126_基準2

前回 ( 125_基準 - おぶなより2 ) は主に男女関係に関して様々なこと、つまり、恋愛や結婚にまつわる様々なことを考える時に、一つのあるべき形を基準に事の良し悪しを考えるのが、簡潔でわかりやすいのではないか、と書いた(なお、以下は肉体人間を人間または人と略す)。

親子関係や友人関係や親戚関係、さらに知人関係についても、男女関係と同じように、その本質は人と人とのかかわり合いだ。

従って、それぞれの本質が神様の分けられたお命であることを根本に据えて考えていくことになる。

そうして、
これら
人と人との
あるべきかかわり方を考えると、
互いに、
尊重し合い、
愛し合い、
慈しみ合い、
慮って、
相手のためを思いながら、
それなりに尽くすべきだ、
ということになる。

ただし、親子から知人までは、縁の深さ、すなわち、過去世からの因縁のかかわりの深さがまるで違うし、近しさも当然に異なる。

だから、すべて一律に、上記のような理想的なあり方をとるように努めていく訳にはいかない。

人間は、霊なる人間から肉体をまとい肉体人間となって、この世を生きていくために、自己保存の本能を与えられたので、どうしても利己的な想いと行いをしがちだ。

どうしてもエゴに走りがちになる。

だから、上記の愛情をはじめとした、親を含めた他人様(自分以外の人という意味合い)に対する配慮を、等しく及ぼす訳にはいかなくなる。

どうしても対応に差がついてしまう。

自分以外のすべての人を、等しく愛して、尽くすこと。

これは理想ではあるが、実行は不可能。

これは仕方のないこと。

よって、愛情などは、近しいものから段階的に漸次及ぼしていくようにするしかない。

ただ、理想的な形であることには違いはないので、いかにこの形に近づけていくかが、問題になる。

両親をはじめとして、この世で出会う人は、たくさんの過去世でのかかわりがあり、何回も何回も、生まれ変わり、死に変わりして、縁があって出会う人達。

いわば、輪廻転生を通じるという、果てしない長い期間を通して、過去世で織り成した様々な因縁を果たすために、いわば、仲間というか同士のようにかかわってくる人達だ。

この世で、世を隔てて巡り会うたびに、様々に役どころを変えながら。

その過去世の因縁は、よいものばかりではなくて、むしろ、いさかいのような悪いものとしてあらわれてくるものが多い。

だから、この世でかかわりのある人達は、親子や兄弟姉妹、夫婦や親戚、友人や知人、そして、組織の上司と部下や同僚などといった、この世での避けることのできない、逃れられないかかわりの中で、過去世の因縁を果たす(=因縁を解消する)ための、いわば修行をしていく、修行仲間だとも言える。

この修行仲間に対して、上記のようにできる限りの愛情を及ぼして尽くすこと。

これを実現していくためには、やはり、人間の本質が神様の分けられたお命であることを、できる限り感得していくように努めていくしかない。

私も、あなたも、そして、すべての人も、みんな神様から命を分け与えられて、この世に遣わされた兄弟姉妹であり、同胞。

過去世の因縁、中でも真善美に悖る悪い因縁を果たして、この霊魂魄についた汚れを浄めて、輪廻転生の上がりを目指して、霊性を高めていく修行者としての仲間同士。

それを少しでもわかるように、悪い因縁を輪廻させずに、できる限り今生で解消(=因縁を受け入れる)して、この本来の姿がわかってくるように、努めていくしかない。

自分を含めて、すべての人が同胞であることをわかるようになるためには、
人間の本質が
神様の分けられたお命であること、
従って、
どんなに
それぞれの過去世の因縁により、
この世でのあらわれている形が
異なっていても、
その命の元は神様から来ている、
神様の子供としての
兄弟姉妹であることを
わかるようにしていく必要がある。

それには、
人間の本質は、
あくまでも、
この目に見えて、手に触れられる、
五感に感じられるところの
肉体人間ではない、
神様から来ている
命そのものが本質である、
と理解する必要がある。

それには、どうしても霊性の開発をしていかなければならない。

そのための一番やさしい(=易しい)やり方が、仏教の浄土門南無阿弥陀仏一念の祈りによる易行道。

この、いわば現代版となっているのが、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行。

これらの易行道は、過去世の因縁をただ受け入れて果たしていくだけではなくて、祈り(と感謝行)をすることによって、より一層、世の中によい想いをふりまくようにする、想いの世界を浄める、ひいては、世の中を浄めるための積極的なやり方だと言える。