044_望み3

まあ、ここを読む人は、ほぼいないと思うので、わざわざ書かなくてもいいのだが、かといって私の書いた内容に矛盾を感じる人が皆無とも言いきれない。

よって、その点について、念のために書いておくことにする。

以前、女性に関してこんなことを書いた( 005_読解 )。

女性は誰しもが「自分は美しい」と心の底では自己肯定感を抱いている、と個人的には確信している。

承認欲求の前に、そもそもこの大前提があるのだ。

と。

そして、前々回( 042_望み )と前回( 043_望み2 )では、女性(というか老若男女を問わず人間は誰しも)は、自らを真摯に顧みれば、誰しもがその水準はわかるはずだ。

と。

これら、 2 つの内容は、額面通りに受けとれば、矛盾を来(きた)してしまうはずではないか、おかしいのではないか、と。

自らの水準がわかるということは、すなわち、自らの容姿を含んだ絶対的な水準はもちろんのこと、他人との比較での自らの相対的な水準もわかる、ということ。

ということは、自らの容姿の水準が、松竹梅なり、ある程度の区分けをして、認識して判別できるということになる。

しかも、神様の分け命を授かっているところから来る能力からして、自分以外の女性と比較した上での客観的な比較対照を伴う判断ができるということ。

それなのに、なぜ、「自分は美しい」と心の底で自己肯定感を抱けるのだ?

おかしいではないか?

と。

こう感じる人がいるかもしれない。

これについて、補足というか、解説(?)しておく。

とりあえず。

神様の分け命を頂いていることから、誰しもがそなえている判断力を A として、「自分は美しい」と思い込む自己肯定感を B とする。

結論から言うと、A は B よりも上位にある。優先順位で言えば、間違いなく A が上だ。A がすべての元であり、はじまりであり、あらゆる判別に優先される。

なぜならば、これこそが、私達肉体人間が、神様の分け命である分霊(わけみたま)を本質とすることに他ならないからだ。

だから、B は、第 2 の優先順位となる。

実は、B は、女性だけの専売特許という訳ではなくて、男性にもある。

ただし、その程度の差が、男女で著しく異なっているというだけだ。

遅かれ早かれ、肉体をまとっている私達肉体人間は、悟りを開けていない限り、つまり、自らの本質が神性(仏性)であると、真に感得できない以上は、誰しもがこうした自己肯定感を持っている(私はこれを確信することが何度もあった。悟りを開けていないナルシストは何も女性ばかりではないのだ(*1))。

どんなに自己肯定感を打ちのめされても(?)、優しい思いやりのある人に励ましてもらいさえすれば、気持ちは持ち直すことができるし、さらには、前向きな笑顔を作り上げることによって、本当に外見的な魅力度を増すことさえ可能だ。

そうした点では、やはり、肉体人間は、神様の分け命を頂いているだけあって大したものなんだな。

動物ならばかなり難しい、というか、ほとんど無理だろう。

話がそれた。

女性についても、A がまずは第 1 、B が第 2 。

これは変わらない。

では、なぜに女性は「私は美しい」と心の底では自己肯定感を抱いている、と書いたのか。

この心の底とは、神性よりは、浅いところ(階層)の心理となる。

つまり、ちょっと悪い言い方で申し訳ないのだが、おそらく、女性は、男性に比べて輪廻転生を通して、その人生で清算すべきもの(過去世で溜め込んだ清算すべき真善美に悖る想いと行い)が多いと思われる。

業がそれなりに深いからこそ、女性として生まれてくる。

女性は大変だ。生理もあり出産もある。生理のつらさは男性にはまったくわからないし、出産は現代でも時と場合によっては命がけになる可能性がある。

幼少時の子育てもそうだが、男性にはこうしたことは、体感できないので、本質的には理解することができない。やはり、身を持ってではないと、生理・妊娠・出産・子育てはわからない。

