134_あるがまま4 ー 智慧の実践 ー

前回 ( 133_あるがまま3 ー 知恵と智慧 ー - おぶなより2 ) の続き。

先に知恵の意味、特に智慧としての意味を書いた。

仏教の智慧にしても、神性の智慧にしても、ごく普通の生活の中で簡単には得ることができない素晴らしいものだということはご理解頂けたことと思う。

仏教ならば、悟りを開かなければならないし、神性にしても悟りを開く以上に、普段の想いから行いから、神様の世界そのままの素晴らしいものが行えるようになっていなければならないからだ。

ということは、こうした智慧は、悟りを開いていない、ごく一般的な私達は、まず、得ることができない、従って、実践することができない、ということになってしまう。

たまたま、私達が使える普通の知恵の水準が高く、こうした智慧に匹敵するケースも、もしかしたら、万に一つくらいは起こり得るかもしれない。

過去世の因縁によっては、場合によっては、このようなことが起こる可能性がある、と考えられるためだ。

しかし、行き当たりばったりではないが、ごくたまにこうした偶然(実は偶然はなく過去世の因縁による必然なのだが)で、知恵が智慧に匹敵するようになるだけでは、好ましいとは言い難い。

普段からこうした智慧を発揮することは、まずは不可能だとしても、やはり、少しでもこうした智慧が実践できるように、努力していくことが好ましいと思われる。

とりあえず智慧の内容を知った以上は、智慧とはこういうものか、ああ、素晴らしいね、よかったね、でお飾り(?)のままにしておいて、すぐに元の一般的な知恵しか活かさない生活に戻るのは、もったいないし、好ましいとは思えないからだ。

神様を信じることができなくても、仏教を信じることができなくても、より良い行いを心がけて、生活の質を向上させていくことが望ましいと考えられるからだ。

信じられるに越したことはないけどね。

でも、これは過去世の因縁も絡んでくることなので、お人によっては簡単には信仰には入れない場合があるんですよ。

だから、一般論になると思います。

では、それでも、知恵をほんのわずかでも智慧に近づけていくためにはどうしたらいいのか?

やはり、信仰なしには難しいですね。

結局、易行道しかありません。

難行道は、現代ではほとんど実践不可能だからです。

仏教の浄土門南無阿弥陀仏の祈り一念のやり方か、世界平和の祈り一念のやり方です。

悟りを開いている訳ではないので、いくら普通の考え方で、誰からみても良き知恵を得ようと思っても限界があります。

ならば、少しでもこうした仏教なり神性なりの知恵に近づけていくためにはどうしたらいいのか?

それは、祈りからすべてをはじめることです。

まず、南無阿弥陀仏なり、世界平和の祈りなりで、自らのすべての想いを、一度、阿弥陀如来様(神様)(以下、神仏と略)にお返ししてしまう。

嬉しい、悲しい、憎い、欲しい、をはじめとして、落ち着いた想いも、乱れた想いも、アイツが悪いという想いも、コイツが悪いという想いも、何もかもを、一切合切、祈りとともに、すべて神仏にいったん差し上げるつもりで、お返しをする。

そして、できるだけ良き想いを志ざしながら祈りをして、新たな想いを知恵として神仏から頂き直すつもりで、自分の頭で努力して考える。

過去世の因縁があるから、簡単には良い知恵が出るとは限らないが、こうしたことを繰り返すことによって、道のりは遠くとも、次第に神仏の知恵に近づけるつもりで、少しずつ少しずつ努力を積み重ねていく。

つまり、知恵に限らず、何事をはじめるに当たっても、まずは祈りをして、常に神仏からあらゆることを頂き直すつもりで、やっていく、ということです。

こうしたやり方を繰り返すことによって、ごく普通の知恵は、その生き方の一環として、紆余曲折を経ながらも、次第に良きものにしていくことができるはずです。

地味で、忍耐強いやり方とはなりますが、何気ない日々の祈りの生き方の一環として、ごく自然にこうした形で、あらゆる場面に対する時に、知恵を出すように習慣づけていくことしかないと考えます。