017_祈りについて

以前 ( 010_フェミさん - おぶなより2 ) に書いたのだが、あのように人様に対して祈るしか最善の方法がない場合について補足する。

仮に、論駁をして相手をやり込めたとしても、相手方には不満や恨みが残る。

相手が納得してきれいサッパリになることはまずない。

なぜならば、誰しもが打ち負かされた形で、自尊心を傷つけられるからだ。

形式的な理屈だけでは通らないんだよな(悟りを開けない以上は、肉体人間は感情の動物という側面を持ち、業想念を生じさせるのがごく普通のことだから)。

従って、自尊心を傷つけられたという恨みが残る。

つまり、やり込められた方には、恨みという想いがくすぶって残る訳だ。

論駁した方は、(神様の分けられたお命を本体として本来ならあるまじき、同じ神様の分けられたお命を本体とする)相手を傷つけるという真善美に悖る想い(以下、業想念とする)と行いをする。

論駁された方は、相手から傷つけられたことによる恨むという、これまた、業想念を抱く。

よって、双方ともに、こうした想いと行いは、それぞれの輪廻転生を通して、神様の分け命を本体とする者としては、すべてあってはならないものとして、消し去ることを余儀なくされる羽目に陥るのである。

丁寧に書くと長くなるのではしょるが、要は、自らが過去世でなしたものが、その相手からやり返される形で、来世以降に必ずや償わされる羽目になるのだ。

相手をやり込める、相手に恨みを抱く、といった業想念は、それぞれに、やりっ放し、想いっ放し、では済まないことになるのである。

必ず、同等の業想念を相手から受けることによって、打ち消す、清算されるまで消え去ることにはならないのだ。

ほんのちょっとでも、やり返す、やりあうことになれば、ダンマパダ(法句経)に示されているように、業想念の応報が循環してしまうのである。

過去世の記憶がないので承服し難くても何とか受け入れて収めるか、守護の神霊さんのお浄めで消して頂けるものならば消して頂くしか、悪循環を止める方法はないのである。

そんな時に、祈りをして差し上げるしか、業想念を生じない、輪廻転生を通して悪影響が一切ないようにする手立てがない場合に、どのような気持ちで祈ればいいのか。

前置きが長くなったが、これについて、補足しておきたい。

それは、例えば A さんに祈りを捧げたい場合には、世界平和の祈りとともに、A さんの天命がまっとうされますように、とすることになる。

この場合には、A さんの守護霊さん、守護神さんお願いします、A さんの魂が神様のみ心に沿うよう立派になりますように、A さんの本心(神性)が少しでも早くあらわれて立派な魂になりますように、といった意味合いになる。

A さんは、涅槃にははるか程遠く、この世の業想念で迷いに迷っているけれど、どうか少しでも霊性が開発されて、魂の霊格が向上されますように、という意味合いになる。

祈りをして差し上げる時には、この想いを添えるといいと考えられる。