210_万教帰一

万教帰一という言葉がある(どうも生長の家の言葉みたいだ)。

しかし、こんなことは到底言えないような、どうしようもないカオスなありさまが、この世の中には広まっている。

自分達の信奉する神こそが正しい神なのだ、自分達の宗教こそが正しい宗教なのだ、と言わんばかりの頑なで閉じた体系を持つ、独善的で排他的な宗教のいかに多いことか。(*1)

唯物論の理屈で既存の宗教をまともにみれば、どう考えたって、万教帰一などとは言えたものではないとしか思えないからだ。

そうした既存の各宗教の信者さんも、肉体人間観を脱却できていない、悟りを開いた人はいないようで、肉体人間としての自我意識の延長線上に、自らの信奉する神様を祭り上げ、頑なに固執し、決して他宗に譲らない、融け合わない、道を譲らない宗教だらけのような様相を呈しているように見えるからだ。

私は、今まで、すべての創造主、すべてを造り、すべてに命を与え生かしている、大元の神様を「神様」としてきたが、「阿弥陀如来様」も同様にとらえてきた。

やれ、仏教の仏様は違う、仏教の神様は違う、キリスト教の神様は違う、などと、肉体人間のエゴイズムの延長のような我欲の張り合いのようなことをやっていては、いつまで経っても、どこまでいっても、世の中に安寧や平和なんか訪れっこないからだ。

分子生物学者の村上和雄さんは、遺伝子のとてつもない驚異的な精緻さから、(おそらく神様に相当する存在とその働きを)サムシング・グレートとしていた(ただし、村上さんは、そうした命の設計図を解読することができて、たんぱく質などの材料を揃えたところで、命そのものを造り出すことはできない、命そのものの働きを造り出すことはできない、まだまだ未解明なところがたくさんあるとされていた)が、こうした存在が、一定の邪な意図を持った宇宙人だの、何だのとといった程度の存在とは、到底思えないね。

もし、そうであるならば、あるいは、もし、巷にある各宗教の神様がこれに相当する存在なら、その概要をつまびらかにしてしかるべきでしょうよ。

しかし、到底、そうはなっていないように見える。

それにもかかわらず、ほとんどの宗教の信者さんは、各々の信奉する宗教に執着しているのではないだろうか。

私は、上記のように、仏教の「阿弥陀如来様」を「神様」同様にとらえてきたが、仏教を信奉する大多数の人はまったく違うだろう。

何が言いたいのかというと。

仏教に限らず、自らの肉体人間観の自我の延長として、そんな宗派にとらわれていることばかりしていたら、いつまでも経っても、世の中の調和は訪れませんよ、平和にはなりませんよ、ということなんですよ。

南無阿弥陀仏」は、素晴らしい祈り言葉だとは思うけど、これは祈る当人と阿弥陀如来様との直通という意味合いが主で、当人が悟りに近いようになってきたら、周囲の人々に好影響を及ぼす形で横に広がっていくという、世界平和の祈りに比べると、やや、限定のある祈りになっている。

それでも、妙好人因幡の源左さんのような人ならば、どのような人に対してでも、つまり、どのような宗教を信奉する人に対してでも、同じように接して、人を崇め、尊重する態度をとるだろう。

つまり、源左さんのような人ならば、相手が肉体人間である限り、すべてのあらゆる人を崇め、尊重すると思われるのである。

宗教や宗派なんか関係なしに。

つまり彼は、この世にこうして生きているのは、神様=阿弥陀如来様と、自分との関係性によるもので、ありとあらゆるものは、神様=阿弥陀如来様がお与えになり、思し召され、おはからいになるという、一律の見方をする信仰者だ、と思われるのである。

白色人種も、黄色人種も、黒色人種も、関係ない(源左さんは、白色人種の 人にも、黒色人種の人にも会わなかったと思われるが)。

ましてや、宗教や宗派にとらわれないだろう。

源左さんは、そうした対応をする人だと思われるのである。

源左さんにあるのは、ただ、神様=阿弥陀如来様と、世の中の人々と同じ肉体人間としての自分があるだけ。

この見地から、すべての人々に対していく。

つまり、世の中にあるのは、神様と神様のお造りになられたすべてのもの、中でも信仰において重きをおくのは、神様と万物の霊長となる肉体人間だけということ。

その中で、すべてをお与えになり、思し召しになり、おはからいになる神様への感謝と、祈りがあるだけ、ということ。

このように考えてくると、やれ、どの神様でなければダメだ、どの仏様でなければダメだ、自らの信奉する宗教に固執して、強硬に自らの宗教を押し出していくことが、いかに調和を乱すか、と思えてならないんですよ。

とは言うものの。

仮に、おかしな神様だな、おかしなご託宣だな、おかしな教えだな、と思える宗教があったとしても、批判や非難をしてしまったら、これはこれで、真善美と愛に悖る、神様のみ心には適わない想い=業想念になってしまい、輪廻転生を通して、この世に不幸や災難などの悪いものしかもたらさないことになってしまう。

だから、あくまでも懐の広い善なる神様を信じて、そのおはからいに委ねるべく、世の中の人々の調和と安寧を願って、ひたすら世界平和の祈りをするしかない。

世界平和の祈り以外で、最もこうした信仰の仕方に近いのが、源左さんのような信仰のあり方に思える訳です。

だから、あえて、仏教だの、宗派だのという枠をこえて、神様として同一の存在と思える存在を、わざわざ、西方極楽浄土阿弥陀如来様として区別して特別視をせずに、神様と阿弥陀如来様を、あたかも混同したような形で書いてきた訳です。

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(*1)まあ、こうした独善的で排他的な宗教を信じることになってしまうのも、やはり、その人、その人の過去世の因縁によるものと考えられる。

よりによって、何であのような宗教に入ってしまうのか、と今生の唯物論の理屈だけでは到底説明しきれないような背景=過去世の因縁=原因が、その人、その人なりの過去世において肉体人間としてこの世に生きていた時の想いと行いにある、ということなのだ。

だから、唯物論の理屈だけでは到底説明しきれない、納得し難い様々なおかしなことの背景は、過去世の因縁を原因として起きてくる、としか解釈しょうがない、ということである。

善なる神様が造物主であり、すべてのものを造り出し、それなりの命を与えていて、理に適った法則を設ける存在であると解釈する限り、このように考えなければ、辻褄が合わなくなるからだ。

だから、消去法的に考えると、「輪廻転生などない」とするならば、神様という存在は、あえてカオスのような不公平・不平等・不均衡きわまる、 私達にただ 1 回きりの肉体人間としての人生を与える意地悪か、悪意を持って、この世に不公平・不平等・不均衡を造り出す存在と解釈できることになってしまうのである。

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(追記1)
まあ、上記では神様をきわめて広くとらえた訳だけれど。

五井先生によると、確か神様は、一即多神で、すべてのものに命を与え、大宇宙の進行を司るような法則の神様と、それから様々に別れて様々な働きをするいろいろな神様に分かれていた。

確か、大まかには、宇宙神という、大宇宙の進行を司るような法則の神様と、人類などの守護にあたる守護神や守護霊などの救済の神様に大別されていた。

ただ、こうしたことを細かく考えたり、何々の神様だと名前を覚えたりするよりも、とりあえず、宇宙神というか大神様という法則の神様から、私達に遣わされ、私達をお守り下さる、守護神様と守護霊様に感謝をすればいいというような話だった。

「神様」と呼んだとしても、宇宙神という大神様には、よほどのことがない限り、届くものではないから、救済の神様である、守護の神霊様を意識すればよい、と。

ただ、こうしたことを、これ以上、私達が細々考える必要はなくて、とりあえずは、神様は大別して法則の神様と救済の神様とに分かれていて、私達としては、私達専属に宇宙神である大神様から遣わされた守護神様と守護霊様に感謝をすればよい、といった話だったと記憶している。

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(追記2)
ユーチューブのお陰で、五井先生の直に話されている音声を聞くことができるようになったので、五井先生の本を探したり、読み返すことがかなり減って、だいぶ楽になった。

ありがたいことです。

ただ、五井先生のお話とは違うことだが、ユーチューブも、かつてのテレビほどの内容の硬直さがなくて、自由で多彩なのはいいのだが。

残念ながら、かつてのテレビと大して変わらないことや、むしろテレビよりも見苦しい点がある。

大して変わらないのは、ここぞというところでの CM の強引なねじ込み。

見苦しいのは、客(=視聴者)引き一辺倒で、詐欺見出しや、脅し見出し、○○などの伏せ字見出し、大変なことになりましただの、もうやめるだの、もう最後だの、もうお別れだの、という、実際に視聴してみると、そんな大げさなことがない(=見出しから想像される内容と動画の内容に明らかな齟齬がある)のにもかかわらず、視聴者を「一体、何があったんだ」「どうかしたのか?」と心配させ何とか引き込もうとする、これ見よがしな思わせ振りな見出しが氾濫していることだ。

動画の中身を充実させることだけでは我慢ができないのか、こうした手法に打って出るものが大量に氾濫している、つまり、そうした業想念だらけの見出しがわが物顔で闊歩している状況には、ちょっとウンザリしている(私の視聴履歴が悪いせいなのかもしれないが、これはとりあえず考えない)。(*2)

なぜなら、ユーチューブのアプリを開く度に、こうした刺激ばかりを伴う、物欲しげな見出しが出てきて踊っているからだ。

少なくとも、こうした見出しが踊りまくっている状況では、視せられる側の人間の心が平穏になることはなく、常に心に波風を立たせられるような刺激を与えられてばかりいることになるからだ。

これらの手法は、視る人に何とか強い刺激を与えることで、視聴者を驚かせ、不安にさせ、心配させる、といったやり方に他ならないからだ。

信義誠実の原則や、真摯さを貫く、真っ向ひた押しの地道なやり方は、もはや望めないのか、とさえ思えるほど。

大変苦労して、動画を作成された方々には申し訳ないが、せっかく良い動画を作っても、こうした見出しを用いることは、視る人の想いを乱す、決して良いとは言えないやり方になるんですよ。

これがずっと続いていくと思うと、何とも言えない気持ちになりますね。

それと。

ユーチューブには、相も変わらず、被害が自分や自分の近しい人間達に及ぶと考えたら、到底容認できない凄惨で酷い内容の予言を上げる人達がいる。

宇宙人やら、火星の記憶があると称する者やら、かつての予言が当たったとされる人や、未来から来たと自称する者やら、こうした有害な(なぜ有害なのかは ( 208_予言について - おぶなより2 ) に書いた)脅し見出しが、見たくもないのに、わらわら、わらわらと湧いてくる。

肉体人間として、天下ってきた私達の想い(過去世からの分も含めて)を乱すことが、この世を悪くすることを踏まえると、これらの動画を上げることは、まさに、「不安騒擾の罪」そのもの。

もはや、嫌悪感さえ抱くレベルだよ。

本当にどうしようもないな。

最悪ですよ。

それでも、私達には、ただただ、ひたすら、世界平和の祈りをするしか残されていないけどね。

こうした私達に不安騒擾の想いを抱かせ、掻き乱し、波立たせる動画に、批判をしようが、何をしようが、想いを乱すことにしかならないのだから。

今回も批判めいたことを書いてしまったが、とにかく、世界平和の祈りをできる限りして下さるようにお願いしたい。

ただ、それだけです。

また繰り返します。

私達肉体人間の本質(本体)は、この肉体を有機的な生命として成り立たせている、神様の分けられたお命そのものの霊魂魄、すなわち、神様の分霊(わけみたま)である。

つまり、真実の人間とは、動物のようにこの世にあらわれている五感に感じることのできる肉体人間ではなくて、神様の分けられたお命そのものであり、この肉体を生かしている、命そのもの、神様の光明波動そのもの、神様の光そのもの、霊なる人間こそが本当の人間なのである。

