203_話し手への要望

能弁か。

確かに、こういう人はいるよな。

よくこんなに次から次へと淀みなく(人によっては速射砲のように)話続けることができるな(しかも、滑舌がいい)、という人は確かにいる。

ユーチューブにもこういう人がいるね。

もちろん、編集の繋ぎ目が明らかにわかる動画がほとんどなのだが、それにしても全体の時間が 10 分台から 20 分台に収まる動画には、よくまとまっているものが多い(中には、繋ぎ目の間隔が短すぎて、次の接続部分の頭が切れぎみで、前後の繋がりがやや唐突で、なんだか接頭部分を間引かれたような印象を受けるものがいくつかある。せめて 1 秒でも間を挟めば繋ぎ目がスムーズになるんじゃないのかな)。

彼ら(彼女ら)は、かなり頭の回転が早くて、それなりに優秀な人なのだろう。

しかし、だからといって、話の内容が完璧なのか、というと・・・。

答えは否の場合があるんだな。

いくら、聞く人を圧倒するように、まくし立てるように話す人でも、肝心の内容が伴わず、「画竜点睛を欠く」のようになってしまっていては、本来の意思伝達から外れた本末転倒な結果となってしまうからだ。

まあ、簡単に言えば、一番大事なのは量より質、形式より中身、ということ。

例えば、人格や霊格が高い人の特徴云々を取り上げていたとある精神世界を扱っている話があった。

確かに、言っていることそうだろうし、何とか話をわからせようと、一生懸命に話しているのはわかるのだが、肝心の根っこというか、本質に触れていない。

いわば、本質の周辺をなぞる、近場のハウツーを散発的に説いているような感じに見えてしまうのだ。

人格や霊格の話ならば、五井先生の神様観(人間観?)から考え、応用すればすべてわかる。

すなわち、神様は、真善美に悖らず、愛そのものの存在であり、肉体人間は、その神様の分けられたお命を頂いている、神様の子供に他ならないとすれば、これからすべて演繹的に考えることで、様々なことへの対処の仕方が自ずとわかるようになるからだ。

だから、あたかも勉学や技能習得のハウツーのように、細々とした必須の知識のように、箇条書きのように細目を覚えなくても、本来ならば対処ができるはずなのだ。

私達には元々神性がそなわっていて、その深層には神意識があるのだから。

確かに、人格がまだまだ至らない場合には、こういった本質まで触れないハウツーで詰めていくことで、人格の向上を目指していくのも、一つの行き方となる側面もあるだろう。

だが、やはり、常に、常に、肉体人間の本質に立ち返り、考えられる癖をつけるようなあり方が自然に身につくように、言い換えれば、そうしたハウツーをわざわざ箇条書きのような知識として覚えなくても、日常茶飯事の何気ない行いとして、自然な形として行えるように、人格向上のための努力が必要になると思うのだ。

見識を広め、知識を習得するのも、それなりに意義があると言えるだろう。

ただ、こうした知識を何気ない日頃の想いと行いに、自然な形で反映させるためにも、人格の向上に向けての努力、もっと言えば、霊性の開発が一番適していると思うのである。

そのためにも、世界平和の祈り一念のあり方をご一考願いたいのである。

簡にして要を尽くす、しかも正鵠を射るような話や文章。

こうした内容を伴った話や文章が増えていくためにも、霊性の開発をお願いしたいのだ。

一生懸命努力はしているものの、こうした形には程遠い、冗長なグダグダした文章しか書けない私が、人様のことをとやかく言えた義理ではないのだが、まあ、一つの要望としてここに記させて下さい。

(追記)
批判めいた話になるが、要望ついでにもう一つ。

これはテレビ・ラジオなどのマスコミ媒体を問わず、VTuber(バーチャルユーチューバー)までも含めてのこと。

身体的な事情があり、上手く話すのが難しい方(かた)なら致し方ない場合もあるだろうから、以下、これは例外として除くものとする。

ユーチューブなどで、老若男女を問わず、滑舌が悪く、日本語としての話言葉がピシッと決まらず、フニャフニャ、モゴモゴと話す発信者がいる。

また、言葉の中の一語一語のつながりが、雪崩を打つようにグシャグシャ、グニャグニャで、どうにも聞き苦しく話す人も多い。

ああいうの、何とかなりませんかね?

仮にも、表舞台に立つ、組織や自らの主張を発表する立場にある人ですよ(現代のネット上での、ブログやユーチューブ動画などの一般公開は、ある意味、これに相当する。ブログや動画などへのアクセスがバズろうが、閑散としていようが、絶無だろうが、世間様に向けてこれらを公開することには何ら変わりがないのだから)。

という訳で。

こうした人達に対する要望を簡単に言うと、もう少し、誠意を尽くしてほしいんですよ。

誠意を尽くしてほしいのよ。

私達肉体人間は、神様の分けられたお命を本質としている存在です。

つまり、本質は神様です。

だから、話をする場合には、主体となる話し手として、聞きやすく、間違いのない話し方をするべきだ、それが本来のあり方だと思うんですよ。

つまり、話し手として、神様の子供としての存在に見合った、気高く、誇り高い姿勢を見せてほしいのですよ。

かりそめにも、人様の前で意見を発表して、聞いて頂くのですよ。

端的に言うと、ナアナア、ダラダラではなく、身を引き締めてほしいんですよ。

言葉さえ、紡ぎ出せれば何でもいい、というのではなくて。

そして。

聞き手となる人々も、本質的には同じく神様となる訳ですから、その方々に対する、いわば大切な献上品を差し上げるつもりで、話し手としては、誠意を尽くして、聞きとりやすく、間違いのない、威圧感がない程度にハキハキとした、かといってけたたましくも、やかましくも、騒がしくもない、落ち着いた気品のある話し方をしてほしいのです。

また、人によっては扱う話題が深刻な内容であるにもかかわらず、おちゃらけの態度が過ぎて、「この人は本当に被害者の気持ちがわかっているのか?わかっていたら、とてもではないが、おちゃらけた態度や笑いを絡めるなど、もっての他で自粛すべき内容なのに、何を考えているんだ、この人は?何だかんだ言っても、やっぱり被害を他人事にしかとらえていないんだな、この人は」と感じる人もいる。

何でも笑いに変えればいいもんじゃないんだからね。

場をわきまえなければ、笑いが被害者の傷に塩を塗ることになりかねないからだよ。

ここ最近は、テレビをほとんど見なくなりましたが、容姿がそこそこいい、とある当時( 10 年程前に)中年と思われる女性キャスターで、話し方がお世辞にも上手いとは言えず、滑舌が悪く、フニャフニャモゴモゴと何を話しているのか、まったく聞き取れないことがある人がいました。

語尾が消え入るような感じになることもたびたびで、そんなありさまを、一切の訂正もせず、詫びもしない。

彼女には悪いですが、「こんな話し方しかできない人が、何で番組の看板を担うキャスターなんだよ」と、見ていて本当にイライラして仕方がなかった。

いくら見栄えがそこそこよくて、語学が堪能でも、あれではねえ・・・。

こうした人は、男性には少なかったです。

それでも、皆無という訳ではなくて、男性アナウンサーでも、言葉が飛んでしまったり、明らかに滑舌が悪い人が数人はいましたね。

仮にも、プロ(プロフェッショナル)として厳選されたはずの、番組の看板となっている人達がこれです。

いくら容姿端麗その他の理由があっても、話を提供する側の放送局の誠意を疑ってしまうのですよ。

なぜ、こうした人達を選ぶの?

なぜ、こうした人達を使うの?

なぜ?

特別なカリスマ性や人気が必要となる芸能やお笑いなどの番組ならいざ知らず、仮にも報道系であの人選はないでしょうに。

そう感じた事が何回もあり、我慢ができずにとうとうブチ切れてしまい、テレビを見るのを止めたといった側面もありました。

報道系ですらこれですから、芸能系はもっとひどい。

最近、かなり昔と思われる時代劇がユーチューブにアップされていて、そのいくつかを見ました。おおむね、上手い人が多かったのですが、やはり紅一点的に出演しているような若い女性などの中に、セリフがフニャフニャな人がいた。

情感の表現までは無理だとしても、あまりにもひどいと、せめて一通り、セリフをこなしてよ、と感じてしまう。

だって、仮にも選ばれて、たくさんの人に「見て頂く立場の人」なんですよ。

それに見合った自覚のある姿勢を見せてくれなければ、どうしようもないじゃありませんか。

今取り上げたのは、かなり昔の放映当時で言えば、脇役か添え物的(?)な感じの人の話ですが、テレビを見ていた一昔前(約 10 年前)当時でも、主役を張る人でも、存在感はともかくとしても、どうにもセリフが頂けない人が、年齢を問わず、何人もいました。

この人、これで主役俳優さんなの?

