなるし、わずかながらの神様への復讐になるかもしれないし、自我欲望の発露なのかもしれない。

まずは、説教。

字引を引くと、以下の通り。

①宗教の教えを説くこと。また、その話。
(用例)牧師の説教。
②ものの道理を教え聞かせること。教訓的な話や注意・忠告をすること。
(用例)子供に説教する。

ここでは、② の意味で使った。

霊性や輪廻転生の仕組みをよく知らない、あるいは、バカにして歯牙(しが)にもかけないような人に対して、どうにもならない不可抗力による苦しみに遭った一個人の立場から、警告とお願い(世界平和の祈りのこと)をしたかった。

この世はこんなふうになっていますよ、私は何を過去世でやらかしたかはわからないが、苦しい目に遭ってきましたよ、

だから、こうしたことを他山の石に、
真善美に悖る想いと行いの業想念の渦から、
一人でもいいから、脱出されることを、望みたかった。

次に、お節介というのは、むしろ、神様のなされ方に対する勝手な一個人の介入という意味合いの方が、合っているのかもしれない。

神様は、私達肉体人間の個人個人に、それぞれに守護の神霊を配されて、それぞれの魂、肉体人間だから霊魂魄を、磨き上げて立派にしていくことをお考えになっている。

だから、私があんな内容を発信しなくても、私があのように書いた今回の内容を知らずとも、各人が個人個人で、輪廻転生を通して艱難辛苦を味わい、あまたの苦しみを味わいながらも、それを克服して、立派な霊魂魄になっていくべきだ、各人それぞれに神様がお与えになった天命の最終的な成就のためには、霊性や輪廻転生の仕組みを自らが艱難辛苦を経て、自ずと感得していくべきものであるかもしれないからだ。

こうした意味合いでは、私のしたことはお節介でもあり、神様の各人各様の鍛え方に対する介入になった可能性もあるかもしれない。

神様への復讐というのは、以下の通り。

私は、現在までの苦しみの過去世の因縁である原因もわからず、それなりのものがあったとは思うものの、やはり、素直に受け入れられないところがある。

輪廻転生を通した因縁因果からすれば仕方ないことだとしても、やはり、原因がわからないままに耐えるのは苦しいから、神様を逆恨みしてしまう嫌いがあるのだ。

だから、こうした霊性や輪廻転生の仕組みを、これを読んだ人に知らせることによって、苦しむ人を一人でも減らすことができれば、神様のおつくりになられたこのような仕組みをほんの一部でも、介入して邪魔できる。

そうすれば、これはほんのわすか、微々たるながらも、神様への復讐になるかもしれないなどと考えた訳です。

しかし、神様ならば、こんな私の愚かしい想いなどは、すべてお見通しで、おそらく、復讐にはなり得ていないでしょうね。

私のようなこんな業想念だらけの肉体人間に先を越されるなど、神様にとってはあり得ないことだから。

自我欲望の発露というのは、自分の不幸もそうだけれど、もうこんな歪んだ不公平や不均衡に満ちた世の中は、早く終わりにしませんか(もちろん、地上天国化に近づくという良い意味で)、と思ったことから、これを微々たるものでも、何でもいいから、ほんの少しでも早めたい。

業想念の渦だらけの世の中を早く脱皮してほしい。そのためには、一人でもああした仕組みを知ってもらって、業想念を積まないことによって、世の中を快方に向かわせたい、という見果てぬ夢を抱いたということがある。

ただ、私のブログは、超場末のブログなので、影響力がまったくと言っていいほどにないのが、とても残念なところなのだが。

ただ、せっかく、こうして書かせて頂ける機会があるので、したためたという次第である。

もう 1 回簡単に復習をしておく。

私達肉体人間は、神様のお命を分けられて生きている。

肉体をもちながらも、本体は神様なのだ。

従って、真善美に悖る想いと行いの業想念は、本来的にあってはならない、許されないものなのだ。

地上天国化のための地球さん開発の便宜上、肉体人間として生きていくために与えられた自己保存の本能があっても、これは変わらない。

私達肉体人間は、業想念を行ってしまったら、輪廻転生という仕組みを通して必ずや業想念を清算しなければならないのだ。

何が業想念になるかは、誰だってわかる。自然にわかるのだ。

過去世で悪業を積みに積んで、正常な判断能力をくもらされるように生まれつかない以上、誰だって、この判断能力は持っている。

自分に聞けばわかるのだ。

それを踏まえた上で、これからの生き方をお考え頂ければ、幸いである。