そうして、男性とはまた違った大変な苦労をしょい込む代わりなのか、女性には、異性である男性にも、そして、さらには同性である女性にも、好かれて求められる母性愛をも含めた表現しようのない特別な美しさがご褒美のようにそなわっている。

生物的に大変な苦労を背負い込む性(さが)であり、この世に女性として生を受けることは大変だけれど、その代わりに、神様のおはからいなのか、前もっての労(ねぎら)いなのか、ご褒美なのか、こうした男性にはない独自の生得的な美しさを与えられている。

世の中にある男女のモテ方の不平等で不均衡な有り様は、こうしたところにも起因しているのではないか。

実際に、世の中には、女性という存在をちょっとにおわすだけで、注目を集めやすいことはゴマンとある。

顔やスタイルを出さなくても、女性という存在というだけで、注目を集めたり、優遇されやすいことの何と多いことか。

こうした点は、残念なことに男性は明らかに不利だ。

実に不公平きわまりない。

この理由は一体何かを考えると、やはり女性特有の母性愛を含めた美しさは外せないと思われるのですよ。

女性という存在そのものだけで、認識側は勝手に理想像を描いて期待を抱くからなんだろうけどね。

まあ、そういう意味合いで言えば、男性側にも責任の一端はあるかもしれないな。

女性固有の美しさに惹かれてにせよ、女性の体を求める下心からにせよ、女性をチヤホヤする男性が一定数存在する限り、女性に自分こそは特別だ、選ばれし者だ、もちろん、自分は女性として男性を選ぶ権利が当然のようにあるのだ、と勝手に思い込ませてしまうからね。(*2)

そんなこんなも含めて、日本では、最近は特に優しくおとなしい男性が多いせいか(?)、女性ばかりが、チヤホヤされやすいと思われてならないですね。

フェミさん達は、男性が被(こうむ)る、こうした著しい不平等のことをわかっているのかな?

まあ、いいや。

このような、いわば、絶対的な要因と自らのやや真善美から外れる業想念的な要因、男性に比べての多めな自らを中心とした独特な世界観も相まって、「私は美しい」と思う傾向が、かなり強くある。

男女ともに、悟りを開けていない以上は、誰しもがナルシストである部分はあるけれど、その度合いが男性と女性とでは、かなり異なると考えられる所以(ゆえん)だ。

従って、基本はあくまでも A だが、B が女性の場合には、かなり強く押し出されている。

そう考えられる。

女性が克己心が足りないために、現実を見据えることができ、最適解がすぐに出せるはずなのにそうはしない、のように書いたのは、この捉え方なら、A という絶対理性にもとづく判断を、B という肉体にまつわる業想念が抑え込んでいる、くもらせている、わかっていながらに見て見ぬ振りをしている、ということだ。

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(*1)私は、なぜこんなに遭遇するのかわからないほどに、公衆トイレその他で鏡に見入る男性に出くわしている。

私は見ては悪いだろうと気を遣い、妙な因縁をつけられるのも嫌なので、見ない素振りをして、その都度、その都度、そそくさと立ち去っていたのだが、この頃は、いちいち足早に立ち去るのも、いい加減面倒くさくなってきた。

そんなに、まじまじと自分の顔に見入りたければ自宅でやってくれ。

自宅だけにしてくれ。

またかよ。

そう言いたい今日この頃である。

どうせ、彼らにしても、こちらが見ようが見まいが、ずっと鏡に見入っていたのだろうから、わざわざ、そそくさと立ち去ることもないのかもしれないが、私は小心者なので、どうしても気を遣ってしまうのだ。