人気があれば、カリスマ性があれば、話題性があれば、視聴率さえ稼げれば、セリフ回しや、芝居の中身なんかどうでもいいの?

・・・。

だから。

努力して、改善すべき点は改めてその時点からでも何としても向上させる。

それがどうしてもできないというのなら、自分から身を引いて、他の適格者に道を譲る。

育てる側も、我慢して使い続けていても、あまりにもひどく、改善の余地がな皆無ならば、それなりに見切りをつけるべきですよ。

そういった態度がまったく感じられない状況を放置し続けているのを見せつけ続けられるのは、本当にたまらない。(*)

また、ユーチューバーや VTuber 、特に、 VTuberに見られるのですが、小中学生でもしないような、簡単な漢字の読み間違いなどが、当たり前のように何回も何回も繰り返されるのを聞いていると、本当に苦痛で仕方がないのですよ。

「だったら見るな」と言われそうですが、見たくなくても否応なしに、「これでもか、これでもか」とタイトルが上がってくることが避けられない対談型アニメ風の解説動画(いわゆる、ゆっくり系の動画)がありますのでね。

自動音声読み上げソフトを使っているのかどうかわかりませんが、少なくともあんな状態では、誠意を尽くしているとは言えませんね。

視聴者をナメているのか、バカにしているのか、とさえ感じますよ。

キツイ言い方をすると、「こんな間違いなんか大したこたあねえよ、いくら放置したって構やあしねえぜ」といういい加減な態度をしている、と読み取れるからですよ。

つまり、スタートラインに立つ以上は、まずはきちんとした誠意を伴った形式を整えてほしいんですよ。

もちろん、諸般の事情から見切り発車にしなければならない場合もあるでしょうから、その場合でも少しずつでも時間をかけて、最低限でもこのスタートラインは整えてほしいんですよ。

勝負は、あくまでもそこから始める心構えのつもりで。

以上は、主として形式的なことではあるし、内容の充実度も大事ではあるでしょうが、やはり、誠意を尽くさないやり方は、改めてもらいたいと思いますね。

「やたらめったら数さえこなせば、間違ったあり方なんか放置したって知ったことかい」という感じで、「みっともない状態を放置し続ける」という、いい加減な俺様主義というのではなくて、訂正すべき部分があれば、そのまま放置せずに必ず訂正を施して、これからの態度も誠意を尽くしたものに改める、ということです。

ごく簡単で初歩的な間違いを、いつまでも、いつまでも、いつまでも放置し続けるということは、学生以上の人間には不快感を抱かせ、幼児には間違った言葉遣いを覚えさせる、あるいは読みを混乱させることをしているんですよ?

いいんですか、そんな有り様で?

最初に、形式よりも中身が大事だと書きましたが、その形式さえも、やはり誠意を尽くせるところがあれば、それなりにきちんと誠意を尽くしておくべきだ、ということです。

それが、上記のように、私達肉体人間の本来のあるべき姿に他ならないからです。

あと、これはどうでもいいことなのかもしれませんが・・・。

上記は、話し手に対して、何の疑いも持たずに、素直にその有り様を受け取って、書いてみた訳です。

しかし、もしも万が一、そうではなくて、故意に間違いを紛れ込むようにしている可能性もゼロとは言えないかもしれない。

例えば、仕事が物凄くできる人が、上司の憎しみやそれにもとづく人事の被害を受けないために、完璧な仕事を仕上げた中に、あえてどうでもいい、重大ではない些細なミスを紛れ込ませ、故意に抜けたような姿を上司に見せることで、警戒心を抱かせないようにさせて、安心させる、といったやり方です。

発信者になぞらえて言えば、こんなひどい、きわめて程度の低い、子供でも滅多にしないようなミスを連発するような発信者だから、目をつけられることにはならないだろう、と演出をする可能性がある訳です。

私なんかは、天然抜け(=ミスをしたくなくてもミスをしてしまう)のタイプですが、こうした故意に謀ったミスは、計算した上での策略ミスになりますね。

つまり、敵対者(???)を安心させるための演出をしている訳です。

まあ、その可能性は、ほとんどないとは思いますけれど・・・。

あと一つあげておくと。

人(ひと)を「ひと」と読むべき文脈で「にん」と読んだりと、本当にどうしようもなく酷い読み間違いの連発いくつもいくつもいくつもされると、本当に不快だし、イライラしてくる。

ということは・・・。

つまり、動画を視聴する人の普通の良心(その大元は真善美と愛に悖らない神意識)を、あえて傷つけ、想いを掻き乱すことで、視聴者を不愉快にさせる。

つまり、神様のみ心には適わない、真善美と愛に悖る悪い感情を視聴者に惹起させることで、ひいては人々の間に不穏な想いの土壌を形成させる狙いですかね。

あまりにも酷い現状から逆算すると、このような可能性が考えられますね。

つまり、この世を故意に悪い方向に持っていこう、悪くしようとして行われる一つの手法。

って言われても仕方のない話。

ただ、こんなことをしても、企てた当人には、それ相応の重い報いが来ることになるのにね。

(追記)
またか、と思われるかもしれませんが・・・。
バカ、
アホ、
クソ、
グズ、
ゴミ、
などを使うことも、厳しく言えば、ご法度ですよ(私はこうした言葉を「バッキャロー」をはじめ、すでに何回か使ってしまったので、これは私よりも遥かに人格の高い、ブログや動画をネットに上げる、たくさんの普通の人達に向けて言っている)。

ましてや、精神世界(スピリチュアル)の話をする場合ならなおさらのこと。

仮にも精神世界(スピリチュアル)関連の内容を発信する人が、神様のみ心に適う見本を示さないで、バカ、アホ、クソ、グズ、ゴミなどの汚れた言葉を使ってどうするんです?

肉体人間や人類のことを、バカだの、アホだの、クソだの、グズだの、ゴミと言うってことは、その本質となる神様をバカだの、アホだの、クソだの、グズだの、ゴミと言っていることに他ならないのですよ。

どんなにもっともらしいご高説を垂れていても、肝心要の神様を棄損しているんです。

バカだの、アホだの、クソだの、グズだの、ゴミといった汚い言葉を遣うことで、
自分という主体として神様の本質を汚し(=神様がこうした汚い言葉を発することになる)、
人様という客体の神様の本質を汚している(=人様という相手方=神様を汚い言葉で貶めていることになる)
からですよ。

これに気づかないということは、肉体人間の本質が何かがわかっていない、肉体人間の本質が神様の分けられたお命という光明体、光であるということが理解できていない、とわざわざのたまっていることになるんですよ?

いいんですかね、そんな状態で?

悟りを開けていない肉体人間は、罪悪深重の凡夫。

しかし、あくまでもその本質は、神様という光(霊光)につながっているんじゃないの?

