212_選択

人には誰しも皆それぞれの固有の好き嫌いがある。

私は、孤独がさして苦痛ではなく、その上、根が臆病で小心者なためか、人といると気を遣い過ぎて疲れて参ってしまうタイプなので、むしろ、一人で勝手気ままでいるのが本当に楽。

人様を痛めまい、傷つけまい、軋轢を生じさせまい、とすると、どうしても様々な面で自分を抑制し、相手に気を遣って疲れてしまうためだ。

それというのも、相手をそれなりに尊重しようとすると、人格の完成、つまるところは、霊性の開発がまだまだ不十分な場合には、それ相応の相手を慮るための、固有の意志の発動が、どうしても必要不可欠になってしまうからだ。

ただ、他人様を見ていて、自分としては「これは好ましくないな」と思った行いでも、(このような感情を態度に表さないように気をつけつつ)何も言わずに、黙るようにしている。

そうして、自分からは決してそのよう行いをしないようにしているだけ。

例えば、「腕組み」。

よく、書籍やネットなどの写真にある、著名人が、「カッコいいポーズ」としてカメラマンにやらされているのか、自分でしているのかはわからないが、ああした腕組みのポーズは個人的には嫌いだ。

心理学関係の本で、自分の防御で他人の排斥の意味合いもあると読んでからは、さらに嫌いになった。

もしも、これが本当なら、腕組みは最悪の場合、相手に対する尊大な態度、極端な場合にはケンカ腰をあらわすことになってしまうからだ。

そうすることで、相手の反感を買ったり、不興を買わないように気をつけている。

これもつまるところは、自分も相手も想いを乱さないようにしているという訳なの。

少しでも、業想念(=神様のみ心に適わない肉体人間の想いと行い)を生じさせないようにするために。

だから、対面時には自分からは絶対に腕組みをしないようにしている。

それから、これは女性によくありがちな「はーい」とか「そうでーす」のように、やたら語尾を伸ばすのも嫌だ。

「メッチャ」とか「ヤバッ」という言葉も多用したくない。

「あざーす」や「サーセン」なんて論外だ。

それから、滑舌が悪く、抑揚が不安定で、言葉が崩れるように話すのも嫌いだ。

別に、ハキハキしろとか、ピシッとしてきれいに話せ、とまでは言わないが、グシャグシャ・フニャフニャとしたあまりにいい加減でだらしない滑舌や抑揚(イントネーション)で崩された日本語の言葉遣いを聞いていると、この人はせっかくの神様のおつくりになられた、あらゆるものに通じる母音に特徴のある日本語を大切にしていない、棄損している、とさえ感じてしまうからだ。

残念なことに、こうした芯の通っていない崩れた話し方をする人は、テレビでも主演俳優さんやタレントさん達の中にも結構いた(ただし、数年以上前なので、今はどうなっているのかはわからない。多分変わっていないだろう)し、また、話の専門的な訓練を受けていない人が大多数を占めると思われるユーチューブで発信をする人々や、小中学生でもしないような初歩的な漢字の読み間違いが異様に多く、聞き苦しく不快感を抱かざるを得ない AI にテキスト読み上げを丸投げしている(と思われる)人々をはじめとして、今や至るところで見られるのが現状だ。

子音が主となる外国語とは異なり、母音を大切にする言語感覚は、自然に通じる。

自然の虫の鳴き声は、外国人さんには騒音のように聞こえるらしい。

虫の鳴き声に反応する脳の部位が日本人とは違うのだそうだ。

今では、日本人の若者や子供にもこうした人が出てきているらしい。

何もわざわざ「日本は神の国」などと大上段に構えなくても、自然に通じるということは、神様のおつくりになられたものに通じる、すなわち、神様に通じる言語ということ。

(いろいろと疑問を持たざるを得ない内容を含む記紀金科玉条化して解釈し)記紀に書いてある内容がどうのとか、日本列島が世界の縮図の形をしているのがどうのとか、そんな「日本を権威づけるための材料」なんかはどうでもいいの。

