148_お天道様2

前回 ( 147_お天道様 - おぶなより2 ) の続き。

前回、後半に書いたことは、ちょっと堅苦し過ぎたかな。

もっとやさしく砕いて言えば、こういうことなんです。

「一切の見返りを求めずに、良いと信じられることをやっていきましょう」

ただし、いくら自分が考えに考え抜いて、良心に照らしてみて良かれと思ったことでも、自分だけで完結する事柄ならともかく、相手方がある場合には、相手方にとっては、迷惑なことにならないとも限らない。

なぜならば、私達には相手方の立場を完全に理解する他心通をはじめとする神通力を備えていないからです(普通は)。

つまり、相手方の事情を完璧には読み取ることができない以上、独りよがりな良かれと思う行為をしてしまい、好意の押し売りになってしまう可能性を排除できないということです。

従って、本来はこうした行き過ぎを少しでも避けるように、南無阿弥陀仏や世界平和の祈りを基底に置いた、霊性の開発を併用する必要があるのです。

場合によっては、紆余曲折を経ることになってしまうかもしれませんが、これが一番無難になると考えられます。

しかし、残念なことに、南無阿弥陀仏の祈り一念の生活や、世界平和の祈り一念の生活は、今のところ、まったく一般的ではありません。(*)

なので、何か良いことをする場合でも、自分だけでなく相手方にまで何らかの利害関係が生じる場合には、とにかく、控えめにしておくに越したことはないでしょうね。

好意の押し売りにならないように、考えられる限りの細心の注意を払いながら、良いと信じられることをするようにしていく、と。

つまり、独りよがりな弊害を少しでも減らすように、慎重にするということです。

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(*)信者数を調べた訳ではないので、正確なことはわからない。

とはいえ、ただでさえ、信仰がない唯物論のものの考え方をする人がいまだにたくさんいることなどを考えると、このように思える。

宗教の信徒数を載せた本もあるにはあるのだが、どう考えても水増しか、複数の宗教を重複して数えているのではないか、と思えた(つまり、正確なことはわからないように思えた)ので、このように書いた次第。