いくら、光、光ったって、肉体人間が本当にバカ、アホ、クソ、グズ、ゴミだったら(=その本質が神様ではなかったら)、そもそも光なんか出やしませんよ。

そもそも、クソ、グズ、ゴミでさえも、元をたどって考えれば、いずれ消え去るにしても、何らかのそれなりの意味合いを持ってこの世にあらわれた神様の化身と考えることができる訳で・・・。

これがわからないで、宇宙や、ワンネス云々を説いてもねえ・・・。

・・・。

まあ、俺も人様のことをとやかく言えた義理ではないが、できる限り自分で心がけるのは・・・。

どんなに、つまらないと言われようが、刺激がないと言われようが、世界平和の祈りとともに、あくまでも、気持ちを平らに、平穏な世界に近づけていく。

ただ、それだけだな。

~~~~~

(*)仮に、番組制作に必要な要件を著しく満たさない人しかいない場合ならば、つまり、メンツが揃わなければ、そもそも番組を無理して作らないという選択肢はないんですかね? スポンサー事情が厳しい昨今では、ますます番組に空きを作りたくないのかな。 24 時間近く、のべつまくなしに放送をするのではなくて、番組の間に隙間を作り、どうしても空きを埋めたければ、再放送を流すなり何なりして。 番組を作れないか、これに匹敵する状態なら、無理矢理番組を作るのもどうなんですかねえ。 ネットのブログや動画なら、制作される映像などのモノの完成度や品質がテレビ番組には及ばなくても、モノを作れない場合には、必然的に空きができる訳だし、視聴者側としても、見たい時間も、見たい箇所も自在に選べるから、自由度が高く、時間にも縛られず、録画の手間がない分、テレビとは違い明らかに便利ですよ。 そう考えると、テレビは番組表の計画を含めて、いやが上にも変革期を迎えているのかもしれませんね。

202_仏教異説(八正道・説話・縁起)

( おぶなより ) の ( 723_ひしみー144 - おぶなより ) や ( 724_ひしみー145 - おぶなより ) などで言いたかったことを、より砕けた形でまとめておく。

お釈迦さんが、今から約 2500 年前の昔に、古代インドに新たに興した当時としては新興宗教となる仏教の教えの伝道におもむくまでの過程と、その当時の古代インドの宗教観というか、神様観についての話だ。

あまり、この話ばかりにこだわっていると先に進めなくなってしまうので、より砕けた内容を、この ( おぶなより2 ) に記す(あまり代わり映えしないかもしれないが)。

仏教の通説と思われる内容に対する否定的な解釈のようになってしまうので、心苦しい(だから、しばらくの間、 ( おぶなより ) を更新しなかった。それまで何やかんやと回り道をしながら、これをハッキリと書くことを躊躇していた状態だったから)のだが、気づいた以上は、単なるズブの素人の思いつきであっても、とりあえずは記しておこうと思ったのでね(実は、次項に含まれる中道についてもいろいろと文句がある( ( 569_仏言葉ー100 の補足 - おぶなより )に既述)ので、適当に素通りさせようか、どうしようか、迷っている)。

私が感じたのは、お釈迦さん在世当時のインドの常識、すなわち、悟りを開いた人の身の処し方、つまり、当時の神様観や宗教観に疑対する疑問である。

当時でも悟りを開くには大変な修行が必要で、並大抵のことでは悟りを開くことはできなかったようだ。

現にお釈迦さんのような、過去世で大変な修行を積んできたはずの、当時の新興宗教、すなわち、仏教という教えの開祖となった人でさえも、約 6 年もの歳月を要している。

しかし、いくら悟りを開くのが大変だとしても、悟りを開いたら、即、涅槃に入る、入滅する、というこの身の処し方というのは、肉体人間の本質的なあり方として、ましてや悟りを開いた肉体人間のあり方としては、はなはだ疑問が残るのだ。(*)

悟りを開くとは、簡単に言えば、この世の迷いから解き放たれて、ありとあらゆる物事の真理を悟ること、きわめることだ。

ならば、当然に私達肉体人間とは何か、世界とは何か、いや、そもそも、私達肉体人間を生かしている大自然などの恵みを提供してくれている地球(今まで一般的な科学常識とされてきたものが、必ずしも正しいとは限らない。地球だけでもわからないことがたくさんある。ましてや、地球の衛星の月、そして、他の太陽系の惑星をはじめとした宇宙について一般的に公表されている内容は疑問があり、私達には本当のことを知らされているとは思えない)とは何か、そして、この地球という惑星を含めた太陽系とは何か、さらにはこの太陽系を含んだ天の川銀河とは何か、果ては天の川銀河をはじめとするこの大宇宙とは何か、という内容になるはずだ(現代風に言うならば)。

一般的な仏教では、創造主としての神様は認めていないように見える(中村元さんの「原始仏典」(ちくま学芸文庫)では 2 通り書かれていて、どちらが本当なのか確定した形で書かれていない)。

それにもかかわらず、お釈迦さんが悟りを開いてから、その教えの伝道にいたる過程で、教えに立つことを渋るお釈迦さんを三顧の礼よろしく説得にあたる、世界を創造した神様として、梵天様を登場させている。

しかも、後々には、お釈迦さんは霊魂について無記として答えず、あたかも、神様や霊的な存在を否定するかのような話になっている。

もう、これだけでも、話が入り組んでいるし、矛盾していますよ。

まあ、時代を問わず、洋の東西を問わず、日本の神仏習合に近い現象(?)はあり、その名残というか、影響があらわれている(梵天様が全世界を創造した神様として登場してくるのもその一つ。つまり、旧来からあった土着の神様が次々に融合(?)されてからめとられるようにして、より新しい大きな宗教の神様として位置づけられ、再定義される)のかもしれないが。

話を戻すと。

そもそも、世の中を含めたありとあらゆる物事の真理を悟る、きわめるということは、当然のこととして、肉体人間とは何か、肉体人間とはいかなる存在か、が深く理解できたという内容が含まれている、ということになります。

悟りを開いて、入滅する、涅槃に入る、ということは、言い換えれば、自分さえ悟りを開けば、他の肉体人間は無関係であり、どうなろうと構わないのであり、「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいる、ということに他なりません。

これはすなわち、たとえ世の中の人々が病争貧苦にあえいでいようとも、われ関せずで、「知ったこっちゃねえよ」ということですよね?

あの身の処し方、すなわち、悟りを開いたら、速やかに入滅する、涅槃に入るというのでは、結果的にこのようにとられても仕方がないことになりますよ。

ところで。

世の中を含めたありとあらゆるものは、一体どこから発して、出来上がっているのでしょうか?

縁起?

おかしいですよ、これ。

縁起は、あくまでも、物事の原因と結果という、両端だけはあらかじめあるものと、勝手に決めつけて、あとのありとあらゆる存在や出来事は、この関係性から生じると決めつける、きわめて曖昧模糊とした、いってみれば宙ぶらりんな論理展開にしか見えません。

じゃあ、そもそものその両端の始まり、中でも端緒となる「すべての元となるはじまり」は、一体、どのようにして生じてきたんですか?

これだけは規定値で、自然発生、当たり前にあるものとして、勝手にスルーして黙認ですか?

おかしいじゃありませんか。

例えば、
はっきりとした起点のある因縁と、その結果としての終着点としての因果の対応があるセットの場合と、
起点としての因縁も何もないんだ、ただ因縁因果を結びつける縁起が何となく生じてきて、因果という結果だけが存在する因縁因果の対応があるセットの場合の違いを、
どう説明するんです?

後者の因縁だけについても、なぜ原因としての因縁が生じるかの、その明確な違いを説明できないじゃないですか。

ただ、縁起があるから結果としての因果がある、それから逆算される形で因縁が決まるなんて、時系列を反転させるような理論展開の仕方は、おかしんじゃないですか?

原因と結果、すなわち、因縁と因果には、そもそも、順方向の時系列しかないんじゃないの?

つまり、因果という答えが最初に決まってから、縁起を介して無理矢理因縁を当てはめるなんて、そんな行き当たりばったりで、訳もわからず生じてくる縁起により、勝手に因縁が規定されて、因縁因果が完結するなんていう、こんな不自然で、おかしな話はない。

原因となる因縁がどこからともなく勝手に生じてきて、因果が導かれるようなものだったら、カオスとしか言いようがない。

仏教は、人としての正しい心の持ち方、正しい生活の仕方に指針を与え、この厳しい火宅のこの世に生きる私達の心の拠り所となる教えじゃないの?

それが、こんなカオスな因果と縁起ありきな因縁因果の世界だったら、そもそも、仏教を説く必要がありますか?

原因となる因縁なんか、神出鬼没の縁起に振り回され、いつ生じてくるのかわからないなら、これこれ、こうしたらよいとする、人としての生き方や心の持ち方についての教えすらも、説くこと自体の意義が揺らいでしまうのではありませんか?

創造主としての神様を認めないから、こんな変な話になるんですよ。

また、話を戻すと。

悟りを開いたら、速やかに入滅する、涅槃に入るというあり方から、その人間観を考えると、いまだ悟りにはほど遠い、病争貧苦にあえいでいる人達は、関係ないということですよね?

自分さえ悟りを開ければ、「ハイさよなら」。

それで「おしまい」。