従って、私達肉体人間の本質が神様の分けられたお命そのものである以上、私達肉体人間は、神様のいわば子供に相当する訳であり、その本体の命も、神様同様に永遠である。

そして、この世に神様の子供としての肉体人間として、この世に天下った私達は、そのおよそ数十年という限られた寿命の肉体を通して、輪廻転生という生まれ変わりを繰り返す。

しかし、こうしたことを心身ともに、完全に感得できているのは、悟りを開いたような人しかおらず、どんなに理屈の上で何となくわかっているようでいても、悟りを開けない以上、私達は、人間とは、この目に見える、皮膚で触れる、つまり、五感で認識することのできる、動物のようにこの世にあらわれている肉体人間こそが、真実の人間だと思っているのだ。

このような肉体人間観に縛られている以上、自分の定命を、心安らかに、穏やかに受け入れることのできる人は、ほとんどいないのである。

つまり、誰だって生きている以上、(肉体人間として)死にたくないのが、当たり前なのだ。

だから、自殺したいとか、ノイローゼになっているとか、かなりの高齢でもう人生は十分に満喫したなど、よほどの事情がない限り、この肉体人間としての生命が失われることは、恐怖にしかならないのである。

こうした肉体人間観では、肉体人間の死を、単なるあの世への移行、すなわち、あの世への誕生であり、この世での寿命のまっとうという、一つの霊的な進化の段階を進んだことだとは、到底、思えないのである。

以上のような私達、肉体人間観を持つ者が世の中のほとんどすべてを占めている状況下で、人々の不安と恐怖を煽りまくり、天変地異を暗示するような絶望的な予言をしたりすることは、明らかに真善美と愛に悖る、神様のみ心には適わない、「絶対悪」にしかならないのである。

メメントモリではないが、今肉体人間として生きていることの短く儚い貴重な意味を噛みしめ、真剣に命を正しく生かすような生き方をするために、身を引き締めることくらいしか、残された人生の意味がなくなってしまうのだ。

しかし、こんな形で、一日一日、一瞬一瞬を、真剣に生きて、どんなに寿命が短くてもかまわないという人はいない。

だから、精神世界(スピリチュアル)を説こうが、宗教的な指導者だろうが、悟りを開いて、肉体人間の死を何事もなく受け入れるような境涯に至っていない者は、このような不安と恐怖を煽るような予言や言説をしてはならないのである。

彼ら(彼女ら)が、お釈迦さんとは言わずとも、少なくとも、妙好人因幡の源左さんや、浅原才市さんや、宇右衛門さんのように、この世的に、良いことも、悪いことも、ありとあらゆることが、神様のおはからい、思し召し、お救いなのだ、ああ、ありがたい、ありがたい、ありがとうございます、と素直に感謝できるほどの境涯に至っている人達なのか?

まことに失礼ながら、とてもそのようには思えないのである。

私は、かりそめにも、世の人々を正しく導くべくして、それなりの霊的な力をそなえて生まれてきた立場の人ならば、最低でも妙好人の彼らを超えるほどの高潔な人格者でなければならない、と勝手に思っている(厳し過ぎるかもしれないが)。

それにもかかわらず、物欲しげでお世辞にも上品とは言えない見出しを使う動画を平気で上げるばかりか、視る人を脅して、不安や恐怖に陥れることを、ごく当たり前のようにしている人達が、本当に霊的な指導者に相応しいとは思えないのである。

まあ、これを望むのは厳し過ぎる理想論にしても。

過去世の因縁もあって、せっかくこの世に特別な能力を授かって生まれてきたのだから、悪い予言などはやめて、その特別な力を祈りなどの良い方向に活かしてほしいのですよ。

とにかく、最低限の警告に止めるだけならいざしらず、人々の不安と恐怖を煽るのは、「明らかに悪いこと」言わざるを得ません。

よって。

私は、

「あなた方は、それほどまでに、この世の不幸や、災難や、阿鼻叫喚の天変地異などに見舞われる地獄絵図を望んでいるのか」

「もし、そうでなければ、今すぐにそうした発信をおやめなさい」

「そして、結果のいかんにかかわらず、今からでもできる限りの世界平和の祈りをしなさい」

と言いたいのです。

とにかく。

できることは、唯一、世界平和の祈りをお願いするしかありません。

世界平和の祈りをお願い致します。

~~~~~

(*2)「詐欺めいた」というのは、動画の見出しから、ごく自然に推定される内容と、実際の動画の内容に齟齬があるから。

しかも、その齟齬がごく自然な流れの齟齬ではなくて、明らかに一見の人を惹きつけ、何とか動画を視させようといった意図から、見出しがつけられているものがその大半を占めているからだ。

このような状態では、看板に偽りありになってしまっていると言われても仕方がないことになる。

こうしたことは、一般的にサムネ詐欺とも言われているようだが、私がくどいほど何回も書いてきたのは、こうしたことなんですよ。

もっとも、こうした行き方は、今のところ、ごく普通にありふれたユーチューブのあり方でもあるし、個人の行き方だから、とやかく言うべきではないかもしれないけどね。

ただ、神性ということを考えると、やはり、こうした齟齬のあるあり方は、好ましくないと言わざるを得ないんですよ。

その点で、「さすがだな」と思うのは、白光真宏会の上げている五井先生のお話の動画や他の方々の上げている五井先生のお話の動画には、こうした見出しと中身の齟齬は見られない。

誰に何を言われなくても、ごく自然に、神様のみ心に適った、こうした齟齬のない正直な見出しが、動画につけられているように見える。

たとえ地味でも、決して客引きのような物欲しげなことや、人々の心を波立たせるような真似はしない、という姿勢がごく自然なあり方として、(おそらく誰に言われずとも当たり前のこととして)無意識に身についている。

これは、やはり、五井先生の教えや人徳の賜物だと思うのですよ。

五井先生の教えをそれなりに正しく奉じている、肉体人間としての本来の神様の子供に見合ったあり方をそれなりに正しく理解した人々は、ごく普通のあり方として、信義誠実の原則を外したことは、決してしない。

つまり、一般的にありがちなコマーシャリズム的な物欲しげな態度が微塵もみられない、清廉さを感じるのですよ。

なるほどな、と。

あと、申し訳ないけど一つだけ。

五井先生の動画の内容とタイトルに、確かに齟齬はないのだけれど、タイトルが総花的になり、やや長過ぎると思われる方がおられます。

誠実な方で、内容を逐一網羅しようと律儀にお考えになったのかもしれませんが、やはりパソコンやスマートフォンの画面には制約があるので、できれば一文か、二文程度に絞られた方がいいような気がします。

網羅しきれない内容は、それぞれ動画と動画を視聴する人の過去世の因縁にお任せということにして、もう少し短くされた方がいいかなあ、と。

生意気言ってすみません。

~~~~~

(追記3)
私は上記で、五井先生の教えを汲んだり、理解した人は、ユーチューブなどで、物欲しげな釣り見出しなどを用いない、とした。

だが、非常に残念なことだが、ごく最近、ユーチューブで、五井先生の世界平和の祈りを扱いながら、こうした釣り見出しに通じる○○といった伏せ字を使った見出しを出しているものを見つけてしまった(白光真宏会の信者さんや個人的に五井先生の教えを宗教として信じている人ではなく、純粋に世界平和の祈りの波動の良さを取り上げている人のようだ)。

五井先生の真っ正直なあり方や、本来、五井先生の教えを奉じる人であるなら外すことはないと思っていた、信義誠実な行き方を違えた、釣り見出しを使う人が出てきたのは、何とも残念としか言いようがない。

興味本意の客寄せ見出しや思わせ振りな釣り見出しは、見る人の想いを乱す、波立たせるものだ。

極端に言えば、アクセスさえ稼げばいいんだ、動画の再生回数さえ稼げばいいんだ、アクセスや動画再生という目的のためには、手段は問わないという巷に溢れる唯物論的なやり方と何ら変わるところがないからですよ。

「波動」で言えば、整った澄んできれいな波動ではなく、物欲しげで乱れた波動になるのではありませんか?

想いが澄みきっていないのは、波動も澄みきっていないのと違いますか?

ごく普通の唯物論しか信じない、昨今のハッタリ釣り見出しや伏せ字だらけの人なら、わからなくもない。

しかし、やはり、肉体人間の「想い」を重要視する、五井先生の「世界平和の祈り」をすすめるあり方としては、このような物欲しげなやり方は、神様のみ心には適わず、およそ相応しくない、不適切だと言わざるを得ない(肉体人間の抱く想いがどれほど重要なのかは、五井先生の教義の「人間と真実の生き方」を読めばわかる)。

どう考えても誠実なやり方とは思えない。

私がブログの表題に伏せ文字を絶対に使わないできたのは、五井先生の教えから想像されるであろう、信義誠実のあり方を踏まえてのことです。

どんなにアクセスが少なかろうとも、たとえアクセスが絶無になろうとも、こうした神様のみ心に適わない、読者の心を波立たせるやり方はしない、と一寸の虫にも五分の魂ではないが、最低限の矜持として伏せ文字を使わずに、文章内容との齟齬を生じさせないようする見出しの付け方は守るべき事だと思ってきたからです(上記のように、白光真宏会の信者さんや五井先生の教えを宗教として信じている人なら、私のようにわざわざこうした意識を持たなくても、伏せ字を使った釣り見出しは用いない、つまり、自然にこうした行いはしない、と思われる)。

まさか、今頃になってこうした見出しの動画に出くわすなんてね。

何てこった。

本当に残念。

残念としか言いようがない。

209_隔世というタイムラグ

今まで、五井先生の著書から学んだことを中心に、肉体人間の本質(本体)のこと、輪廻転生のことなどを元にして、自分なりの敷衍と拡張を加えながら、試行錯誤を繰り返しつつ、様々なことを書いてきた。

著作でもユーチューブでもそうだが、五井先生のお話には、現世(=この世のこと)の話になると、何かにつけて「過去世の因縁」という言葉が、何回も何回も出てくる(続けて「消えてゆく姿」も)。

仮に、この世にあらわれていること、いずれ起きてくることの大半、さしずめ、 8 割方が過去世の因縁=原因として出てくる因果=結果だとすると、話の中に頻繁に「過去世の因縁」が出てくることも無理ないことに思われる。

ということは、これを逆読みというか、反転読みをすると、今生の、すなわち、この世で新たに生じさせた因縁=原因と、同じく、この世で生じてくる因果=結果との対応は、 2 割方、ということになる。

しかも、この世で生じさせた因縁=原因には、来世以降に因果=結果としてあらわれてくるものも含まれるとも考えられるから、今生で因果=結果としてあらわれてくるものは、さらに少なくなると考えられる。

つまり、今生のこの世の中での因縁=原因と、因果=結果との対応は、あまりない、ということになる。

このように見てくると、今生のこの世での因縁=原因と、因果=結果との対応は、あまりない、と。

だから、この世で新たに真善美と愛に悖る、神様のみ心に適わないことをしても、その報いは、返ってくることが少ない、ということにもなる。

今生で因果=結果として報いが返ってくるのは、
過去世の因縁=原因とするものが、

すなわち、過去世の因縁=原因として因果=結果として今生にあらわれてくるものが、
その大半を占めて、今生を因縁=原因としするものは
あまり多くない、と。

つまり、

肉体人間として、この世で生じさせた因縁=原因と、
この世で今生と来世以降に受ける因果=結果は、
その中の大半のものが、
来世以降、
すなわち、
世を隔てるという、
隔世の場合が大半だ、

