084_黙然と祈る

世の中には、どう考えても不合理な行動をとることが、見てとれる現象がままある。

その典型が唯物論の心理学でいうところの反動形成にもとづく行動様式。

純粋な理屈だけでは、到底、理解し難い、あたかも反比例していくかのような不合理な行動様式に見ることができる現象だ。

私は、世間のこうした事象を取り上げて、話題づくり、ネタづくりだからありがちなのだろうが、動画などで、やいのやいのと囃し立てているのを見ると、ああ、またやっている、相変わらずですね、と思ってしまう。

唯物論で見た場合には、反動形成だけで簡単に説明がついてしまう事象に思えて仕方がないからです。

人間はそんなに愚かじゃない。

過去世の因縁があまりにも悪すぎて、因業人間やサイコパスなどの特殊な人間に生まれつかない限り、物事の判断能力をくもらされることはなく、誰しもがまともな判断能力を持っている。

これは、学歴や知能指数や地頭の良さなどには関係なく、誰もが持っている能力です。

なぜならば、この能力の依って来る源は、神様から授かった命によっているものだから。

ご本人はわかっているんですよ。

すべてわかっている。

わかっていなければおかしいんです。(*)

わかっているからこそ、表向きは不合理きわまりない、本来の合理的な判断から正反対となるような反比例する行動をとっていく。

鮮やかなまでに。

とは言うものの。

仮に読み取れたとしても、こうしたことは詳(つまび)らかにせず、暴き立てず、黙って祈って差し上げるのが、一番無難です。

詳らかにしても、暴き立てても、真善美に悖る(=反する)想いと行いの業想念を巻き起こすことにしかならず、世の中の全体の因縁因果に悪影響しか及ぼすことにしかならないからです。

黙して語らず、ならぬ、黙して祈る、黙して祈って差し上げるべき事例がある、ということです。

~~~~~

・黙然~もくぜん~黙っているさま。もくねん。

・黙祷~もくとう~目を閉じて無言で神や死者の霊に祈ること。
(用例)黙祷をささげる。

死んだ人(死者)を対象にした話ならば、黙祷という表題になるが、ここでは、あくまでも生きている人を対象とした話なので、表題を「黙然(もくぜん)と祈り」とした。

~~~~~

(*)わかっているからこそ、表向きは理解し難い、理に適わない、おかしな言動がエスカレートしていく(と考えることが可能)。

ただし、あまりにも自分を取り繕って、自分を騙す(?)というか、言い聞かせていると、それが習慣のようになる恐れがある(のではなかろうか)。

残念ながら、肉体人間の寿命は有限で、時は無情(無常?)にも過ぎて行く。

こうした状況をどのようにとらえ、考えていくのかは、ご本人次第ですね。