このあり方には、世の中で苦しんでいる他者に対する愛情を感じることはできません。

「われ関せず」で言い方は悪いですが、きわめて自分本位、自分勝手で、愛深くない冷淡な思想だと感じます。

もしも、仮に仏教に創造主としての神様を認めるとすると、神様は絶対者です。

ありとあらゆるものを、創造して、命を与え、愛を施し、その万物を流転させる、絶対なる力を持つ存在のはずです。

そうなると、私達肉体人間も神様のお命を分け与えられたからこそ、生きている存在となります。

私達肉体人間が万物の霊長とされるのは、他の動物などとは異なり、神様のお命を直接に頂いている、神性(仏教なら仏性)をその本質に持っているからだ、ということになります。

そうすると、悟りを開いたということは、私達肉体人間自らが神様(仏様。以下、神仏として神様という名称にまとめて表記する)であることがわかる、その神様としての本質をあらわす、ということです。

神様は、真善美に悖らず、愛そのものの存在だとすれば、そのお命を分け与えられた私達肉体人間も、当然に愛深い存在であるはずです。

ましてや、悟りを開いてその本質をあらわしたのですから、自分以外に苦しんでいる人々がいれば、ほったらかしにはできないはずです。

たとえ、苦しんでいる人々を救うには困難をきわめても、救いきれない人々がたくさん残る結果になったとしても、少しでも救いに立つために、愛を施すために、おもむろに立ち上がる、お釈迦さんで言えば、その教えの伝道におもむくのは当然の帰結ということになります。

つまり、私達肉体人間が神様の本質を持つ万物の霊長ならば、これが当然の成り行きとなるはすだ、としか思えないのですよ。

佐々木閑さんは、お釈迦さんが教えに立ったから、仏教として宗教が自利から利他に変わったかのようにお書きになっていましたが、上記のように考えてくれば、仏教は元から利他の宗教となるはずです。

だから、

お釈迦さんが、世の中は迷っている人ばかりだから教えを施しても理解してもらえないから教えには立たない(何だか言い訳がましく聞こえる)とか、

梵天様の再三にわたる大げさな説得にほだされる形(これも偉い神様に説得されてしぶしぶという感じで言い訳がましく聞こえる)をとった、

とかの仏教の数々の逸話(エピソード)は、仏教に慈悲の思想を付け足すため、愛深い教えに再定義(変節?)し直すために、付け足された話のように思えるのですよ。

もっと言えば、小乗仏教に慈悲という愛深さを付け加え、大乗仏教との整合性を保つために、後世に付け加えられた神話だ、と。

ごく自然に考えてみて下さい。

神様を真善美に悖らない、愛深い存在だとするならば、肉体人間として悟りを開いたら、速やかに世の中の人々の救いに立つために、教えの伝道におもむくのが自然の成り行きのはずです。

否、そうならなければおかしい。

筋が通らない。

という訳で、私はお釈迦さん在世当時のインドの常識に疑問を抱いている、もっと言えば、あの身の処し方から考えられる、神様の本質に疑問を抱かざるを得ないんですよ。

(追記1)
佐々木閑さんは、お釈迦さんが梵天様の懇請を受け入れたことによって、仏教が自利、すなわち、自分のための宗教から、利他、すなわち、人々のための宗教に変貌したかのようにお書きになっていましたが、これを神様観に置き換えて考えれば、神様の本質が変化したと言っていることと同じですよ。

端的に言えば「宗教」とは、「神様」と「肉体人間」との関係を明らかにするものです。

しかも。

頭の中だけで、理屈だけでわかるのではなくて、私達肉体人間が、本当に神様の分けられたお命である、ということを真から体得すること、感得すること、すなわち、私達は神様の子供に他ならないのだから、神様の姿をこの肉体人間の想いと行いにあらわすことこそが、宗教を奉じる意義のはずです。

そのために、難行道や易行道などの行き方がある。

神様という存在を、認識して考察して論じ、行じることができるのは、神様の分けられたお命を直に授かることによって、神様の「知恵」と「創造力」を特別に与えられた私達肉体人間しか適任者がいないからです。

私達肉体人間以外の動物には、こんなことはできません。

想いとしてある程度神様を想うことができたとしても、これを肉体にまつわる五感を通して、きちんと表現して、行じる手段を持たないからです。

そうして、神様を考え、表現することのできる唯一の私達肉体人間の立場から、神様と私達肉体人間のかかわりを明らかにした上で、ありとあらゆる事柄を考えていく。

それが「宗教」なのではありませんか?

だから、自利から利他に変わるなどと言う、宗教のありようが変わるということは、神様と私達肉体人間の関係にも何らかの影響が出る、その双方、または、片方の本質が変わる、と考えざるを得ません。

しかし。

私達肉体人間と神様、中でも神様がその本質を変える?

そんなことないでしょうよ。

ありませんよ、そんなこと。

神様は、はじめっから変わらないはずです。

神様は、はじめっから、真善美に悖らず、愛そのものの存在。

はじめっから、慈愛深き存在。

そう考えると、仏教の神話(?)も、学者さんの解説も、何とか辻褄の合うような経緯を作り上げ、それを追跡(トレース)しながら、支援(フォロー)しているように感じてしまうんですよ。

ひろさちやさんのご本( ひろさちや著 「釈迦」(春秋社))を読む限り、お釈迦さん以前にも仏陀はいた(仏教と同時期にインドに発祥したジャイナ教の開祖のマハーヴィーラブッダあるいはジナと呼ばれていた)し、お釈迦さんがその悟りに至る古道を八正道とした、と書かれているから、後世の高僧や学者さんが、お釈迦さんただ一人その人だけが、従来の宗教を愛深い特別な教えとして発展させた、仏教という新たな新興宗教として興した素晴らしい宗教家だ、と言いたくて、あのような神話が出来上がったように、裏読み・邪推をしてしまうんですよ。

(追記2)
しかし、俺もお釈迦さんの生誕話をはじめとした数々の仏教の「神話」そして、「縁起」「中道」などをはじめとして、仏教の通説に楯突くようなことばかり書くことになるなんて、 ( おぶなより ) を始めた当初は思いもしなかった。

まあ、これも学の浅い素人の未熟者だから、しゃあないと思ってもらうしかないな。

こういっちゃあ、身も蓋もないが。

宗教の教学もお綺麗事の神話もどうでもいいのよ。

四諦、八正道、十二縁起。

いかにも、綺麗に飾り立ててあるように見える(?)けれど、あのような概念の分類と定義に、本当に意義があると思いますか?

( おぶなより ) に書いたが、八正道だけでも、わざわざあのように肉体人間の想い(と行い)を分けるのには、はなはだ疑問がある。 あのように、あたかも必須知識のように、個々を覚えたところで、どれだけの意義があるんですか? 私達肉体人間が、想いを抱き、行いに移すのは、ほとんどがほんの一瞬でなされるんですよ。

あの八正道を思い出して、いちいち吟味しながら想いを抱き、いちいち吟味しながら行いに移すなんてしていないはずです。

強いて、八正道を活かすとすれば、あの 8 つを何回も何回も、暗記をするように徹底的に頭に叩き込んで、想いと行いに当たって、無意識な形で咄嗟に適用することができるように、練習を繰り返すしかありませんね。

しかも、それらの判断のよりどころとなる「正しい」にしたって、突き詰めて行けば、結局は感覚的なもので、私達肉体人間に元からそなわっている神性(仏教なら仏性)によって判断している。

私達は想いを抱く前に、行いに移す前に、いちいち、「正しい」か否かなんか吟味していないのが普通のはずです。

このように考えてくると、八正道は、何か、普通の肉体人間の想いを抱き、行いをあらわすには、ずいぶん手間がかかっているし、きわめて不自然な教えに感じるんですけどね。

もしかしたら、後年に作られたであろう、こうした仏教の教学は、数秘術(?)に長けた人が、何らかの意図を持って、このように割りきった数の形にまとめ上げたのではないか?とさえ、邪推をしてしまうんですよ。

だから。

単細胞の私から言わせてもらえば、宗教の教学もお綺麗事の神話もどうでもいいんです。

もちろん、好きでやるなら仕方がないし、趣味の範囲で嗜むのは個人の自由だけど。

それよりも何よりも、一番大切なのは、最終的に私達肉体人間の想いと行いが、神様のみ心に適うようになること。

つまり、私達肉体人間が、その本質となる神性(仏性)を、その想いと行いに体現すること。

私達肉体人間が、神様(み仏)の子供としての本来の姿をこの世にあらわすこと。

過去世の悪い因縁のあらわれがあれば、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をすることによって、こうした悪い因縁のあらわれを必要最小限度に済ませて頂けるように、お浄めを頂くこと。

間違っても、世の中の人々の不安と恐怖を煽り立てることではない。

本当は、不安と恐怖を煽り立てる人達には、今すぐそうしたことはやめて、無限億万回の世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をしてほしいところだが、残念なことに、こうした人達は、世界平和の祈りすら知らないようにしか見えないのが現状。

とにかく、一日も早く、一刻も早く、世界の平和が実現してくれれば。

人々の日々の想いと行いが神様のみこ心に適うように、近づいていていってくれれば。

大事なのは、世界の平和、世の中の安穏。

とにかく。

ただただ、ひたすらの世界平和の祈りをお願いしたい。