肉体人間観、
すなわち、
人間とは肉体なんだ、
この五感に感じることのできるものだけが人間なんだ、
と、顕在意識で思い込んでいる私達には
真からは感得できない
時間差がある、ということになる。

従って、五井先生の著作の中に、頻繁に出てくる「過去世の因縁」を逆方向から見ると、肉体人間がこの世で生じさせる因縁=原因と、この世で受けることになる因果=結果は、このように世を隔てることが大半であり、原則でもある、と読めることになる。(*1)

ということは、

私達としては、過去世の因縁を原因としてすでに(悪く)あらわれていることと、これから(悪く)あらわれてくることの修正や守護の神霊様のご加護を願って、世界平和の祈りと神霊の神霊様への感謝行を行い、

今生も含めて、主として来世以降にこの世にあらわれてくることを良いものとするために、今生からできる限り、神様のみ心に適う、良い想いを抱き、それにもとづく良い行いをするべきだ、

という結論になる。

巷には、よくいろいろな形で因縁因果が説く人がいるのだが、上記のような五井先生のような隔世を中心の視点に据えて話されているケースをほとんど見ない(ように感じる)。(*2)

たまーに、「ああ、それはお前さんが、過去世でやったことの報いなんだよ」と諭すような話が、ポツン、ポツンとあるくらいしかない(ように見える)。

それも、ある程度の霊感があり、過去世の一部を見ることのできる霊感のある人や霊能者、あるいは行者さんなどの話がほとんどで、たまに、お坊さんのお話がある程度に見える。

このように、巷で因縁因果を説いている人々と、五井先生の教えが、かなり違って見えるのは、やはり、五井先生が、
霊性の全肯定、
輪廻転生の全肯定、
輪廻転生を通した、
神様の分けられたお命=神様の永遠のお命の全肯定、
をしているからこその、
帰結だと思われる。

つまり、普通の私達一般的な人には目には見えない、神様や、そのお命を分け与えられた分霊(わけみたま)=本当の人間が輪廻転生を繰り返すことを、全肯定しなければ、このような隔世を主とした話は出てこない、と考えられるのだ。

この点が、五井先生の教えの特徴のように見える(というか、真実なんでしょうね)。

要は、そもそも、因縁と因果の対応法則は、世を隔てる、といったズレ(=タイムラグ)を生じて作用することが、かなりあるものだ、ということ。

例えば、この世のありようが、不幸や災難に満ちていて、不平等、不均衡、となっていることの説明をつけるには、こうした五井先生の説かれる内容を踏まえないと、到底、納得できないようになっているからだ。

そうでないとすると、人生は 1 回コッキリで、自分本位にわがまま勝手にふるまう人間のヤリ逃げ、ヤリ得を許してしまうことになる。

例えば、A という霊魂魄(以下、人間とする)と B という人間の間で、傷つけるなどがあった場合には、輪廻転生という生まれ変わりを通して、いわば、A から B への一方的な悪い行いを放置せず、帳尻を合わせる形にしないと、A と B を公平に扱うことにはならなくなってしまうからだ。

A が B を傷つけたら、A のヤリ逃げ、かつ、B がやられっぱなしとはならないように、輪廻転生を通しての帳尻を合わせるような形で、B が A に仕返し(?)をするようにして、不公平な状態を残さない状態にして、対等な関係に戻すような仕組みになっているからである。

つまり、今生で、A が B を傷つけたとすると、後々の世で、A と B はそれぞれまったく新たな別の人間に生まれ変わって、この世で再会するような形となり、主客転倒する形で、B が A を傷つける、というように帳尻を合わせ、A・B 間の公平さが保たれるような形になっている、と。(*3)

輪廻転生のたびに、大抵の人が過去世のほとんどの記憶を消されて生まれてくるから、こうした、A・B 間のやり取りの記憶はわからなくされているので、この世では、到底納得できないおかしなことが、たくさんあり、起きてもくる、と考えられる訳である。

肉体人間としての寿命を、原則として数十年と限った以上、各々の魂(霊魂魄)レベルでの、公平さ公正さを保つためには、輪廻転生といった仕組みは、必須ということにもなってくる、と考えられるのである。

しかし、残念なことに、現段階の量子力学の進歩の具合も含めて、神様や霊魂を誰もが納得する形で証明ができないために、こうした(霊感のないごく一般的な私達には)目には見えない神様や霊魂、輪廻転生の仕組みが、各人の信じるか、信じないか、というように分かれている状態になっている。

つまり、神様や霊魂、そして、輪廻転生の仕組みを信じるか、信じないかは、各人の過去世の因縁によって、分かれている状態で、いまだに唯物論が幅を利かせて、安穏にはほど遠い世の中になっている。

なので。

世界平和の祈りをお願いしたい。

~~~~~

(*1)極端な言い方をすると、

今生にあらわれている、または、あらわれてくる大半のものが、
過去世において肉体人間としてこの世に生きていた時の想いと行いが、過去世の因縁=原因となり、
いわば、「世を隔てて繰延べられてきたもの」で占められ、

他方、

(今生のものも多少は含まれるが)来世以降にあらわれている、または、あらわれてくる大半のものが、
今生において肉体人間としてこの世に生きていた時の想いと行いが、(来世以降から見て)過去世の因縁=原因となり、
いわば、「世を隔てて繰越していくもの」となる、

ということ。

(*2) ( おぶなより ) の ( 285_因果律 - おぶなより ) に、名前は伏せたが、こうした過去世を度外視したままで、因縁因果を説いている、著名と思われるお方を 2 人挙げておいた ( ( 001_はじめに2 - おぶなより2 )  にも書いた)。

お一方は、実業家でお弟子さんからは教祖的な存在となっている S さんという方である。

ただ、この人が五井先生に否定的なことを言ったことを書かれた本を見たので、元々感じていたいくつかの違和感もあり、数年前に、この人の本はすべて処分した。

もうお一方は、ユーチューブで仏教の講義をされている K さんという方である。

なお、過去世の因縁を度外視して(=すっ飛ばして)、因縁因果を説くのが、いかに(ほとんどの場合に)的外れな話になってしまうのかは、すでに ( おぶなより ) の ( 314_法話50-9-2 - おぶなより ) で触れている。

あれ(五井先生の本とそれをまとめた( 314_法話50-9-2 - おぶなより )を見るとわかるのは、因縁因果を(悟りを開いていない、霊魂も因縁因果も信じない唯物論者が圧倒的大多数と思われる)現代人に簡単に理解・納得させることが、いかに難しいことであるか、がわかるからだ。

今現在のこの世に生きている人のほとんどの人がたくさんの輪廻転生を繰り返し、しかもその各人の過去世の内容から生成される過去世の因縁が、こんなにも込み入っている。

あんな複雑多岐にわたる過去世の内容を端から度外視することが、いかに無理があるか、と思わざるを得ないからだ。

(*3)ここで書いたのは、A と B を個別に見たミクロ的な見方。

ところで。

A も B も肉体人間として神様の分けられたお命を本質とする、いわば、神様の子供。

そして、その親にあたる、いわば、親様は、神様。

人間とは肉体人間だとする肉体人間観ではなくて、人間とはこの肉体を生かす命そのもの=霊なる人間そのもの、こそが本当の人間だとすると、人間は神様の分けられたお命そのものとなるから、命を分け与えた命の大元となる、親様が神様で、その子供が、A と B となる。

つまり、 A も B も親様も、本質はみんな神様に他ならない。

そのように、全部神様として、一体化して考える(=マクロ的な視点から考える)と、神様は、真善美と愛に悖らない存在感なのであるから、これに悖った想いを抱き、行いをすることは、あってはならないことになる。

従って、こうした想いを抱き、行いをしてしまったら、これはなかったように打ち消す、または、償うような形にならないと、神様の本質にはそぐわない。

つまり、本来的に、親様の神様も(親様の神様には、そもそもこのような真善美に悖る想いと行いはあり得ないが)、肉体人間としてこの世に天下った A も B も真善美に悖る想いや行い=業想念は、やはり、その神様という本質に照らして、その存在が許されなくなる、ということ。

まあ、見方によっては、神様はこのようにして、私達をこの世に肉体人間として、あえて天下らせることで、その霊魂魄を磨きあげるための機会を、お与え下さっているとも取れる訳で、やはり、神様のおはからいや思し召しには、改めて感謝をしなければならない、ということなのでしょうね。

~~~~~

(追記)
これ、話がさらにゴチャゴチャになると思って書かなかったんだけど。

今生で、今現在抱いている想いも、実は、今生の今、新たに生じさせた想いではなくて、過去世において、過去世のその時点で新たに生じさせ、抱いた想いが、今生の今現在に、輪廻転生という時空間をこえて、反復されるような形であらわれているものがかなりあるようだ。

しかし、ごく普通の私達は、悟りを開いた覚者ではないし、六神通のような特別な能力がないから、この内訳はわからないことになる。

こうした話を突き詰めていくと、神界、霊界、幽界、現界(=この世)という話になる、すなわち、非常に微妙で細かい神様の世界の波動、霊界の波動、幽界の波動、現界(=この世)の波動という、次第に粗い波動になってくるという話になるものと思われる(=神界からの神霊波動という神様の光が、すべての元になっていると思われるから)が、悟りを開けない私達には、どうせ五感に感じられないものを確実に解き明かすことはできないのだし、深入りもできないので、ここでは触れない。

過去世の想いの反復としての今生の想いへのあらわも、波動の話も、それらの話を持ち込むと、さらに説明がしにくくなるので、大まかな説明は上記のままとする。

208_予言について

ユーチューブで、五井先生が予言についてお話をされているのを聞いた。

およそ理に適った、きわめて明快で、わかりやすい内容だった。

私は、今まで、再三にわたって、悪い予言や予見を発信することに対して、批判的なことをクドクドと述べてきたが、五井先生のように、ここまで明快に言い切って下さると、実にわかりやすいし、スッキリする。

善なる神様を、真っ向ひた押しにする宗教家は、言うことがさすがに違う。(*1)

まさにその通りだ、と思ったからだ。

その大体のところを記すと(加筆あり。なお、予言には、科学者のような唯物論的な予言と、精神世界の唯心論的な予言との双方を含む)。

「予言とは、人間に力を与えるものでなければならない。

人間に生きる力を与える、

すなわち、

人間に愛を与える、

人間に生きる力を与える、

人間に勇気を与える、

そういう予言なら、いくらあってもいい。

(しかし、これに反して、)

(人間の心を痛めるもの、)

(すなわち、)

人間の心を暗くさせ、

人間の心を脅かし、

人間の勇気を奪う、

そういう予言は、邪なる予言であり、外道である。

予言が実際に当たったても、当たらなくても、そんなことは、問題ではない。

あるべきものはあるし、ないものはない。

予言したって、しなくたって、(良いものも、悪いものも)あるものはある。(*2)

もし、(悪いものが)あるとしたらば、(その悪い)あるものを、なくすようにしなければならない。

その(悪いものを)なくすのは、何かというと、世界平和の祈り。

世界平和の祈りをしていれば、世界平和の祈りの光が調和をさせていく。

何か悪い事があるということは、調和していない、何か不調和の状態が災いになる訳で、不調和の状態を早く調和させれば、それだけ不調和が埋まるから、災難はそれだけ出てこないことになる。

だから、調和の祈りの世界平和の祈りをすれば、知らないうちに、不幸が前にあるとしてもそれは消えてしまうという訳。

すべて調和の祈りが一番大事な訳。

それが世界平和の祈り」

というお話だった。

私達の集合意識としての過去世の因縁により、どの程度未来が決まっているのかはわからないが、とにかく、不幸や災難がないように、あるいは、少しでも不幸や災難が軽減されるように、世界平和の祈りは絶対にやった方がいい。

