173_無心

ユーチューブでウルトラマン関係の動画を見た。

スーツアクターと呼ばれるウルトラマンの着ぐるみの中に入って演技をされていた俳優さん(以前は、ぬいぐるみ役者と呼ばれていたらしい)の古谷敏さんや、隊員を演じられた当時の俳優さん達の気持ちなどを、いろいろと知ることができて、とても面白かった。

それを見て感じたことがある。

それは。

人は、その時はわからないが、後になって実にいい経験だったな、とわかることがたくさんある、ということ(いくつもの動画の内容を正確には覚え切れないので、おおまかな印象話になり、事実認識に細かな間違いがあるかもしれないが、その点はご了承頂きたい)。

例えば、古谷さんは、当時顔出しがない俳優として、ご自身としてはかなり辛いご経験をされたようだ。

古谷さんは、元々は東宝という映画会社の俳優さん。

だから、当時の日本人としてはおそらく少なめ(?)の、長身で足が長く、素晴らしくカッコいいスタイルのウルトラマンを演じている、あの人は一体誰なんだ、と問い合わせられても、意地でも表に出なかったらしい。

やっぱり、俳優は顔を出してなんぼという観念があったということらしい。

だから同期のイデ隊員を演じた二瓶正也さんのように、同じ俳優でありながら、顔出しをして演技をすることができないご自身の立場に、かなりの葛藤があったようだ。

特撮の技術としても、まだ黎明期らしく、 1 日演じただけで、スーツ(ウルトラマンの着ぐるみ)の中は、汗びっしょりになり、3 キロも痩せたらしい。

水の中での怪獣との格闘シーンでは、溺れそうになるほど大変だったらしい。

 もちろん、 毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう。本名石井伊吉(いしいいよし))さんをはじめとして、そうした彼の大変な苦労を知り、古谷さんに報いた人もいて、後のウルトラセブンでは、アマギ隊員となり、制服も成田享さんというデザイナーの方が、長い間大変なウルトラマンスーツアクターを勤めたお祝いとして、デザインしたものだったらしい。

成田さんは、次回作となる作品の着ぐるみも、当然古谷さんが演じるものとして、ウルトラセブンのデザインをしていたらしい。

古谷さんによると、そのウルトラセブンのデザインはカッコいいものだったそうだ。

しかし、作品に顔出しのできなかった古谷さんの気持ちも汲んで、ウルトラセブンスーツアクターをしないことを了承してくれたらしい。

そして、古谷さんのウルトラマンでの苦労と大変さを労(ねぎら)うべく、古谷さんに似合うウルトラ警備隊の隊員服を新たに作った。

それがあの色合いが地味目ながらも、シックでカッコいいデザインのウルトラ警備隊の隊員服だったようだ。

だから、あのウルトラ警備隊の隊員服は、アマギ隊員を演じた古谷さんにとてもよく似合っている。

そうした、大変な思いはしたけれども、長い長い間、人々の記憶に残り続け、アメリカなどの海外では古谷さんはウルトラマンスーツアクターとして今でも大人気らしい。

演じている当時は、いろいろと割りきれない気持ちがあったり、大変な苦労をしても、後になって見ると、自分はなんていい経験をしたんだ、自分は幸せだったんだなあ、とつくづく感じることが世の中にはある、ということ。

だから、その時、その時、与えられた場を、何はなくとも無心に一生懸命こなすことが、いかに大切か、という教訓にも思える。

他の隊員さん達も、当時は子供向けの番組じゃないかとか、いろいろと葛藤があったかもしれないけれど(初代ウルトラマンの科学特別捜査隊の隊長(キャップ)を演じられた小林昭二さんは一生懸命演技するように皆さんに諭されていたらしい)、今になって見ると、出演された方々は、子供時代に人々に夢を与え、長きにわたって人々に愛され続けるという、かけがえのない貴重な人生を歩まれた方々のように思える。

ウルトラマンタロウに変身する主人公の東光太郎を演じられた篠田三郎さんが、劇団民芸という新劇の名門でお芝居をされていると、ウルトラマンのファンの方々がかなり来られるというお話もされていた。

その場、その時には、その当時の常識ではわからなくても、長い目で見れば、人生の大切な経験になることがたくさんあるんだな、というお話に思えた。

その場、その場で、一生懸命であること、無心であること。

目には見えない、その場、その場での損得勘定では決してわからない、はかり知れない人生のお導きがあるから、置かれた場所で一生懸命に、ひたむきに、(正しく)生きることの大切さを教えられたように思った。

私達は、通常は未来を見通す神通力を持たない。

だから、どうしても目先の利害得失に心を奪われ、利己的な行動に狂奔しがちな傾向がある。

しかし、私達のあずかり知らない高みの、神様(おそらく守護の神霊さん)の視点からは、別のお導きがある。

その人、その人にそれなりの今現在のこの世(=今生)でのお役目を果たさせるために、唯物論的な利害得失ではわからない、はかり知れないお導きがあり、誠実に一生懸命生きてさえいれば、自然にそれに沿った生き方ができるようになっている。

世の中は、こうした目に見えない仕組みに導かれている、もっと言うと、真摯に生きてさえいれば、神様のお導きとおはからいに沿って生きていけるようになっている、と思えた。

そのためには、まず無心であること。

そして、神性に対して素直であること。

これが大事なことのように思える。