因縁をつけられるのも大嫌いだからな。

われながら情けない損な性分である。

ちなみに、これはイケメンだからナルシストだということはない。

意外かもしれないが、そうなのだ。

イケメンな人は、そう言われる分、多少はナルシスト気味になる部分はあるかもしれないが、その程度に過ぎない。

ハッキリ言ってしまうと、イケメンだけじゃない。

女性だけじゃない。

みんなナルシストだ。老若男女を問わない。

ただ、人によって程度の差があるというだけだ。

恋愛に興味のある人、未練のある人は、みんなナルシストだと思っている。

なぜならば、異性から見られる見た目を気にしているのが読み取れたからだ。

身だしなみよりも、異性。

モテ。

これが私が彼らから読みとった内容である。

(*2)選ぶ権利は男性、女性ともにあるよ。

女性にそうした権利がないと言っているのではない。

ただ、上記のような理由により、女性は自分たちだけが一方的に男性を選べて当たり前という思い込みや態度が不適切だ、と言いたいのである。

もしも、気に入らない男性ならば、選ばないのは当たり前だ。距離を置くことも致し方ない。しかし、そこには人としての最低限の敬意は払うべきだ。

たとえ、好みの男性ではなくても、バカにしたり、失礼きわまる態度をとるのは絶対に避けるべきである。

どうしても嫌なお相手なら、毅然として一線を画して、矜持を保つような気高い振る舞いをすることだ。

つけ入らせる隙を絶対に見せないようにすればいい。

しかし、それ以外のお相手に対して、奢らせて当たり前、エスコートまがいの細かな気配りをさせて当たり前、のように、互いに尊重し、譲り合い、協力し合う姿勢がまるで見られないのは、一体、どういう訳なのか。

外国人の男がどうのこうのなんてどうでもいい。

関係ない。

ここは日本だ。

私達は日本人だ。

私達はあくまでも神性を元に考えるべきだ。

日本は神の国だとは、こういうこと。

神様が肉体人間を男性と女性に分けて世代を引き継がせていく形をとっているのだから、片方だけを一方的に召し使いのように奉仕させるのは、間違っているとしか思えない。

神様ならば、どうお考えになるかを、僭越ながら、想像すると。

あなた方は、みんな私の命を分け与えた、私の子供です。

あなた方は、みなその本質においては私の子供の兄弟姉妹に他なりません。

男女一対の夫婦として、子孫を残し、寿命が有限の肉体人間としての世代を引き継ぎ、この世を、この地球をより良きものにしていくためには、夫婦となる者同士は、お互いに尊重し合い、協力し合い、奉仕し合っていかなくてはなりません。

このように、おっしゃっられるのではないだろうか。

神様が、わが子としての肉体人間としての男女を見た時に、両者の関係として、一方的な支配従属関係や、かたよった奉仕関係を望まれているとは、到底、考えることはできないのだ。

それぞれの持ち味や個性をいかしながら、協力し合うことを望まれているはずである。

ということは。

男性、女性ともに、お互いに奉仕し合い、協力し合っていくことこそが、あるべき形であり、これこそが当たり前じゃないか。

女性の人達が、なぜにそこに気づかないのか、不可解でしょうがないね。

考えてもみてほしい。

椅子を引く。

道路側を歩く。

こうした行為が、霊性が開発され、ごく自然になされる行動の一環ならまだいい。

しかし、わざわざ、これ見よがしにこうしたことをする。

身体が健康で丈夫ならば、こうしたことは自らやるべきことではないの?

力仕事やどうしても男手が必要な時に、助けを求めて、協力してもらえばいいだけの話ではないの?

自分でできることは自分でする。

足りないところを補い合い、協力し合えばいいだけの話ではないの?

なぜそれができないの?

なぜそれがわからないの?

本当に不可解です。

これは仮説だが、日本人の男性に元々過剰なレディファーストの習慣がないのは、このような神性の発想が無意識に根づいているからではないだろうか。

気が利(き)かない。

女性特有の心理に疎(うと)い。

この根っこにあるのは、お互いにできることは自分でして、補い合えることは補い合うべきだと、自然にわかっているからではないだろうか。

過度な封建制やマザコンは論外としても、日本人の特に男性には、脈々とこうした発想が無意識に受け継がれてきている。

そのように考えられる。