それでも、力及ばない時は、それも神様のみ心。

そう考えるしかない。

だから、どのような未来が予想されようとも、人々に不安や恐怖を与える予言は、頂けないのである。

せいぜい、何か対処するにしても、万が一に備えて、必要最小限の準備をしておくことくらいだと思う。

とにかく。

世界平和の祈りをお願いしたい。

人々の不安や恐怖心を煽り、「不安騒擾の罪」に相当する情報を発信するのは今すぐにでもやめて、その代わりに「世界平和の祈り」をして頂きたいのである。

以下は、個人的な独断と偏見であり、これまで何度も書いてきたが、もう一度。

神様とは、真善美に悖らない、愛深き存在である。

ということは、神様の世界には本来、真善美と愛に悖るものは、存在しない。

この世も然り。

この世は、神様のおつくりになった世界の一つだから。

つまり、この世は、広義にとらえれば、神様の世界の一部と考えられる訳。

そうすると、

神様の何らかのお考えで、こうした真善美と愛に悖るものが一時的に生じるような仕組みになっていたとしても、この真善美と愛に悖るものは、いずれ何らかの形で消滅する宿命を辿らざるを得ないことになる。

すなわち、私達にとっての今生となるこの世では、こうした真善美と愛に悖るものを新たに生じさせたならば、これはいずれ必ず消滅させるための過程が生じてくる、ということ。

つまり、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖るもの、簡単に言うと悪いことは、これを生じさせてしまったら、原則として輪廻転生という時空間を越えて、形として、必ず打ち消すような現象があらわれてくる、ということ。

神様のみ心に適う、真善美に悖らない良いものは、神様の世界にそのまま存在して良いことになるから、輪廻転生という時空間を越えて、ただ循環するだけ。

よって、何ら問題は起こらない。

幸福などの良いことばかりだから。

蓄積されても、流れ去っても、良いことばかりだから。

これに反して、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖るものは、原則として輪廻転生という時空間を越えて、私達に悪い循環してもたらさない、端的に言って、不幸や災難しかもたらさない、ということ。

蓄積されることはあっても、必ず流れ去らなければならない。

消え去らなければならない。

本来的には、(広義の)神様の世界には、あってはならない、存在してはならないものだから。

よって、消え去るための過程が、必ずあらわれてくることになる。

この世で生じさせた不安や恐怖は、結果として、この世に不幸や災難といった悪いものしかもたらさない。

しかも、この世で新たに悪いものを生じさせてしまったら、それは原則として輪廻転生という時空間をこえて、生じさせた本人(霊魂魄)に必ずその行った悪いことに対する報いが返ってくる。

この世で発した悪い想いは、想いの世界の幽界を巡り、蓄積されて、またこの世に巡って様々な形となってあらわれて返ってくる。

唯一の例外となるお救いは、守護の神霊様のこの世にあらわれる前の事前のお浄めのみ。

これで、悪い想いが、この世で具現化する前に、浄めて消して頂くことだけ。

だから、人々に不安や恐怖の心を抱かせることは頂けないの。

最低限の警告を発するとしても、悪い予言をすることに伴う自ら悪い因縁を引き受ける「覚悟と挺身」そして「世界平和の祈り」が必須と考えられる所以です。(*3)

~~~~~

(*1)これは私の勝手な解釈である。

ただ、五井先生の本を読む限り、五井先生は、神様とは、徹頭徹尾、真善美と愛に悖らない、善なる存在としているように思える。

宗教だ、神様だ、といいながら、悪魔を認め、敵を認める普通の宗教(仏教もキリスト教ゾロアスター教の影響を受けている。というか、もうゾロアスター教の本は処分したので(もうゾロアスター教をネットで調べる気にもならないので悪しからず)年代も忘れてしまったが、善悪二元論的なことを説く宗教のほとんどが類似に見える)を語る人達とは、一線を画しているように思える。

だから、このように書いた。

(*2)まあ、私が極度の小心者で、臆病者であるせいもあるかもしれない。

極度の小心者・臆病者にとって、不安や恐怖を煽られるのは、本当に嫌なんですよ。

たまらない。

だから、他人事のように不安や恐怖を煽る情報に接すると、こうした情報を発信する人達は、一体何を考えているのか、と疑問を抱いて仕方がないんですよ。

「あるべきものはあるし、ないものはない。

予言したって、しなくたって、(良いものも、悪いものも)あるものはある」

このように五井先生が言われているのは、

「過去世の因縁で、
守護の神霊様のお浄めという、
お救いに預かることができず、
どうしても受けなければならない
悪い因縁は、
因果として必ず受けなければならない」

ということ。

すなわち、

「私達が、この世で紡いできた過去世(前世、前々世、前々々世、・・・)において、
肉体人間として生きていた時の想いと行い(=原因となる過去世の因縁)により、
守護の神霊様のお浄めという、
お救いに預かることが許されずに、
確定した事実として決められ、
未来に否応なしにあらわれてくること(=結果としてこの世にあらわれてくる因果)は、
どうあっても防ぐことができない」

つまり、

「どうにもならないことはどうにもならないし、なるようにしかならない」

ということなのだ。

例えば。

私達のいる太陽系の恒星である太陽は、50 億年後に、赤色巨星化すると言われている。

そこで、これは荒唐無稽な仮定で申し訳ないのだが、仮に、太陽の赤色巨星化が、何年か後に起き始めて、しかもそれが完結するまでに、数十年かかるものとする。

そして、これを事前に察知して予言する人がいたとする。

このような、どうしようもない、防ぎようがない現象の予言をして、人々の不安や恐怖を煽ることに、煽りまくることに、果たしてどれほどの意味があるのか?といいたいんですよ。

太陽の赤色巨星化が始まったら、もう私達には逃げようがない。

逃げ場はない。

逃れる術もない(一部、 UFO などの特別な宇宙船を持っている人がいるのかどうかは知らないが)。

どうしようもない。

つまり、こうした防ぎようのない、天変地異のような予言をして、人々の不安や恐怖を煽ることに、どれだけの意義があるのか?ということなんですよ。

あるとすれば、(後の他の宇宙への転生も視野に入れれば)残された時間を、できるだけ神様のみ心に適うように有意義に過ごすことくらいしかない。

つまり。

人々の不安や恐怖を煽ることで、絶対に防ぐことのできない、天変地異をはじめとした、いずれこの世にあらわれる、とすでに定まっている不幸や災難を、くい止めることができますか?

できないに決まってるじゃないですか。

それにもかかわらず、不安や恐怖を煽るのをやめない、煽ってばかりいる、ということは、想いの世界である幽界に不安や恐怖という種を送り込み、不安や恐怖の実を結ばせる、すなわち、不安や恐怖を、不幸や災難といった現実のものとしてこの世にあらわすための仕込みをしていることに他ならないのですよ。

それでも、仕込みをやめないというのであれば、結果的に、不安や恐怖の具現化、すなわち、不幸や災難、果ては天変地異の具現化を早めることを望んでいると解釈されても仕方がないことになる。

その自覚がおありですか?ということなんです。

六神通のような超能力を持つ高潔な人格者ではない以上、私達にできることは、悪い因縁のあらわれを防ぐことの可能性を信じて、できる限りの世界平和の祈りをするしかないのですよ。

だから、世界平和の祈りをお願いしているのです。

(*3)「覚悟と挺身」とは言うものの、私達には五井先生のように、神様に自分の生命を投げ出す、身体を「さあ、神様のお好きなようにお使い下さい」と捧げること(=つまり、肉体人間として生きるも死ぬも、すべては神様のみ心のままに、と良いことが起きようと、悪いことが起きようと、あらゆることを神様のみ心に任せきる=全託するということ)などできはしない。

だから、実際のところは、
「自分はこうして悪い予言をすることで、世の中を悪くする「悪事に荷担する」という、明確な自覚を持つこと」

「できる限りの世界平和の祈りをしていくこと」
しかないのが実情でしょうね。(*3ー1)

仮に予言が当たらなくても、予言者自身と、これに影響を受けて想いを不安や恐れのように、悪く乱されたことによる、想いの世界である幽界に、いずれは何らかの形で消えていかなければならない有害な想いが残ることになります。

だから、これは予言の言い出しっぺ(万が一、予言をいわされているならその命令者も)この幽界に溜めてしまった有害な想いを浄めなければなりません。

ということは、悪い予言の発信者(と命令者がいれば命令者も)、いずれはその悪い予言をしたことの償いをしなければならないことになります。

過去世の因縁の可能性もない訳ではないですが、こうした悪い予言に振り回された人々は、いわば、被害者にあたるので、こうした人々のためにも、とにかく、悪い想いを抱かされたことによる被害をなくすためにも、世界平和の祈りをして頂きたいのです。

~~~~~

(*3ー1)「悪事に荷担する」とキツイ言い方をしたのは、この世に具現化するにせよ、具現化しないにせよ、私達の想いの世界である幽界に、不安や恐れなどといった、真善美と愛に悖る、神様のみ心には適わない、この世で不幸や災難などを具現化するための悪い種を蒔いたことには、何ら変わりがないからです。

想いの世界に、神様のみ心には適わない、真善美と愛に悖る、悪い種を蒔いた事実には、いささかの変わりもない。

不安や恐怖などの想いは、神様の真善美と愛に悖るものである以上は、間違いなく善とは言えないからです。

従って、時間はかかることがあるにせよ、最終的には神様の世界に存在すべきではないものとして、生じてしまった神様のみ心に適わない、消え去らなければならないものであり、一般的に、唯物論的に言えば、「悪」ということになるのです。

神様のみ心に適わない、悪の種を蒔くことが、良いことと言えますか?

言えませんよね。

というように理屈の上で考えてくると、悪い予言をすることは、結果的に悪いことをしている、すなわち、「悪事に荷担する」と言わざるを得なくなるんですよ。

どうしても、世の中の人々に警告を発信したいという純粋で切実な動機があったとしても、想いの世界に悪い種を蒔くことには、いささかの変わりもない。

従って、この場合でさえも、悪い種を蒔き、自らもその責めを受けなければならないことには、何ら変わりがないのですよ。

その責めを受けること、これが「覚悟と挺身」に他ならない訳です。

この場合には「自らの身に悪い因縁を引き受けてでも、少しでも人々を救いたい」という「純粋で切実な動機」になる訳です。

加えて、世界平和の祈りは、世の中に起きうる可能性がある悪いことを、具現化の前に少しでも事前に浄めて救うための祈りだから、世の中に尽くすという意味合いで「挺身」と言えますね。

以上のように考えてくれば、こわいもの見たさの軽々しい予言や、出所の証明ができない、未来やら異星やらと、どこの者ともつかない人間(生物?)のしている予言を安易に受け入れるべきではない、相手にすべきではない、という結論になるんですよ。(*3ー1ー1)

端的に言ってしまえば、本当に信頼の置ける予言をするのは、悟りを開いて、六神通のような超能力を獲得した、高潔な人格者しかいない。

しかも、それだけではなく、お釈迦さん在世当時の古とは違い、現代では不死身で、周囲に身の安全を脅かされる関係者が一人もいないことが必須となる。

こんな境涯と条件を備える人は、つまり、信用に足りる人は、残念ながら現代にはいない(なぜかの理由は書かない。ご賢察願いたい。天涯孤独で、悪の心を無くした、小柄な元祖魔人ブウのたとえを何度も用いてきたのはこうした理由による)。

