098_祈り心2

前回 ( 097_祈り心 - おぶなより2 ) の内容の一部には、実はとんでもなく恐ろしい内容が含まれている。

人様の巨乳が、自らの劣等感を刺激されて、見るのが不愉快だからなのか、それとも、主として異性(男性)の注目を集めることに対しての嫉妬からなのかはわからないが、人様に対して勝手な物言いで、あのようなこと(乳房縮小術)は絶対に言ってはならないのだ。

なぜならば、仮に、このような物言いが後者の嫉妬から気にくわないために発せられたものだとすると、自分が気にくわないから、人様の肉体の一部を切り落としてしまえ、と言っていることに他ならないからだ。

何と恐ろしいことを言うのか。

自分の気分次第で、人様の肉体に自然に具(そな)わっている一部分を切り落とせなどとは、まるで、古代の暴君、すなわち、暴虐な君主のようではないか。

性的な搾取?

何を言っているんだ?

何だこのわけのわからない表現は?

何を言っているのか、意味がわからない。

とにかく。

どのような建前で言い繕っても、どんな大義名分をもってしても、身勝手に乳房縮小術を持ち出したという、きわめて重い事実の言い訳には絶対になり得ない。

こんなことを、仮にも人様にすすめるような言い分など、とんでもないことであり、こんな言説自体が、とんでもないものであるからだ。

何事も本人の意志で行うならば、あくまでも自己責任だ。

自己責任に帰する。

しかし、こうした肉体に手を加えるという、大変重い内容を、他人が端から勝手に意見するのは、言語道断ではないのか。

自分の肉体でさえ、ためらわれることを、なぜに、軽々しく人様にすすめることができる?

本当にひどいよ。

今生で与えられた肉体が、過去世の因縁を反映したものであるとはいえ、肉体人間は、あくまでも、神様によって与えられた命を生きているのであり、その身体も神様から与えられたものなのである。

肉体人間を有機的生命体たらしめる命そのものも、その命の器としての肉体そのものもすべて、神様から頂いているものに他ならないのだ。

だから、自分を粗末にしてはならないし、他人も決して粗末にしてはならないのだ。

当たり前ではないか。

自分の力で一からつくれない、もとい、何一つ、つくることができないのだよ、私達肉体人間は。

本来ならば、私達は、常に、命も肉体も、そのありがたさを噛みしめていなければならないのだ。

従って、肉体人間の肉体とは、決して蔑んではいけないし、傷つけてはいけないし、呪ってもいけないはずのものである。

肉体とはこのように、あくまでも神様によって与えられている、尊く、気高いものであるからだ。

そのようなありがたさを、微塵も感じないどころか、あのような形で、人様の肉体を勝手に変えろなどという物言いは、傲慢であり、不遜であり、罰当たりも甚だしい。

ごく普通の業想念にまみれた人でさえ、嫌悪感を示し、違和感を感じる内容である。

これが、真善美に悖り、どれほど神様のみ心に背いたものであるかは、誰しもがわかるはずだ。

嫌悪感を抱き、違和感を覚えない方がおかしい。

なぜならば、私達の意識の深層には、厳然として神意識があるからだ。

このような想いと行いが、当人の過去世の因縁としてのあらわれでない場合に、果たして当人に、輪廻転生を通してどのような運命がもたらされることになるのか。

何も言いたくなくなる。

もしも、思い直すことがあるのなら、ただひたすら世界平和の祈りをしてほしい。

祈って、祈って、祈りまくってほしい。

その結果がどうなるかはわからない。

ただ、あのようなことを言ってしまったら、ただ、ただ、もうひたすら祈るしかないのだ。

それだけだ。

だから、自己正当化、満足化だけにうつつをぬかす、輪廻転生を通した肉体人間の想いと行いの循環、中でも悪い想いと行いの償いを無視している唯物論は、どうしようもなく愚かしいものなのである。

今回は申し訳ないが、業想念だらけの内容になってしまった。

しかし、せっかく神様のお命を頂いて、知恵も、創造力もそなえさせてもらっているのに、あんなことのために、この与えられている貴重な力を使うのは、残念で仕方がない。

本当にこれ以上、何とも言いようがないよ。

本来ならば、「消えてゆく姿」として、パッと放せればいいのかもしれないが、私も全然修行が足りていないので、あのようなことに引きずり回されてしまう。

情けない限りです。