~~~~~

(*)人間とは、宗教的に言うと、神様の分けられたお命そのもの、つまり、神様のお命そのものである霊魂魄、この魂魄となる肉体要素を有機的生命体として成り立たせている、霊なる人間こそが本当の人間となるが、ここでは、私達の五感に認識できる動物と同じように、この世に形をあらわしている者を、一体化している霊なる人間とは区別する意味合いで、肉体人間と記している。

動物の本質は、魂魄だから、動物に当てはめて言えば、五感に認識できる動物は、さしずめ、肉体動物となる。

普通は、動物と言うだけ。

201_妄言と予想

以下は、きわめて特異な独断と偏見である。

個人的な妄言である。

最近、やたらとかまびすしい話題がある(コトがコトだから、大事件には違いないのだが)。

仮に、J 関連としておく。

ユーチューブでもいろいろな人がいろいろなことを言っているが、まことに失礼ながら、納得のいく解説がほとんどない。

ある程度納得できるな、本質を突いているな、と思われる分析は、ごくわずか。

多少、近辺にまで寄せてきた説明は、数個はあったのものの、肝心要のコトの本質に触れたものが(私の見た限りでは)たったの 2 つしかなかったからだ。

一人は男性で、もう一人は女性である。

それはともかく。

今ではまったく見ないし、正確に何年前のことになるのか、もう、わからなくなってしまったが、 SM さん( ( おぶなより ) の ( 051_祈りと念力 - おぶなより ) などで触れた SM さんのこと)はこんな大騒ぎにならない、とっくの昔(数年前)に、ブログでこの件についてコトの本質をキッチリ指摘していた。

さすがだよな。

すごいよ、 SM さん。

というのは、巷にあるほとんどの J 関連の論評は、今に至っても、治外法権とも言うべきあの力の源泉がどこから来ているのかに、まったく触れていないものがほとんどだからだ。

既得権益云々や保身の説明だけでは、到底片付けられない、肝心要のコトの本質に触れていないから、まさに画竜点睛を欠くみたいなもん。

だから、どんなに肉薄したような分析に見えても、核心には触れない、中途半端に周辺をなぞるようにしか説明していないほとんどの解説には、どうしても納得がいかなかったのである(中には、わかっていても、あえてはぐらかして(=しらばっくれて)触れない人がそれなりにいたのかもしれないが)。

以上、妄言です。

大変失礼致しました。

(追記)
逆に言うと。

もしも、万が一、私の見方が当たっているとするとするならば、潮目は確実に変わったと認識しなければならない、ということになる。

だって、同じなんだから。

にもかかわらず、世間はいまだに、ナアナアでズルズルと行かせようとする雰囲気も、そこかしこに散見される。

さて、どうなることやら。

200_FRセダン3(惜別)

ありがとう。

海外では評価も高く、かなり売れたみたいだけど、日本ではあまり売れなかったらしく、一般的な評価や人気度も低かったのかもしれないが、自分にとっては分不相応で贅沢な車だった。

大手国産メーカーのれっきとした新車を購入したのにもかかわらず、不定愁訴というか、謎の電装系の不具合にも随分悩まされ、何度も修理に出す羽目になったから、たまたまハズレ個体に当たってしまったのかもしれないが、販売店(ディーラー)の人達も根気よく対応してくれたし、実用車としては申し分のない車だった。

全幅・全長の外寸のかなり大きな昨今の車からすると、それなりに扱いやすい小ぶりさで(とはいっても、5 ナンバー車や軽自動車のようにはいかないが)、FR の駆動方式による、ほぼ完璧に近い理想的な前後重量配分と、フロントオーバーハングも短く、タイヤの切れ角も大きく、小回りもよく利いた。

低い全高ばかりがほとんどの同類車種(= 4 ドアセダン)の中で、空力特性も良好な数値ながら、高めの全高とロングホイールベースのお陰で、居住性もそこそこよかったし(*)、トランクの開口部も広く、外寸形状もいたずらに絞り込まれた形ではなくスクエアに近いために中も広く、ヒンジも内側に干渉しない方式のもので本当にありがたかった。

出だしのエンジン音だけはあまり静かではなかったが、ロードノイズなどの遮断による静粛性はまずまずで、中速域に乗せ、丁寧なアクセルワークを心がけさえすれば、 V 型 6 気筒ならではの(初速時を除く)静かで滑らかなエンジンフィールも本当に快適だった。