しかも、仮に良い予言でも、その後の私達の心の持ちよう、すなわち、想いの運び方によっては、どうなるかはわからない可能性もある。

だから、この世が少しでも良くなるための想いを発するように、世界平和の祈りなどの祈りに努めて、予言、特に防ぎようのない災難を想像させて、私達の不安と恐怖を著しく煽る予言にはこだわらないようにして頂きたいのである。

~~~~~

(*3ー1ー1)これも何回も書いてきたが、こうした人ならば、そもそも、人々を不安や恐怖に陥れる予言は、よほどのことがない限りは、しないはずだ。

五井先生の話にあったが、五井先生は初めのうちは、いろいろとわかること(たとえば、個人的な未来について)を言ったことがあるらしい。

しかし、これは良くないと思い直して、後にはそれを一切しなくなったようだ(五井先生は、「これ(未来がわかる話をする段階)を卒業した」となっていた)。

207_気にしいを和らげる

今は、かつてのテレビや新聞や雑誌や書籍などの、マスコミのきわめて限られたフィルターのせいで、なかなか表に漏れ出てこなかった様々な事実が、いろいろなネット媒体の出現でかなりの程度表面化し、特にここ最近( 20 年くらい?)は、情報の選択肢が格段に増えた(完全とはいかず、信憑性の程度に問題がある場合があることは別にしても)。

ただ、あまりにも、情報が増えすぎて、混乱する側面があるけどね。

例えば、人物評。

一般的には、素晴らしいとされる人の評価を目にしたり、話に聞いたりする。

仮に、その人物のファンだったりすると、こうした好評価は好ましく思うことが多い。

それというのも、ファンとなっているということは、その人物は、自らそうありたいと夢想(?)した、いわば自らを重ね合わせた憧れや、性別を問わず親しみを感じる親愛の対象でもあり、言ってみれば、自我の延長であり、自分自身の一部でもあるからだ。

だから、そうした好ましい人物に対する好評価は、快く感じることが多い。

逆に、こうしたファンとなっている人物に対する悪口を目にしたり、その人物を悪し様に罵るような人に対しては、ムカッとすることが多い。

上記に述べたように、ファンとなっていることは、いわば、その人物が自我延長の一部となっていることであり、それを貶(けな)されるということは、自分を貶されているような気持ちになるからだ。

といった感じで。

世の中には、ありとあらゆる人から、完璧な好評価を得ることはない。

絶対といっていいほどに。

毀誉褒貶ではないが、必ず、自分なら自分を悪く言う人間がいるものだ。

これを個人的な視点からみると、どうも他人からあまねく好評価を得たいような人が、往々にしているようなんだな。

悪口を言われると、不快感を覚え、最悪の場合には反発して怒り狂う(?)か、逆に、落ち込むか、のようになりがちだから。

でもね。

悟りを開けない人は、どんなにいい人でも、八方美人でも、何かしら悪口はついて回るものなんだ。

悟りを開いたお釈迦さんでさえ、そうなんだから。

嫉妬をはじめとして、何かしら、悪口を言われることは避けられない。

それが、何かしら果たすべき過去世の悪い因縁を持って、この世に生み出されてきた私達の宿命。 

それが、無数の網の目で張り巡らされ、この世で交錯するのだから、他人から悪く思われることなんかあって当たり前。

そう考えられるね。

つまり、この世に生まれ出でるほとんどすべての人は、悟りを開いた覚者ではない(例外は過去世の記憶を持ったまま夭逝して解脱する人)のだから、こうした人々で世の中が構成されている以上、正当なものか否かにかかわらず、他人からの批判や悪口を受けることは避けられない、ということ。

何が言いたかったのかというと。

他人に悪口を言われることを気にしすぎる人や、悪口を言われることに沈み込みやすい人に、強くなってほしいんですよ。

自分が、自らの神意識に問う、すなわち、真善美と愛に悖らず、神様のみ心に適ったことだと思われることに対しては、他人から何を言われようとも、バカにされようとも、一切、気にしないようにして頂きたいんですよね。

もちろん、自分の深層の神意識に、厳しく問いただしてみて、これは間違いない、絶対良いことだ、と感じるくらいの吟味は必要になるけれど(もちろん、瞬時でも)。

自分の身に無理がないように人のために尽くす、あるいは普通に何気なく生きる。

そうした時に、悪口を言うような人は、相手にしない。

気にしない、気に病まない。

クヨクヨしない。

こうしたものは、全部、過去世の因縁のこの世で時間をかけて解消されてゆくものが形となってあらわれ、なおかつ、消されてゆく姿だとして、一切、気にしないようにして頂きたいんですよね。

もちろん、併せて、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして頂ければベストだけど。

自らの悪口を言われても、尊敬する人物や憧れの人物の悪口を言われても、蛙の面に小便、あるいは、柳に風で受け流すようにして。

とにかく、自分に不穏な気持ちを抱かせないように、自分を痛めないようにして頂きたいんですよね。

そうして、自分と自分の神性との対話だけをして、あとは一切気にしない。

みんな消えてゆく姿。

そのようにして、強くなってもらいたいんですよね。

今回は、クソとバカと小便いう言葉を使ってしまった。

失礼致しました。

~~~~~

(追記1)
まあ、これは唯物論の思考にとらわれている人には、上記に書いたことよりもさらにわけのわからない、チンプンカンプンな話になると思うけど。

(あくまでも自分や尊敬するあるいはファンになっている人に非がないことが大前提ではあるが)いわれのない悪口をいわれようと、感謝で乗りきればいいんです。

とにかく、何でもかんでも、
「(過去世の記憶がないから、今生の今現在の顕在意識ではまったくわからないし、納得することもできないけれど)自分の過去世の悪い因縁が、こうして解消されていくんだ」(*)
と解釈することにする。

悪口を言われるたびに、
「ああ、また一つ自分の過去世の悪い因縁が消えた、ああ、また一つ消えた、それだけ自分の霊魂魄の汚れを祓(はら)い浄めて、霊性を磨いて頂いたんだ、よかった、よかった、ああ、ありがたいな、守護霊様、守護神様、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように
としていく。

私達(の大半の人に)は過去世の因縁がわからないのだから、とりあえず、みんな自らの過去世の悪い因縁が解消されていくものと「みなす」ことにして、何でもかんでも感謝をして、さらに世界平和の祈りをするんです。

そうして、感謝一念、祈り一念の対処の仕方に切り替える。

つまり、感謝という神様の光を出す訳です。

加えて、さらに世界平和の祈りをすれば、言うことなし、になるんです。

まあ、仮に自分側に何の落ち度もなく、いわれもない悪口を言われたとすれば、来世以降に、相手側に、間違った悪口を言ったことの償いをしてもらうという、いわば貸しを作ったことになるんですよ。

でも、こうした貸しを返してもらうという欲得で計算するよりも、とにかく、いわれもない悪口であろうが、そうでなかろうが、何でもかんでも、一切合切、自らの過去世の悪い因縁が消されていくんだ、とみなす方が、いちいち、悪口に振り回されることもないし、楽です。

だから、あらゆる悪口は、すべて過去世の悪い因縁が、守護霊様と守護神様によって消されていくんだ、ありがとうございます、の一辺倒でやっていく方が、想いを一切乱されることがなく、楽なことになるんですよ。

来世以降に貸しを返してもらうかどうか、という損得勘定なんて、どうでもいいことにするんです。

という訳で、すべての悪口には、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行で、機械的に対処するのが一番楽でいいし、世界平和の祈りで善因も積むから、因縁因果にも好影響しか残らないことになるんです。

これを習慣化してしまえば、悪口を気にする負担が、少しずつではありますが、減っていくものですよ。

~~~~~

(*)「過去世の記憶がないから、今生の今現在の顕在意識ではまったくわからないし、納得することもできない」

というのは、実は、

「あくまでも自分に非がないことが大前提ではあるが」

さえも突き抜けるということ。

つまり、今生の今現在、自分には何も非がない、いわれもない悪口を言われることは理に適わない、と思えていても、

これは、今生の今現在の顕在意識でのことであり、過去世では自分が悪口を言った人を、逆に悪く言っていたという可能性がかなり高い訳です。

もちろん、過去世で、自分が悪く言っていた可能性がないこともない訳ではないのですが。

しかし、自らの落ち度=過去世で自分が悪く言っていたこと、の可能性がある、その可能性が高い以上は、それがあったものと一律にみなす方が、自分の過去世の悪い因縁があったかどうかと気をもむことも一切なくなるし、ずっと楽ですよ、

しかも、人として感謝という神様の光を出し、さらに、世界平和の祈りで善因を積むことにもなるから、今生と来世以降を見据えた場合には、最終的にはお得だし、神様のみ心にも適いますよ、

ということなんですよ。

ちょっと複雑で、わかりにくい話かもしれませんが、今生で起きていることだけでは決してわからないことが、すなわち、今生で今起きていること、また、起きてくること(=結果=因果)の背景には、実は、決して一般的な私達にはわからない、目には見えない、過去世の因縁という原因があったんだ、その可能性が高いケースがかなりあるんだ、という話なんです。

だから、悪口などの想いを乱される可能性のあるもの、しかも、避けることで、一時的には逃れることができても、過去世の因縁により、いずれはまた必ずあらわれてくるものならば、この際だから、万能ブルドーザー(?)の感謝という神様の光と世界平和の祈りという功徳を伴うお祈りで、お掃除をしてしまいましょう、ということです。

1 回で掃除しきれなかったら、 2 回、 2 回で掃除しきれなかったら、 3 回、というように繰り返す癖をつけて、なれっこになりましょう、ということです。

そのうちに、多少は気持ちが変わってきますから。

~~~~~

(追記2)
今回書いたことは、今生の私達の臆病などをはじめとする性質は、過去世の影響を受けているから、これを世界平和の祈りの功徳を伴う神様の光で浄めることで、徐々に、徐々に、過去世を原因とする想いのクセをなくすようにして、今のあまり好ましくない性質を少しずつ矯正していきましょう、という話です。

私達の本来の性質は、過去世の影響がなければ、真善美と愛に悖らない、勇気のある人間となるはずです。

しかし、たくさんの過去世で、様々な体験を積むことにより、それぞれに固有の想いのクセが出来上がったり、トラウマを残すような強烈な体験をしたりすると、これが今生の想いのクセのように反映されて、今生の様々な性質が形成されてくる。

これが陽気な性質のように、本来の真善美と愛と勇気と親和性が高く、近いものなら、何の問題もないことになるけれど、臆病などの本来の真善美と愛と勇気から外れた、本来の人間としては好ましくない性質を持って生まれてくると、この世が生き難くなってくるという訳。

つまり、臆病などの本来の人間に好ましくない性質は、過去世を原因として作られたものであるということ。

だから、今生で臆病を直そう、あるいは、短気を直そう、と試みても、そう簡単に直すことができなくなっている。

そこで、本来の人間にはないはずの、好ましくない性質である、臆病や短気の原因となっている過去世の想いのクセや生き方やトラウマの残る強烈な体験が元でつくられている過去世の因縁を、世界平和の祈りのお浄めで、徐々に、徐々に溶かすようにして、直すようにしていきましょう、ということです。

臆病や、短気、その他諸々の好ましくない性質を、心がけで直そうとしても、修養で直そうとしても、中々直せないのが普通だから、その根本の原因となっている、過去世の因縁を浄めることで直すようにしつつ、今生の性質の改善を目指していきましょう、という話です。

206_地道な運命好転の方法3(蛇足)

以下は、直接的な「地道な運命好転の方法」の利点に関する話ではない。

その点をあらかじめご承知置き頂きたい。

今回は、いわば蛇足なので、人生の処方箋としての「地道な運命好転の方法」だけにしか興味のない方は、ここでこのページを閉じて下さい。

お時間の無駄になると、申し訳ありませんので。

以前、 ( おぶなより ) の、 ( 065_お断り - おぶなより ) で世界平和の祈りを皆さんにおすすめするに当たって、個人的に感じている、五井先生にかかわる個人的に気になる矛盾点などを書いたように、ここに書いた「地道な運命好転の方法」についても、無条件に手放しで、このやり方を絶賛するだけでは済まない、と思っているからだ。

