136_あるがまま6 ー 主体 ー

前々回 ( 134_あるがまま4 ー 智慧の実践 ー - おぶなより2 ) 、ああは書いたものの、智慧を実践して得よう、または、少しでも近づけていこうとする人はおそらく希だろう。

智慧が 1. の意味、すなわち、仏教のそれであっても、絶対にこれを実践しようとか、少しでも近づけようとすることは多分、希だろう。

ああ、そういうものがあるんだね、(悟りを開いていないごく普通の)私達が知恵とするものよりは、良さそうなものだね、とせいぜい知識としてとどめておく人が多いのだろう。

そこで。

この智慧に限らず、仏教に興味を持って仏教の書物をいろいろと読み漁る(?)人は、そもそも何を動機にしているのかな?

お釈迦さんが偉そうな人で、なるほど、立派な生き方をして、尤(もっと)もらしい教えを説いていたから、仏教の書物を読んで、人間として良き生き方をするための参考にしよう、ということなのかな?

じゃあ、そもそもどういう理由で、人として良い生き方をしたいの?

世の中の人はみんな自分のために生きている人がほとんどなんだし、よしんば、人のために生きたい、そして尽くしたいと思っても、経済的な事情をはじめとして、様々な面で余裕がなく、自分のことで手一杯の人が多いんではないの?

(唯物論的に考えて)自分さえいい思いができればいい、自分とごく近しい利害関係を共にする人達だけがいい思いをすることができればそれでいい、と考えるのが普通なんじゃないの?

栄耀栄華をきわめるとまではいかなくても、我が身の安泰がはかれてさえいれば、あるいは、それなりに余裕のある生活さえできていれば、周りとの軋轢を起こさない最低限の知恵さえ得ることができれば、それ以上は強いて求めない人が多いんじゃないの?

生活もある程度満ち足りていて、それでもさらなる良い生き方を求める人は、その理由は何なのかな?

良い生き方とは何か?

良い生き方をしようとする、そもそもの根本的な動機は何なのかな?

人様(以下、他人と略)に認められたいから?

他人に称賛されたいから?

他人の目なんてどうだっていいじゃん。

他人の反応なんてどうだっていいじゃん。

他人にこれといった迷惑さえかけなければさ。

共感?

いいね?

うーん、どうなんですかねえ・・・。

まあ、感謝することは大切なことには違いないので、こうしたつながりを大事にすることもよくわかりますけど・・・。

別に他人様のご厚意を無下にしろ、とまでは言っていません。

ただ、あまりにも行き過ぎると、人目を気にし過ぎると、本末転倒にならないでもないような気がするんですよ。

そもそもさ、他人がどうのこうの、なんて主体的じゃないじゃん。

自分が主体的にしたいこと、特に他人を損ねない範囲で自分で良いと思って行動に移したい行為を、いちいち他人からどう思われるかなんて気にしていたら、枷(かせ)をはめられて窮屈で仕方ないじゃんよ。

ことの真偽を尋ねるのは自分の良心だけでたくさんだよ。

余計はものはいらない。

残念ながら、悟りを開けない、ごく一般的な私達は、どうしてもこうした他人様からの評価に振り回されてしまうのを避けられないから、これぐらいの過激というか、極端な心づもりをしておかないと、自分の他人様からの評価という執着を離れることができないんですよ。

だから。

あくまでも、自分主体に考えた時に、良い生き方をしようとする、真の動機は一体何なのか。

無意識のままに、成り行きのままに、流されるままに、だけではなくて、この動機は何なのか。

自ら主体的に内省したら答えは何になるのか。

これを探ってみるのも、一興(それとも必然?)かもしれませんよ?