長い間、本当にお世話になりました。

心から感謝しています。

ありがとうございます。

さようなら。

~~~~~

(*)居住性がそこそこよかったとは言うものの、残念ながら、適正な全高と箱形スタイルをきわめているクラウンコンフォートには敵わない(トランクの使い勝手だけはクラウンコンフォートよりよかった)。 運転しやすい手頃なサイズ感で、クラウンコンフォートのあのスクエアなスタイルから得られる室内の解放感とヒンジドアでの乗降性の良さは、おそらく国産 4 ドアセダンの中では唯一無二だからだ。

クラウンコンフォートのあのスクエアをきわめたスタイルにより確保される室内空間や、ヒンジドアの形状が四角形に近いことによる乗降性の良さ、室内からの視界の良さ(=見晴らしの良さ)は、近年の国産 4 ドアセダンの中では、多分、最高峰だろう。

低い重心を確保するために全高を下げ、空力や流行り(トレンド)を重視するスタイルを目指せば、結果としていやが上にも室内空間が削られ、ヒンジドア形状の鋭角化による乗降性の良さが削られることは避けられないからだ。

セダンは最近不人気なようだし、車種もどんどん減らされ整理されてきているので、あまり文句みたいなことは書きたくないが、私は背が高めなので、車体の全高の低さ(≒室内高の低さ)と前後左右のガラスのキツイ絞り込みからくる、室内の防ぎようがない圧迫感や閉塞感、さらには、鋭角的なナイフのようなドア形状からくる、危険を伴う乗降性の悪さがどうしても気になってしまうのだ。

という訳なので、まあ、ご勘弁下さい。

(追記)
最近のユーチューブに、身長 177 cm のドイツの若い女性が、日本の車は小さくて、乗降時に頭をドアの開口部に何回もぶつけたという話があった。

これはおそらく、ヒンジドアの形状とヒンジドアの開口部の形状がかかわっているんじゃないのかな?

しかし、だからといって、彼女のような体格の人が身体をたくさんひねらずに余裕で乗降できるようにするためには、車の外寸はさらに巨大なものになってしまう。

彼女が乗降したのは、クラウンコンフォートかどうかはわからないが、もしもクラウンコンフォートでこの有り様なら、他のセダンはもっと厳しいということになってしまう。

クラウンコンフォートも、タクシー専用車だからと割り切った設計だからこそ、あのような日本の道路事情に合って使いやすいセダンになったと思われる。

タクシー等の業務用以外の普通の市販向けなら、クラウンコンフォートのような車は絶対に企画・開発されることもなかっただろうし、誕生することもなかっただろう。

おそらく、タクシーや教習車用途で、同業他社のセダンを徹底的に駆逐するために、素朴な使いやすさを追求したからこそ、あのような割り切った設計の車になったのだろう。

それは、現代のトヨタの他のプリウスをはじめとした一般向けのセダンと比べれば明らかだからだ。

トヨタ車のセダンで、強いてクラウンコンフォートに近い設計思想のセダンを挙げるとすれば、プレミオ・アリオンだろう。

プレミオ・アリオンは、駆動方式は FF ではあるし、全高をはじめとして、クラウンコンフォートとは明確な差がある(ただし、市販車としての細かい作り込みはプレミオ・アリオンの方がずっと上だろう)が、日本の道路事情と交通事情に配慮した、きわめて使い勝手のいい、良心的につくられた隠れた名車と言っても差し支えないだろうね。

名より実を取る人には、まさにもってこい、といった感じかな(日本専用車的な色彩が薄れたこともあるが、カローラやカムリ(生産終了)は外寸が大きくなり過ぎた(しかし例によって相変わらず全高は高くない)から)。

ただ、残念なことに、プレミオ・アリオンクラウンコンフォート同様、すでに生産終了になってしまっている。

そのように考えてくると、実際の使い勝手から、SUV や軽自動車の販売台数が多いことにも影響があらわれているんじゃないのかな?

199_世界平和の祈りの功徳

世界平和の祈りについて、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の本に出ていた、 2 人のご婦人のエピソード(逸話)を取り上げる。

1 人目の塚本さんのエピソードは、載っていたのがどの本だかわからなくなってしまったので、おぼろげな記憶を頼りにしながら適当に書く。その点はお許し頂きたい。

2 人目の山本さんのエピソードについては、掲載本とその該当箇所から引用する。ただし、読みやすさ(見やすさ)を考え段落分けをしたり、ごくわずかな加筆をするなど、適宜文章を改変する。ご了承を頂きたい(なお、この本には、ありがたいことに一般的な書籍にありがちな引用についてのうるさい縛りは一切書いていなかったので、引用をさせて頂く)。

第 1 。

塚本さんが、神社(かお寺のどちらか)にお参りに行った時のこと。

彼女が参拝を終えると、近くにいた女性の易者さんが声をかけてきた。

その易者さんは、
「あなたの後ろには、ものすごいお光が輝いていた。
あなたはどこの守護神さんをお参りされているのですか?」
と言われたらしい。

その当時の塚本さんは、まだ、世界平和の祈りの祈り人としては、ベテランではなかったらしい。

それでも、五井先生とはまったく関係がない部外者の人にこのように言われて、塚本さんはとても嬉しかったようだ。

次、第 2 。

山本しかさんが、お墓参りをするたびに、ご自分のお墓はもちろん、お隣の無縁さんのお墓にも、
世界人類が平和でありますように
と祈っていた。

そして、守護霊様と守護神様に感謝していた。

ある時、神道系の行者さんが山本さん宅に来て、神棚の前で祈っていたら、(その行者さんの霊の眼には)お墓が見えてきた。

大きなお墓が山本さんのお墓で、それが光輝いていた。その光が、周りの小さなお墓まで差し込んでいって、小さいお墓の人達がみんな喜んでいた。

そして、行者さんは、
「ああ、お宅の信仰は大したものですね」
と言われた。

山本さんが、
「夫のことも拝んで下さい」
と頼むと、

行者さんは、
「いや、あなたの旦那さんは、とっても高くていいところにいらっしゃるから、私が拝むというよりも、向こうからお光(←神様の光のことだと思われる)を頂くようなものだ」
と言われたとのこと。(*1)(*2)

(以下は、大体五井先生の文章の通り)これはどういうことかというと、山本さんが世界平和の祈りをやっていらっしゃるから、旦那さんはもちろん、お墓のそばにあった無縁さんもみんな光っちゃったんです。

わかってもわからなくてもいい。

皆さん一人一人が世界平和の祈りをすれば、自分の周囲、親族へ全部(神様の)光が入っていく。

それを山本さんが実証して見せてくれた。

(神様の)光によって照らし出されるということは、この世ばかりでなく、あの世まで、また後々の世までも、ひびきわたるのです。

皆さんは、肉体の人間だけではないんです。内なる神の分霊(わけみたま)が(光明)燦然と輝いているんです。

~~~~~

(*1)「とっても高くていいところにいらっしゃる」というのは、山本しかさんの世界平和の祈り=信仰によって、旦那さんがあの世(または、霊界)の高い地位(階層)に昇られている、といった意味合いに解釈できる。

つまり、山本しかさんの熱心な世界平和の祈りで、旦那さんが高い境地に昇ることになったと思われる。

この話を読むと、世界平和の祈りをすることは、自らにまつわる霊道を浄めるという意味で、ご先祖様の供養にもなるし、従って、親孝行にもなりますね。

(*2)「向こうからお光を頂く」の「向こう」とは、(*1)もあわせて考えると、山本さんのお墓のに既に入られている方々か、山本さんの旦那さんか、のどちらか、それともその両方、と思われる。

さらに、その(神様の光の)大元を辿れば、神様か神界からの光ということになるんでしょうね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上が、世界平和の祈りをしたご婦人のエピソードで、塚本さんに話かけてきた易者さんも、山本さんの家に祈りに来た神道系の行者さんも、霊感があり、世界平和の祈りによる(神様の)光が見える人達だったというお話です。

つまり、世界平和の祈りの関係者ではない外部の第三者である、霊感のある易者さんや神道系の行者さんによって、世界平和の祈りの実践で生じる(神様の)光の存在と、その効果の裏付けが客観的に得られたという話ですね。

五井先生がよく本の中で、世界平和の祈りで得られる神様の光のことを、(確か歴史上でのこの世を救いたいと願う各種の聖者の光を集めた?)「救世の大光明」とお書きになっていたが、神様や目に見えない幽霊(目には見えない霊的な存在)などをまったく信じないゴリゴリの唯物論者の人にしてみれば、「何言ってやんでえ」と思うかもしれないし、唯物論の思考にとらわれながらも、そうした目には見えない神様や幽霊の存在をとりあえず信じている私のような人間からしても、「救世の大光明」はちょっと大袈裟過ぎる表現なんじゃないかな、と最初は思っていたが、こうした体験談を読むと、なるほどな、と納得する話だった。

それが、塚本さんや山本さんの体験談を読んだ時の感想だった。

まあ、(過去世の因縁により)あくまでも目には見えない神様や幽霊を妄想だ、デタラメだ、と絶対に認めないで否定ばかりする人達には、なかなかわからないことだとは思うけどね。

生まれつき、こうした霊感(波動を関知する能力なども含む)があるのもないのも、やはり、守護の神霊様のご判断で、その人その人の輪廻転生のいくつもの人生を通した魂の成長に、過去世の因縁も踏まえて(=睨み合わせて)必要とあれば授けられ、そうでない場合は、授けられていない、ということになるのだろう。

あるいは、その人によっては、時期によって霊感を授けられるべきという時期になったら、後天的に霊感が授けられることになるのだろう。

私は、霊感がほとんどなく、霊的な経験も数えるほどしかないので、こうした光を見たくても見ることはできない。

日頃の想いと行いもよくないし、まあ、仕方ないな。

ただ、逆に言えることは、生まれつきこうした霊感などの素養のある人は、それを自らの人格の向上のため、世のため、人のために使う、すなわち、神様のみ心に適う生き方をしなければならないという、神様から大変な期待をかけられている人であるとも言えることになる。

霊感がない形に生まれつく人が大多数であることに鑑みると、「過去世の因縁も踏まえて、わざわざ霊感があるように生まれつく」ということは、それを活かす形で
「良い生き方をしなさい」
と神様が言われていることと同義だと考えられるからだ。

だから、こうした人達は、その生得的な才能(?)を、
「自らの勝手な唯物論的な価値観にもとづいた私利私欲のために使ったり、他人を損なうために使うことは本来的に許されない」
という、厳しい枷(かせ)をはめられた人達と言うこともできる。

つまり、こうした人達は、特別な能力を授けられている(=いわば、ある種の特権を与えられている)分、霊能力のない私達のような一般人にも増して、神様のみ心に沿って、さらに
「気高く、清廉に生きなければならない人達」
ということになるのだ。