もちろん、私の知識や理解力が至らないために、様々な誤解などがあるとは思うが、とにかく、私として感じていること、考えていることを、隠したままでいるのは嫌なのだ。

やはり、神様という存在を、真善美に悖らない、愛深き存在と理解する以上、個人的に疑問を抱く点や理解が及ばないことを、書かずにいることはできない。

とりあえず、感じていることを、隠したり、書かずにいることは、欺瞞になってしまうからだ。

ただ、「世界平和の祈り」は、神様を真善美に悖らない愛深き存在と理解する、そして、私達、肉体人間の本質が神様の分けられたお命と理解する限り、間違いなく理に適っていて、素晴らしい祈りだとは思うけどね。

以前、五井先生のどの本だかは忘れてしまったが、人間(肉体人間ではなく、神様の分けられたお命としての人間、つまり、霊魂魄)の命は、たくさんの輪廻転生を通して永遠だから(従って、輪廻転生の上がりまでの期間も肉体人間の寿命に比べれば、比較にならないほど長い)、(過去世の悪い因縁を果たすには)こうした長い目で見れば、肉体人間の輪廻転生における一つの人生は、ほんの短いものにか過ぎないので、極端に言えば、例え話なのかもしれないが、一生苦しんだっていい、というような話があった。

だから、運命の好転を願って、ひたすらに「地道な運命好転の方法」を試しても、一生苦しむほどの深い業、つまり、過去世の今生で果たすべき、かなり悪い因縁がある(残念ながら、私にはこのようなケースがあるかどうかは、わからない。五井先生に直接おうかがいしなければ、わからない)場合には、「地道な運命好転の方法」は、(肉体人間観に縛られ、唯物思考を抱く私達には)徒労に(感じられることに)なりはしないか、という問題だ。

もちろん、「地道な運命好転の方法」は、たくさんの輪廻転生を通して、過去世の悪い因縁を解消していきながら、良い因縁を新たに積んでいくことには違いはないので、私達、個人個人が、あらかじめ神様から授かった、たくさんの輪廻転生を通した天命を果たしていく上では、明らかにプラスであることには違いないから、「絶対的な良策」とは言えるのだが。

というのも、私達ほとんどすべての人は、悟りを開けない、すなわち、人間は神様の子供である、その本質は、神様そのものである、とはわからないから、上記のような輪廻転生の上がりまでの長い何回もの肉体人間としての人生があるとは、真からは感得できない人がほとんどだと思われるのである。

つまり、悟りを開けないと、(顕在意識の)心の本音の部分では、
人間は、五感に感じることができる、この肉体人間だけが人間なんだ、
だから、人間は霊魂魄=霊なる人間=真実の人間だ、とは思わず、
人間とは今生だけだ、肉体が死んだらそれでおしまいなんだ=人生は 1 回コッキリだ(=肉体人間には、過去世もなく、来世以降もなく、今生しかないんだ、生まれ変わりなんかないんだ、輪廻転生なんか作り事のデタラメだ)、
としか感じられない人が、唯物論者をはじめとして、いまだ圧倒的大多数を占めていると思われるからである。

神様や輪廻転生や霊魂を感得できなくても、話を聞いたりして、頭の中だけで何となく信じている状態では、悟りを開いたような人とは違い、「地道な運命好転の方法」を信じるには、一抹の不安が残ってしまうのである。

五井先生は、
「必ず、もう、これね、 3 年なり、 5 年なり、 10 年なり続けたら、必ず変わらないことありません。
絶対に変わるんです」
とおっしゃっているし、そうした信者さんの実例も、たくさんあったからだとは思うのだが。

上記の一生云々の話が「例え話」か、「そうしたケースが実際にあり得るのか」を、五井先生に直接におうかがいできない以上、わずかではあるが、こうした疑問が残る。

もちろん、「地道な運命好転の方法」が上記に述べたように「絶対的な良策」であることには違いないのだが、今生中に、それも、年単位で時間がかかるにしても、なるべく短い期間で済まないと、悟りを開けず、肉体人間観に縛られた私達は、挫折してしまう可能性があるように思うのだ。

(過去世の因縁も踏まえた)相当な世界平和の祈りに対する信心が抱けないと、挫折してしまう可能性が考えられるのである。

その意味でも、すでに世界平和の祈りをされている方々には、こうした迷いを抱く可能性がある人のためにも、より一層の世界平和の祈りをお願いしたいのだ。

いまだ、世界平和の祈りに託すことに、迷いを感じるような人々のためにも。

閑話休題

ユーチューブの五井先生の質疑応答を聞いていると、指導者というのは、大変だなあ、とつくづく思う。

失礼ながら、質問者さんの中には、やたらと話が長く、何を言っているのかわからず、明らかに要領を得ないような質問を、モタモタとしている人がいたからだ。

私は、単細胞で短気なので、正直、聞いていてイライラさせられることがたびたびあった。

せっかく、五井先生が限られた貴重なお時間を割いて「さあ、質問があったらして下さい」と質問の内容を自由に選ばせて頂いているのですよ。

その場で、突発的や場当たり的に考えた質問ではないにしろ、もう少し質問内容を要約して、他の聴衆(信者さん?)もたくさんいるようだし、誰にでもわかりやすく、間違いのない、簡潔に内容を絞った質問をするべきなのです。

つまり、もっと事前に質問を、考えに考え、煮詰めた上でするべきだし、上がり性の人なら、質問内容を忘れてもすぐに対処できるように、あらかじめ質問内容をまとめた文書なりを持参してから質問をするべきなのですよ。

それなのに・・・と思わされた質問者の方がいました。

聞いていて、何ともモヤモヤして仕方がなかった。

それでも、五井先生は、決して質問者の発言を遮ることはせず、質問内容の全容がわかるまで(そして、おそらく会場?の方々にわかるまで、質問者本人の気が済むまで)は、ひたすら黙って質問する人の話を聞いていた。

やはり、信者さん、もとい、人間を傷つけまい、痛めまいとする、五井先生の優しさがあらわれているように感じた。

~~~~~

(追記)
お読みになられた方の中には、よりによって、こんな押し詰まった時代に、(数年以上も時間がかかるなどと)何を今さらのんきなことを・・・と思われる方もいるかもしれない。

まあ、それでも、肉体人間観を度外視すれば、輪廻転生を通した私達の命は永遠だし、善因を積み重ね、悪因をできる限り減らすようにしていくことは有意義なので、あえて取り上げさせて頂いた。

それに。

世界平和の祈りによって、個人の想いを浄める、ひいては、人々の集合意識としての想いの世界の幽界を浄めることは、この世に生じてくる可能性のある不幸や災難を少しでも軽減することにつながるから、やらないよりはやった方が絶対にいい。

また、神様の命という、永遠の生命を通した中での、輪廻転生における各人生を活かすという視点に立てば、世界平和の祈りを伴う、「地道な運命好転の方法」を始めるのに決して遅すぎることはないからだ。

私は以前から ( おぶなより ) で世界平和の祈りをお願いしてきたが、世界平和の祈りそれ自体に、元々「地道な運命好転の方法」が含まれることになるので、 世界平和の祈りを、わざわざ運命好転の方法と名づけることはしなかった。

なぜなら、神様の世界をこの地球上にあらわすことが、神様のみ心であるとするならば、世界平和の祈りの信仰により、各人の人格を向上させ、神様の本質をこの肉体人間上にあらわしていくための努力を重ねていくことそれ自体が、自ずと世界平和のためになり、各人の運命の好転につながると考えられるからだ。

ただ、つい最近ネットで、悩み事、中でも、容姿で悩むケースについての関係した話をいくつか見かけ、同時期に、ユーチューブでもこれに対する五井先生の具体的な対処方法のお話を聞いたという交錯が、偶然にも重なった(些細なことではあるが、これも偶然ではなく、過去世の因縁だったと思われる)。

しかも、この「地道な運命好転の方法」は、世界平和の祈りの信仰の仕方それ自体も、より具体的にわかりやすく説明してあると思ったので、ご参考になればと思い、書かせて頂いた次第です。

なお、・・・。

これは念のための補足だけど。

いくら、世界平和の祈り一念の信仰をしながら生きていくといっても、容姿や身長や顔形が整形手術のように劇的に変わることではないよ。

五井先生の言われているように、(そうした生まれつきの生得的な身体的な特徴や成長とともにあらわれてくる身体的な特徴の基本は、やはり、過去世の因縁で、あらかじめある程度定まって変えることはできないから、そうした基本はそのままに)その人の人間として醸し出す雰囲気も含めて、相手に与える印象などが知らない間に少しずつ少しずつ良い方向に変わっていくことだと思うよ。

だから、皆さんには、世を拗ね、人を恨み、神様を呪いたくなるほど厳しい状況におかれようとも、何とか世界平和の祈りで気持ちを取り直して、前向きに気持ちを切り替えるように努めながら、地道に、辛抱強く、粘り強い生き方ができるような強い人に、神様を信頼した不退転の気持ちが持てるようなたくましい人になって頂きたいんですよ。

従って、魔法のように外見なら外見が外科的な手術で劇的に変わるという話とは違うものだと思いますよ。

もちろん、すべての元は波動である、想いである、という考え方に立てば、徐々に徐々に外見が変わる可能性はあるのかもしれないが、やはり、急速で劇的な変化はないのと違うかな。

例えば、女性でも、純粋な顔形は普通でも、話してみるとすごく魅力的だな、と感じる人と、逆に、同じ顔形が普通でも、何て嫌な人間なんだと嫌悪感さえ抱かされる人がいますよね。

自然に醸し出す雰囲気も含めて。

そういった形で、違いが出てくると思いますよ。

205_地道な運命好転の方法2(具体的な方法)

前回 ( 204_地道な運命好転の方法(はじめに) - おぶなより2 ) の続き。

私なりに独自の形で、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の話をまとめ直そうしたのだが、何回か繰り返して話を聞いているうちに、思うところがあり、五井先生の話の原形(オリジナル)に近い形で、再現することにした。(*1)

そこで、なるべく手を加えず、できる限りオリジナルに忠実に、再現してみることにする(なお、どうしても音声が聞き取れなかった箇所は ??? とした。おそらく、五井先生が中年頃にされたお話だと思われる。五井先生の話し方は、とてもハキハキとしているのだが、早口である。また、適宜、カッコ書きなど加筆と、ごく一部の省略などの改変をしている)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーー (前略) ーーーーー

まあ、美人だとか美男っていうのもありまさあね。

顔のきたなく生まれる人もあれば、きれいに生まれる人もある、ね。

それも過去世の因縁。(*2)

どういう因縁かって言うと、やさしいいい顔をしているような人は、昔(=過去世で)、柔和な心を出してね、人々に、もう、愛を振りまいて(=愛を施して)、いうような人は、顔が良く生まれる。

(それとは正反対に、過去世で)あんの野郎、コンチクショウ、 ??? ってやっているのは、こういう、年中人を恨んだりなんかしてる想いがあったらば、それは顔にあらわれてくる、ね。

それで、生まれ変わって来ると、顔が悪くなる訳ですよ。

だから、自分の顔にしても、ね、自分の才能にしても、自分の生まれた氏素性(うじすじょう)にしても、ね、すべて、自分が過去世において作ったものなんですよ。

(今生の、今あるありと)あらゆるものは、親のせいでも何でもない。(*3)

自分が過去世において作ったものが、ここ(=今生)にあらわれてくる。

だから、(今生で)自分の環境が良くって、自分の姿が良くって、自分の才能があったら・・・。

ああ、ありがたいな、私は過去世で、うんと働いたんだな、ああ、守護霊さん、守護神さん、ありがとうございます、ますます私は立派になりましょう、とこうやればいいんだし。

もし、(今生に)悪い環境に生まれ、悪い姿に生まれ、才能がなく生まれたとするならば、ああ、私は過去世において本当に怠けて、良いことしなかったんだから、今生は本当に一生懸命やりましょう、どうぞ神様、私の天命がまっとうされますように、世界人類が平和でありますように、とこういうふうにやっていく訳です。

そうすると、過去世の因縁のたまったものが、出てしまいますね。

(世界)平和の祈りの中で、神様の中に入っていきます、どんどん、どんどん。

そうすると、そこで(過去世の因縁が)消されてしまって、新しく神様の方(ほう)から、能力も才能もね、すべて、こう、与えられてくる訳。

(そうする)と、今までは全然才能がなかったように見えたものが、パーッとある時、才能が、ね、思いもかけない才能が発揮されて、で、パーッと素晴らしくなってくる、ね。

そういうふうになってくる。

例えば、目鼻立ちが悪かったとしますね、仮に。

それで、生まれてきた。

ところが、もう、そういう(世界平和の)祈りによって、自分の想いは(過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ、すべてが平和でありますように、みんなが幸せになりますようにって、まあ、そういう柔らかい、やさしい、愛の心で生きていきます。

そうすると、目鼻立ちは整っていないのに、だんだん、だんだん、だんだん、顔が良くなります、ね。

それで、何とも言えない、愛らしい、何とも言えない、ね、こう、清らかな、そういう感じが出てくることあるんですよ。

だから、よくありますよ。

あの、男の人でもって本当に不器量なね、まあ、見られないような顔の青年がいたとする。

それが、だんだん、だんだん、立派に勉強をし、素晴らしく努力をし、人のために尽くし、ね、社会のために尽くして、偉くなってきます。

地位が出てきます。

本当の意味の地位ですね、良いことをしながら地位が上がってきたような人。

そういう人、私(←五井先生)、ずいぶん知ってますけども。

そういう人の顔はねえ、顔形(顔貌 。かおかたち)が悪いのにねえ、何とも言えない良い顔してます。

何とも言えない良い顔してるんですよね、それが。

美男とか何とかっていうんじゃなくとも、あ、立派な顔だな、って顔になってくる、ね。

それは、男性も女性も同じなんですよね。

だから、もし自分に、今不満な、能力に不満があるとか、ね、顔や姿に不満があるとか、地位に不満があるとかいう人があったらば、その不満を(過去世の因縁の)消えてゆく姿として、それは、過去世の因縁で、これが消えてゆく姿なんだ、これをなおすためには、すべての人の平和を願い、すべての人の幸福を願う、そういう想いに切り替えなければ、これはなおらないんだ、そういう覚悟をして、それで、世界平和の祈りを祈り続けるんですね。

みんなが幸せでありますように、どうか、みんなが仲良くいきますように、ね、素晴らしい平和な世界がまいりますように、世界人類が平和でありますように、そういうふうに、どういう想いでもいいから、そういう想いを持って、いつも、いつも、生きている訳。

そうすると、知らない間に、顔形も変わってきます。

それから、地位や何かも変わってきます。

運命がまるで変わってくるんですよね。

だから、自分の運命は、もうすべて自分の責任、過去世の責任。

今の責任にすると、自分がつらくなりますから、過去世の自分の責任であるんだ、ということにしてね、どんどん、どんどん、それは(過去世の因縁の)消えてゆく姿にして、それで、改めて、神様から、大きな知恵、力を頂きなおす、そういうふうに生きていくんですね。(*4)(*5)

そうすると、変わります。

必ず、もう、これね、 3 年なり、 5 年なり、 10 年なり続けたら、必ず変わらないことありません。

絶対に変わるんです。

それで、やがて、立派な人間になっていく。

そうすれば、本当の幸せがその人のところにくる訳ですよね。

ーーーーー (後略) ーーーーー