まことに不思議なことに、今現在の結果として、日本はこうした言語を扱うような立場に置かれている。

だったら、それを謙虚に受け止めて、その(母音に特徴のある)日本語を大事にして、自然と人間との調和、そして、ひいては世界の調和、すなわち、世界平和を求める役目もあると考えていけばいい。

だから、一般的によくありがちな、日本は偉い、日本語が偉い、日本人が選ばれし民族だ、などと思い上がるのはお門違いもはなはだしい。

そんな他民族の反感を買うような、そして、自分達以外の民族を下に見る他民族にありがちな、傲慢で尊大で思い上がった姿勢をとってしまったら、せっかくのこうした言語が与えられている境遇が台無しになってしまう。

日本や日本人だけが由緒正しく偉いんだ、などと威張ったり、自己顕示欲で認めてもらおうなどとしたら、せっかくまわりに認められて評価される要素が自然にそなわっていても(=神様から与えられていても)、そうした美点が、すべて台無しになってしまうからだ。

だから、美点はあくまでも謙虚に受け止めていくべき。

話を戻すと。

自然が母音にあふれているものだとすれば、日本人は日本語という母音を主とする特徴を持つ言語を扱うために、いわば、自然の声を聞き取る感覚を持つ可能性がある脳になるとも考えられる。(*1)

だから、虫の鳴き声も騒音にならないように聞こえるのではないか。

ユーチューブで来日した若いドイツ人女性が、セミの声がうるさくてたまらないと話しているのがあった。

多分、彼女には、セミの鳴き声が、大自然の奏でる自然の音の一部ではなくて、単なるやかましい騒音にしか聞こえなかったのだろう。

このようにみてくると、日本は、言霊を大切にすべきことは、自然の声を聞くという、こんな側面にもあらわれていると思うのだ。

言葉は、やはり、乱して使うものではないと考えられるからだ。(*2)

だから、どんなに地味でも、つまらなくても、穏やかで柔らかく、語尾のはっきりした平坦な言葉遣いを心がけるようにしている。

つまり、自分としては人様の不快や好ましくないと思われる仕草や言葉遣いに出くわしても、それは黙って心に収め、自分からは決してそうした仕草や言葉遣いはしないようにしているだけだ。

個人の自由だからね。

いろいろと大変な時代ではあるが、こうした選択の自由があるのは、とてもありがたいことだと思っている。

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(*1)大体、10 才くらいまでに日本語を母国語として習得すると人間の脳はこのようになるらしい。

だから、自然と人間との調和、ひいては世界の調和=平和ということを考えると母音に特徴のある日本語をきちん話すことには重要な意義があるし、最適であるとも言えるな(日本語を母国語としない外国の人達は反発するかもしれないが)。

(*2)ユーチューブのロシアの何人かの女性の話にあったが、彼女達によると、日本語は美しい歌のように聞こえるそうだ。

だから、日本を破壊しつくそう(?)と思ったら、こうした母音を特徴とした美しいとされる日本語を、外来語、カタカナ語と省略語を使って、ぐちゃぐちゃにに混ぜ合わせて使わせるのも、一つのやり方となる可能性があることになる。

日本は、言霊の国ともされるし、自然の声を聞き取る母音に重きを置く特徴のある言語でもあるし、そもそも、言葉すなわち神なりきのような宗教まであるこどだしね(キリスト教を信奉している人達は、独善的・排他的に自分の神様と唯一の神の子とされるイエスの言葉だけに限って使ってるんだろうけどね)。

そんな訳で、相手を騙そうとするのでもない限り、やたらめったらわけのわからない外来語やカタカナを使うべきではない、とも言えるね。

逆に、馴染みのない、訳のわからないポッと出の言葉には、つまびらかにはできない、それなりの意図が隠されている、とも言えるな。

悪い言い方をすれば、何でも横文字にして煙に巻いてしまえ、といった形の。