「あなたは特別に生まれついたのだから、その力を正しく活かすように、生きていきなさい」と。

私が悪い予言や予見をする人達に、厳しく批判的なことを書いてきたのは、こうした意味合いもあるんですよ。(*3)

だから、生まれつき霊感の授けられた人達の中には、地味で目立たなくても、神様のご用に役立たせて頂くと意識して、身の引き締まる思いで、立派に生きている人もいるだろう。

もちろん、こうした人ならば、世の人々に不安や恐怖といった悪いを抱かせ、惑わせて、煽動し、世の中を乱し、世を悪くするといった愚かしい真似をすることもないだろう。

ということで、私達は、霊感があってもなくても、それぞれの置かれた立場で、できる限り、神様のみ心に沿って生きていくべきだ、ということになるだろう。

まあ、元々、こうした霊感がない人でも、難行道で悟りを開き、六神通のような超能力を獲得した人(現代ではまず無理だと思うけど)には見えるのだろうが、ただ、好奇心だけで、こうした霊感や霊能力を獲得しようとするのは、好ましくない、否、適切ではないとも言える。

生まれつき霊感や霊能力のない人は、霊感や霊能力がない人なりに、ただただ、純粋に人格の向上だけを目指して生きていけばいい。

何らかの形で霊感が授けられることになれば(その人の過去世の因縁も踏まえて、輪廻転生を通した魂の成長に必要と判断して神様が授けたことになるから)、それはそれで、神様のみ心に照らし合わせながら、できるだけ良い生き方をするようにしていけばいい。(*4)

そういう結論になりますね。

ちょっと厳しい言い方になりますが、霊能力(サイキック能力)は、興味本意や行き当たりばったりで、恣意的に求めるのは、神様のみ心に照らし合わせて考えれば、相応しくないと言えることになります。

そういう霊能力を活かして、人々を導く立場になる人は、守護の神霊様が、いやが上にもそうなるようにお導きになる、と考えられるからですよ(ただし、霊能力が得られたり、それなりの指導的立場についたからといって、決して私利私欲やエゴに走ることのないように、余計に厳しく自らを戒めていかなければならない(=身を引き締めるようにして、気高く、清廉に生きていかなければならない。逆に言えば、こうした常人にはない霊感や霊能力に悩んだり、苦しんだりしている人ならば、ひたすら、世界平和の祈りをして、守護の神霊様に自分が良き霊的な指導者の下に導かれるように祈り続けるしかない。その人の(かなり悪い)過去世の因縁によっては、すぐに正しい霊的な指導者に行き着かず、誤った指導者行き着いたり、誤った宗教に入らざるを得ないこともあるかもしれない。それでも、ひたすらなる世界平和の祈りと守護の神霊様に対する、たゆみなき感謝行の継続により、自らの神性に照らし合わせて(=神様のみ心に照らし合わせて)判断していくしかない)ことになる)。