~~~~~

(*1)「思うところ」というのは、五井先生のお話を繰り返し聞くうちに、たくさんの人を導いた人(=五井先生)の完成された内容を、皆さんになるべくそのままお届けするのが最善だ、と思うようになったから。

平たく言うと、(抜本的に)いじってはいけない、すなわち、下手に手を加えて作り変える必要がないほど、完成されている話だと思ったから。

(*2)過去世の因縁とは、

過去世にある、今生に起きてくること(=結果)の原因となる、
過去世においてしていた肉体人間としての想いと行い、

という意味。

すなわち、

自分(霊魂魄)が、肉体人間としてこの世に生きていた過去世において、抱いていた想いと行いが原因となって、

今生における容姿、才能、境遇などの形が結果となってあらわれてくる、

ということ。

つまり、

原因=過去世の因縁=過去世において肉体人間として為(な)していた想いと行い、

結果=今生の今現在にあらわれている、または、いずれあらわれてくる、(生まれつきを含めての)境遇、容姿、才能、その他もろもろのこと(「その他もろもろのこと」には、この世の幸せに当たる良いことばかりではなくて、病気や、争い事や、貧乏や、様々な苦労などといった、いわゆる、病争貧苦などの不幸や災難などの悪いことも含まれる)、

ということになる。

人(霊魂魄)は、何度も、生まれ変わる、輪廻転生する、とした場合には、過去世は、前世、前々世、前々々世、・・・の総称を意味する。

「過去世の因縁の消えてゆく姿」を直訳すると、

「その人(=霊魂魄)が過去世において肉体人間となり、この世で抱いていた想いと行い、すなわち、過去世の因縁が、今生のこの世において時間をかけて解消されていく姿」となる。

(*3)五井先生は、至極簡単に、あっさりと言われていますが、これ、明確な「親ガチャ」の否定ですね。

今生の今現在、このような自分があるのは、親のせいでも、偶然でも、何でもない。

今生の今現在、自分と自分の置かれている状況の根元的な原因は、他ならぬ自分自身(霊魂魄)が、肉体人間として生きていた過去世の生き方が、原因となって、今生の今に反映されているものに他ならないのだ、と。

過去世の記憶が消されてこの世に生まれてくるから、顕在意識ではわからなくとも、自らの過去世の因縁が(もちろん、親の過去世の因縁も)あって、しかるべくこの世の親と子として、双方生まれ合わせる(=この世で相まみえる)ことになったのだ、と。

(魂の分割と結合というケースはあるにせよ)私個々の魂には、良いことも、悪いことも、輪廻転生を通して公平な報いが来る、公正さが保たれているから、あくまでも法則に則った結果が、過去世の因縁の反映として、今生以降に因果としてもたらされる、ということですね。

ただ・・・。

私のように、なまじ輪廻転生という仕組みを知り、これを信じるようになったばかりに、自分が今現在、理不尽につらさ(私の場合は病気)を味わっている原因となる過去世の因縁が知りたくてもわからなくて、苦しむ人間が出てくることにもなるんだけどね。

まあ、しょうがないな。

神様を善なる存在、と仮定する限り、こうした論理の帰結にならざるを得ないのだから。

(*4)これは、私の勝手な独断と偏見による推測だが。

過去世の因縁があまりにも厳しい場合や、今生にも原因がある場合には、自分を責め苛む悪影響を避けるために、とにかく、一切合切、過去世の因縁ということにする、という意図だと思われる。

(*5)今生で今ある境遇や起きてくることを、どんどん、(過去世の因縁の)消えてゆく姿にして、それで、改めて、神様から、大きな知恵、力を頂きなおすように生きていく仕方は、南無阿弥陀仏祈り一念の信仰の仕方と、本質がまったく同じです。

この私達の肉体を生かす神霊(仏教ならみ仏・阿弥陀如来様のお命)から始まって、何から何まで、み仏・阿弥陀如来様(=神様)から頂いているのだから、(過去世の因縁も踏まえて)今あること、起きてくることすべてに感謝をして、そして、み仏・阿弥陀如来様からのおはからい・思し召し・お救いにすべてを委ねて、改めて、日々、新たに様々なことを頂きなおすという行き方です。

だから、南無阿弥陀仏の唱名(祈り)一念の信仰も、世界平和の祈り一念の信仰も、その本質は、
「神様ありがとうございます」
という感謝を根底に据えた信仰になるんですね。

あと、置かれた立場で精一杯、できる範囲で、神様のみ心に適った行いと努力をすることをお忘れなく。

204_地道な運命好転の方法(はじめに)

唯物論はやっぱり話の底が浅いなあ。

悪いけど。

しかも、容姿や社会的地位などで、他人を見下す姿勢が、文章のそこかしこに垣間見える。

仮にも人間(女性)を廃棄食品に例えるなんて、霊性の面から考えたら、禁忌としか言えない表現もあったからなあ。

そんなことを感じる文章を読んだ。

男性が書いたと思われる「ブスほど高望みになってしまう構造的な理由」という話(ただし、文章の末尾には「こうした(容姿の)女性達の辛さに、男性は理解を示すべきだ」と彼女達をいたわる、暖かく、やさしい言葉も添えられてはいたが・・・。

他にも女性が書いたと思われる「ほんっと世の中顔だよな」という、彼女を見下したであろう男性達に対する恨み節で、そうした彼らを「そのへんの F ラン私大、馬鹿のくせに」などとこき下ろすような話も見かけた。

器量に恵まれなかったり、モテなかったりすることの辛さと切なさと哀しさと悔しさは、おそらく当人でないと真からはその気持ちはわからない。

ごく普通の容姿か、何らかの魅力を身につけて、そこそこに過ごせた人には絶対にわからない、気持ちの辛さ、切なさ、哀しさ、そして、悔しさがあるからだ。

私も中学くらいまでは、非モテだったので、この気持ちは身に沁みてよくわかる。

しかも、人によっては、こうした辛さ、切なさ、哀しさ、そして悔しさが澱のように溜まり、押し潰されそうになった自尊心(自己承認欲求 (?) )からの反転攻勢のように、他人様に対する憎悪や傲慢や攻撃(?)といった形となってあらわれてくることさえある。

おそらく、そうした高望みもそのあらわれの一つなのだろう。

器量があまりよくなく生まれついた人には、こうした傾向がままあらわれることがあるんだろうな。

俺なんかは、極度の小心者で、臆病者だったから、反転攻勢に転じることなく、敗残者として落ち込むだけだったけどね。

( おぶなより ) にも、この ( おぶなより2 ) にも書いたけど、美男美女だからといって、必ずしもいいことばかりじゃないんだよ。

そりゃあ、何かと有利に世間で事を運べる場合はあるかもしれないが、これも当人の立場にならないと、外部の人間からは、決して窺い知れないことがあるものなんだ。

当人でなければ、決してわかることのない、まさかと思われるような固有の事情がね。

ましてや、表面的にはいいことばかりだろうと思われていても、その内実は他人には窺い知れない悩みや苦しみで、心の中でのたうち回っていることさえあるんだよ。

過去世からの因縁因果は、人によって多種多様、千差万別なの。

この世にどのようにあらわれ、どんなケースがあっても決して不思議ではないことになるんだ。

だから、唯物論の表面上の利害得失だけで、すべてのことを計算式よろしく、ああでもない、こうでもない、とあげつらって立ち回っても、本当の心の安寧に結びつくことはないんだ。

心が安寧でないと、いや、安寧とはいかないまでも、身の回りのいろいろなことに感謝をして、愛を施すことをして、家族や他人と心を通わせることがないと、常に不安や不満足という満ち足りない気持ちを抱かざるを得なくなるからだ。

個人的に(恋愛指南の?)ド素人の立場から言わせてもらえば、異性に(というか、老若男女問わずあらゆる人に)対して嫌悪感を抱かせないための、最低限の清潔感さえ保てば、あとはそんなに雰囲気モテのための努力は必要ないと思っている(雰囲気モテのための努力を趣味として嗜むのは、あくまでも個人の自由だけど)。

モテたい(あくまでもお相手は一人を前提とする。一対不特定多数相手のモテは想定していない)ならば、もっと地道なやり方をしてほしいと願っているのよ。(*2)

というのも。

最近、ユーチューブで、五井先生のこうした地道なモテ、器量に恵まれない人のモテに参考になると思われる動画を視たからだ。

もちろん、こうした顔をはじめとする容姿のこと、身長のこと、スタイルなどの体つきのこと、運動能力のこと、機転が利くか利かないかなどの反射的な頭のキレ具合のことなど、私達が劣等感(コンプレックス)を抱く、この身体にまつわる、ありとあらゆることで悩んでいる場合にも参考になる内容である。

ちょっと、まとめるには時間がかかるかもしれないので、その内容は次回に書こうと思う。

ただし、このやり方は、数日とか、数週間とか、数ヶ月以内などの即効性があるものではなく、 3 年、 5 年、あるいはそれ以上と、かなり時間かかかるものなので、バリバリの唯物論者で、目先の欲にとらわれる人には、見向きもされないかもしれない。

しかし、この行き方は、神様のみ心には適ったものであることには違いないので、ここに記しておくことにする。

ご自身のたゆみない努力で、モテやその他の問題を克服された方は、必要とされないかもしれないが、とりあえず、因縁因果に一切の悪影響がない(むしろ、良い影響があるし、積極的におすすめしたい)正攻法ということで、ご参考までに記しておく。

今回の内容は「誠実に、ただひたすらに、(神様に対して)謙虚に取り組む、運命好転の方法」の導入部ということで、いわば「はじめに」として書いた。

なお、おわかりのこととは思うが、これはただ普通に地道な努力をするものではない。(*3)

あくまでも、世界平和の祈りと守護の神霊様(守護霊様と守護神様)への感謝行を必須とするものである。

従って、今生にすでにあらわれてしまっている過去世の因縁を原因とする既定事実を少しでも改善するため、そして、今生から来世以降にかけて生じてくる運命を少しでも改善するための方法を指している。

「少しでも」としたのは、過去世の因縁は、その人、その人によって千差万別であり、従って、この世でのその人、その人の有り様も千差万別となっているので、とりあえず「少しでも」とした。

なので、人によっては、パッと運命が開くことがあるかもしれないし、運命がなかなか開かない場合があるかもしれない。

これは個々人の過去世の因縁により、ケースバイケースで、一概には言えないからだ。

ただ、唯物論的に、巷にありがちな、金さえ儲かりゃいいんだ、自分さえ異性にモテりゃいいんだ、お人好しの人間なんか多少出し抜こうと、自分さえよければ構わないといばかりに、今さえ、金さえ、自分(と近しい身内)さえよけりゃいい、のような悪い因縁を作りがちなやり方とは違い、世の中の人々に世界平和の祈りによって徳を施し(=善因を積み)、自らの悪い因縁のあらわれを可能な限り減らしていくやり方である。

よって、地味な努力なんか無意味だ、有害だ、といわんばかりの目的のためには手段を問わない、金さえ儲かれば、価値創造(?)さえすれば、自分さえモテれば、どんな悪い因縁を作り、自分(と近しい身内)さえよければ、関係者をどんなに傷つけ、悪い因縁を撒き散らしても構わない、といったほんの申し訳程度にしか良心を踏まえることをしない、唯物論一辺倒のやり方とは無縁である。

つまり、輪廻転生を通した長い目で見れば、悪い因縁と因果を生じさせる隙を限りなく少なくさせるやり方な訳だ。

個人的には、これこそが本来の運命好転の方法だと思うのだが、この運命好転の方法に関しては、いまだ唯物論的な即効性のあるハウツーが大半を占めると思われる現状では、こうしたやり方は一般受けするような派手さはなく、地味で堅実な行き方となるだろう。

だから、表題(タイトル)に、「地道な」をつけた。

~~~~~

(*1) ( おぶなより ) でもここの ( おぶなより2 ) でも、真善美と愛に悖る汚い負の言葉、すなわち、バカ、アホ、カス、グズ、ゴミ、などを使わないことをお願いしてきたのに、今回はブスというこれまた人を傷つける不適切な言葉を引用とはいえ使ってしまった。

申し訳ございません。

お詫び致します。

(*2)この世に生を受けるのは僥倖(実は必然)。

この地球上に、どれほどの数えきれないほどのたくさんの人間が生まれようとも。

だから、その中から、本当に信頼し合い、感謝し合うことのできる伴侶(パートナー)と巡り合い、艱難辛苦を共に分かち合えることになるのも僥倖。

大体、自らの神性に真摯にたずねてみれば、一対不特定多数の恋愛が、神様のみ心に適うかどうかは、すぐにわかる。

それをごまかし続け、好き勝手し放題のデタラメを続ける限り、輪廻の連鎖は止まらない。

それをどうとらえ、対処していくのか、自らの神性にたずねてみて、これからどうすべきなのかを決めるのは、あなたご自身。

先人にどういう人達がいたのかはまったく関係ありません。

古の先人達がどんな生き方をしようが、今の他人がどんなに好き勝手やっていようが、関係ありません。

先人達が、他人が、デタラメの限りを尽くし、メチャクチャやっているのだから、自分もこれくらいはいいだろう、という気持ちは、この際なので捨ててしまいましょう。

あくまでも大事なのは、これからのあなたの振る舞い。

あなたが、今これからどのような異性との信頼関係を築き、ありがたさを噛みしめ、ともに人生を感謝しながら送っていけるかどうか、が何よりも大事。

端的にいうと、一対不特定多数の古来から連綿として続けられてきたようなモテ(この最低・最悪の形がヤリチンとヤリマン)は、いい加減、もう卒業してほしいのです。

男にしたって、いつまでたっても、どこまでいっても、ハーレムや大奥みたいなことばかりしていたんじゃ、悪い因縁因果の循環は終わらないし、人類としての進化(=神様のみ心をあらわした肉体人間になること)はおぼつかないからですよ(女性の場合なら、さしずめエカチェリーナ2世か?)。

社会を構成する個人個人もそうだし、転輪聖王の出現なんて、夢のまた夢。

社会のみんなが転輪聖王のように、地位や才能に関係なく、気高くならなければ、どうしようもない。

いつまでも、いつまでも、未来永劫、動物と変わらないことばかりしているんじゃ、しょうがないでしょ。

はっきり言ってしまえば、セックスありきのモテではなく、愛情とセックスが表裏一体となった、あくまでもお相手が一人となるモテを求めるように変えてほしいんですよ。

世界平和の祈りと守護の神霊様(守護霊様と守護神様)への感謝行とともに、今からでも。

万物の霊長として、動物とは一線を画した、神様のみ心をあらわす、神様の子供=人類としての霊性の高さを見せて頂きたいんですよ。

(*3)もちろん、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をする以前に、地道な努力をしても、何ら一向に改善の余地がない場合には、可能な限りそれまでの方法論を見返して、適宜反省・修正・変更しながらであることは、当然。

なお、世の中には、生き馬の目を抜くように、自らのためには、手段を問わず、狡猾に立ち回る人間もいることは確かなので、極端な言い方をすれば、こうした狡猾な人間に騙されないようにできる限りの細心の注意を払うことも必要であり、なおかつ、自分からは決して人を欺き、騙すことはしない、ということも心すべきである。

~~~~~

(追記1)
これ以降にわたって、 3 回に分けて書く内容は、容姿(この場合なら非モテ)などをはじめとして、生得的な要素で悩んでいる人に、派手さはまったくなく、地味で根気が必要になる方法にはなるが、輪廻転生を含めた人としての生き方に必ずプラスになる、神様のみ心に適った方法をご紹介してみたつもり。

たとえば、非モテで悩んでいる人なら、ネットをそれなりに調べれば、おおむね安定した心休まる手法がないことは、もうすでにおわかりのことと思う。

そこで、望みを託すなら、地味で根気が必要にはなるが、真っ正直な生き方、すなわち、信仰をも含めた世界平和の祈り一念のあり方に託してみる方法をご紹介させて頂いた次第です。

もちろん、この手法を試したからといって、必ず人生の伴侶を獲得できるかどうかはわかりません。

これはもう、その人その人の過去世の因縁と、その人その人の守護の神霊様のご判断によるとしか言えません。

やはり、結婚するのも、離婚するのも、添い遂げるのも、独身を貫くことになるのも、その人その人の過去世の因縁によってかなりの部分を左右されてしまうことが避けられないからです。

ただ、どのような運命におかれていようとも、ほんの少しずつでも悪い運命のあらわれを守護の神霊様によって軽減して頂くと同時に、世界平和の祈りによって、この世に善因という徳を積み、(その人その人の過去世の因縁によっては果たさなければならない過去世の悪い因縁があるために紆余曲折を経ることにはなっても)今生から来世以降に向けてほんの少しずつでも、確実に運命を改善していく方法(五井先生の言われている「因縁因果をこえる法」ですね)ではあるので、お試し頂ければ幸いに思います。

五井先生には申し訳ないのですが、ここで好き勝手を言わせてもらえば。

唯物論的な価値観から、自らが楽しむことばかりしか考えないような旧来からあるモテは、羨望するまでもない。

神性(霊性)を落としまくる、自分の利益本位にばかり立ち回り、結果的に物事のありがたみもわからず、感謝の気持ちの欠片も抱けないようなモテなら、しない方がいい。

普通にモテを考える人達は、恋愛できることが当たり前だと思っているようだが、実はこれは当たり前ではない。

容姿の良し悪しに関係なく、皆さんは(時代状況も含めて)恵まれ過ぎていることに、気づいていないのだ。

容姿のいかんにかかわらず、自分から異性に働きかけるそれなりの努力をすれば、何とかなる場合がほとんどであること、を。

健康であること、従って、運動ができる(つまり、動ける)こと、恋愛ができること、を享受していることが、ごく当たり前だと思っている人が、世の中の人の圧倒的大多数を占めているんだろうね。

だから、身近な何気ない小さなことに感謝をすることを忘れ、様々なことに対するありがたみを感じることなく、生活水準やお相手の容姿にもっともっとと要求水準を高くしがちになる。

こうした唯物論的な、エゴにもとづく利害得失計算に明け暮れているくらいなら、いっそのこと、巷にある神性(霊性)を落としまくるような唯物論的な方法でモテを求めるのはやめて、異性に関しては腹をくくって、孤独をも辞さない、気高いあり方に変えてもらいたいんですよ。

~~~~~

(追記2)
ここに引用した「世界平和の祈り」は、日本の宗教家五井昌久さんの提唱された祈りを指している。

生長の家が後付けで出した祈りとは根本的に違う。

一連の祈り言葉は、以下の通り。

~ 世界平和の祈り ~

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます

なお、完は「まっ」と中型の漢字辞典にも出ていないかなり特殊な読み方となっている。

「まっとう」あるいは「全う」をこのような特殊な読みにしている。

読みを全部平仮名で書くと以下の通り。

~ せかいへいわのいのり ~

せかいじんるいがへいわでありますように

にっぽんがへいわでありますように

わたくしたちのてんめいがまっとうされますように

しゅごれいさまありがとうございます

しゅごじんさまありがとうございます

内容的には、地球人類だけではなくて、実質的に宇宙に広がるありとあらゆるものの調和と安寧を願う祈りなので、内容は法華経の一念信解(いちねんしんげ)とほぼ等しいと言えるだろう。

世界平和の祈りは、一念信解のような面倒くさい、細々と分けたしかめしい理屈をこねていない分、はるかにわかりやすく、すっきりとした祈りと言えるだろう。