だから、何事に当たっても、常に、常に、常に、世界平和の祈り(や南無阿弥陀仏)の祈り(唱名)一念で、想いをリセットするつもりで、始めることが望ましいと言えるでしょうね。

~~~~~

(*3)本来なら批判を書きたくなかったし、批判をすべきではなかった(=神様のみ心に適わない真善美と愛に悖る想いと行いだから)のだが、あまりにも世の中に不安と恐怖を煽る情報を発信する人が多いように感じたので書いた( 2023 年 ( 195_信仰について - おぶなより2 ) や ( 196_一択 ー 世界平和の祈り ー - おぶなより2 ) や ( 208_予言について - おぶなより2  )  や ( 210_万教帰一 - おぶなより2 ) など。また、古く( 2022 年 )は ( 138_一択 ー 易行道 ー - おぶなより2 ) や ( 159_一択 - おぶなより2 ) など)。

私のブログは影響力が皆無な(=まったくの力不足で読まれることがない)ためか、こうした人達には悪い予言や予見をすることの弊害をいくら必死に訴えても、気持ちは全然届かなかったようだ。

霊能者だ、宇宙人だ、未来人だ、異星人(過去世が火星人)だ、漫画だ、胎内記憶だ、・・・と本当にどうしようもない。

世界平和の祈りの一つもせずにこんなことばかりやっている(この人達は、おそらく世界平和の祈りをしていないだろう)。

何とも言いようがないね。

2024 年の年頭に、あれだけの大災害があったのに、著しい不安と恐怖を煽る情報発信をする(=不安騒擾の土壌を安易に醸成する)人がいまだに後を絶たず、後から後から、次から次へとわいて出てくるのが現状だから( この (*3) は 2024 年に追記した。従来、(*3) としていたものは、(*4) として移動させた。ご了承下さい) 。

(*3)の追記
なんとも言いようがないと書いたが、強いて言わせてもらえば。

こうした(現段階での)唯物論の科学の範疇を超えた飛び道具さえ使えば、簡単に人を信用させる、操作できると思ったら大間違いだよ。

世の中には、性格がねじれてしまい、まずは裏読みから始める、俺みたいなひねくれ者もいるんだからね。

唯物論でつまびらかにできないからと、神秘的?だからと、なぜ、彼ら(彼女ら)の発言を鵜呑みにすることができるの?

彼ら(彼女ら)の話が 100 % 真実だ(=現実化する)という確証が一体どこにあるの?

宇宙人、未来人、地底人、・・・何ですか、これは?

もしもこれらが万が一、宇宙人や未来人や、地底人や、果ては神様や高次元の存在を名乗る者の言葉が、その実、(例えば狐憑きの狐ような)迷った妄念がかかったお告げ(=騙り)だったり、はたまた、何らかの意図を持って故意に創作された話だったりしたらどうするのですか?

あるいは、神様や宇宙から見せられたビジョン?が、こうした妄念のような存在が憑依した仕業ではないという保証が一体どこにあるんですか?

だから、こうした予見や予言をするには、その信用を裏付ける要件として、高潔な人格者であることが必須の要件になるんですよ。

そこそこいい人や、ちょっといい人レベルではないではない、高潔な人格者であり、求道者であることが。

求道者として完全無欠ではなかったとしても、徹頭徹尾、真善美と愛に悖らない神様一筋を貫く人であることが。

例えば、エドガー・ケイシー

彼はたくさんの恐ろしい予言を外しているし、日本人に対する明らかな侮蔑表現を使っている。

予言、それも世の人々にかなりの不安と恐怖を抱(いだ)かせる悪質な予言を外すような人に、それでもなお全幅の信頼が置けますか?

真善美と愛に悖らない神様が、あんなひどい差別用語、侮蔑用語を使いますか?

悪い予言や予見が外れれば、結果オーライで、それまでにどんなことをしたとしても問題はないの?

ああした世の人々を不安と恐怖に陥れる行為は、神様のみ心に適わない行為に他ならないのではありませんか?

悪い予言や予見を外しても、精神世界を説く、おそらくほとんどすべての人が、ご自身が悪い予見や予言をしたことを忘れ果てて、「知らぬ顔の半兵衛」なのではありませんか?

責めたくないけど、人として、ましてや、本来、人格者を目指さなければならないはずの精神世界を説く人が、こんなあり方でいいんですか?

さらに言えば。

悪い予見や予言が当たったって偉くも何ともない。

本当に目指すべきは、本当に望むべきは、調和の取れた安寧な世界。

もしも万が一、悪いものが実現するのであれば、それを何とかして食い止める、食い止めることができなければ、被害を最小限度にすべきではないの?

やるべきことは、こっちですよ。

ましてや、唯物論では、力の差がありすぎて、どうにもならない相手や、本来の天変地異のような事象は、祈り以外に対処のしようがない。

と、思わざるを得ないんですよ、いつも。

そりゃあ、人のために尽くし(=人のために慈愛を施し)、謙虚で申し分のない人格者、もっと言えば、悟りを開いて六神通や漏尽通を獲得していて、その力を余すところなく発揮できる人ならば、予言をするとすれば、よくよくの事情と考えがあって、あえてすることだから、信用するに足りるだろう。

しかし、こうした人が果たして今の世の中に存在するものなのか?
そして、無事に表舞台に立ち続けることができるのか?
さらには、こうした人がいたとして、周囲に身のまわりの安全を脅かされる近しい人は皆無なのか?

つまり、天涯孤独で、何者にも侵すことのできない絶対的な力を持つ覚者はいるのか?

まことに失礼ながら、こうした厳しい条件を満たした人は、今の世の中にはいないと思うよ。

現代は、お釈迦さんが真理を説いて、たくさんの人々を導いた(ある意味単純な)古の時代とは、時代状況(環境)がまったく異なるからだ。

だから、もしこうした覚者がいるとすれば、社会との利害関係を極限まで断ち切って、仙人のようにして、山奥に暮らしていると考えられるんですよ。

よって、それ以外の人で、多少の霊感があったりして、仮に未来のよくないものが見えたり、感じられたとしても、まずは、最低限の警告として、それなりの備えを知らせる以外は、世の人々の不安と恐怖を煽るのは、すぐにでもやめて、今からでも世界平和の祈りをできる限りしてほしいのですよ。

動機のいかんは別にしても、大変だ、大変だと騒ぎ立て、世の人々の恐怖や不安を煽ることが、こうした災難を防ぐために果たして何の効果があるのかと、改めて問いたいですね(逆効果になることは以前から散々述べてきた通り)。

なお、ついでだから予言について付け足しておく。

古くは人類の 3 分の何とかとか、最近では魂の選別がどうとかあるが、私にはこれは脅しになるとしか思えないのだ。

警告と言えば聞こえがいいが、実質は脅しに他ならない、結果的には脅し以外の何物でもない、と。

脅しだよ、脅し。

(悟りを開くことができない)一般的な私達の想いを不安と恐怖で揺さぶる、「悪質な脅し」そのもの。

なぜならば。

私達ほとんどすべての人は、人間とは動物のように五感に感じることのできる、肉体人間こそが本当の人間、真実の人間だと思っているからだ。

本当の人間、真実の人間とは、この肉体人間を有機的生命体として成り立たせて、生かしている、神様の光の一筋、一筋の分かれ、神様の分けられたお命という光明体、霊なる人間=分霊(わけみたま)こそが、本当の人間、真実の人間とはわからないからだ。

そんな肉体人間観を持つ者にとって、この肉体人間としての命を失うことは、恐怖以外の何物でもない。

よほどのこと(説明略)がない限り、この肉体人間として死ぬことは、恐怖でしかないのである。

つまり、通常は、誰だって死にたくないのだ。

自分だけが(肉体人間として)助かるという保証が一体どこにある?

いくらこうすれば大丈夫なんて言われても、そんなことは、漏尽通を駆使できる、本当の高潔な人格者が言わなければ、信用できない。

つまり、(肉体人間として)助かるかどうかなんて、(実質的には)神様にしかわかりゃしないんだ。

すなわち、肉体界(現界=この世)を卒業して、幽界(=あの世)以降の段階に進む正しい時期(=肉体人間の天寿)を知っているのは、神様しかいないのである(一部、霊感などによりこうしたことが読めた場合でも、特別の場合を除き、原則として当人にこうしたことを告げてはならない。こうしたことを言ってしまうと、言われた当人は、(肉体人間として)死ぬまで、恐怖に怯え、苦しむことになってしまうからだ)。

悪い未来をちらつかせて警告をするというのは、こうしなければ、肉体人間としての生命を脅かされるぞ、肉体人間として死んでも構わないのか、酷い目に遭っても構わないのか、と言っているようなものだ。

つまり、あくまでも、肉体人間観を基準にして物を言っているんだ。

しかし、本当の宗教心、神様を本当に信頼する立場から言えば、肉体人間としての病気・争い・貧乏・苦労と生死を越えて、輪廻転生を通して魂が立派になることが大事(五井先生の言う本心の開発)であり、何があっても不安・動揺しない、神様は私達にためになることしかなさらない、と信じ切れる心構えが持てるようになること(=全託)が、究極の目指すべき形のはずだ。

もちろん、肉体人間としては、本来は神様(神体)の映し身となるべきものであるから、不幸や災難がないのが理想ではあるが、こうした唯物論的な肉体の生死や苦痛を盾にとり、脅すようなあり方は、やはり、(神様の世界や悟りを開いた人の視点からすれば)般若心経にいうところの顚倒夢想したものの見方をしているとしか思えないのである。

これと言った絶対的な対策というか、処方箋も示すことができないのに、肉体人間観に訴えて、見る人、読む人を不安に陥らせて、恐怖を抱かせる。

だから、私は思うのだ。

上記のようなことを堂々と公言するのは、一体どういうつもりなのか、と。

仮に、こうした可能性があったとしても、公言はせずにできる限りの対策を講じるために尽力するのが、神様から特別な能力を授かって精神世界を説く者の努めではないのか。

このような脅しを公言するのは、本当に理解に苦しむよ。

(*4)逆に、この人にはもう霊感や霊能力がなくても立派に生きていけるという場合や、あるいは、霊感や霊能力があることで却って正しい生き方をしていない、矯正の見込みがないような場合には、守護の神霊様がそのご判断で霊感や霊能力を取り上げてしまうこともあるかもしれない。

だから、生まれついた境遇や、持って生まれた能力というものは、その人その人の過去世の因縁も踏まえて、神様がそれなりに(今生での)意味があるものとしてお与え下さったのだから、それを神様のみ心に沿って正しく活かして、この世での人格の向上を含めた、霊魂魄の修養という修行をしていくための大切な要素として、決しておろそかにしてはならない、ということになる。

原則として、私達が元々そなわった肉体を傷つけたり、やたらに粗末にしてはならないのは、こうした理由によると考えられるのだ。

だから、裕福な家に生まれついた人は、世の経済で苦しんでいる人に鑑みて、無理に窮乏生活をしたり、無理に出家する必要もないし、無理に修行に明け暮れる必要はないことになる。

あくまでも、その人その人の置かれた立場はそれなりに生かしつつ、世のため、人のためになるような想いと行いをするように、神様のみ心に沿って、よく考えを巡らせ、工夫をしながら、生きていけばいいことになる。

無理をすれば道理が引っ込むではないが、あくまでも無理をしない範囲で寄付などもすればいい(私利私欲に走るのはもちろん論外である)。

そうした、乱れない安定した最適な判断をするためにも、やはり、平素からの世界平和の祈り(または南無阿弥陀仏の唱名)は必要だと思うのである。

(追記1) ( 2023 年 06 月 26 日)
私達の本質は神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)=霊魂魄であるから、悟りを開いた状態、すなわち、過去世の因縁、特に誤った因縁がなく、澄みきった魂の状態であるならば、本質が神様そのものである以上は、潜在的には誰にでも霊能力があり、神通力があるということになる。

つまり、過去世の因縁を度外視すれば、私達には誰にでも、霊能力と神通力という潜在能力あるということ。

ただし、この世に生を受ける私達は、特別な人を除いて、何かしらのこの世で果たすべき(=清算されなければならない)、過去世の誤った想いにもとづく因縁を持っているから、つまり、魂が浄まりきっていないから、この点からしても、霊能力がないほうが、一般的と言える。

ましてや六神通のような神通力を持つ人に至っては、悟りを開いたような人しかいない、つまり、現代ではほぼいないと言えるだろう。

このように、この地球上で、悟りを開いている人はほぼいないと思われるので、逆にその大半の人のうちのごく限られた人達が、それなりに霊能力を授けられていることになるのだろう。

(追記2) ( 2024 年 04 月 )
この文章をお読みになられた方には、途中から内容が表題に示したもの(=世界平和の祈りの功徳)から脱線してしまい、世の中にある人々の不安や恐怖を煽る、悪い予見や予言をする多くの人達に対する批判的な内容が増えてしまったことをお詫び申し上げます。

もちろん、冒頭の部分には、世界平和の祈りの功徳というか効果については書いたのですが、予見や予言について書き足していたらこのようになってしまいました。

もっと煮詰めて、内容を限るか、別に扱うべきだったのかもしれませんが、勝手ながら都合により、このままとさせて頂きます。

ご了承願います。

(追記3) ( 2024 年 04 月 )
・功徳~くどく~仏教語~①現在または将来に良い果報をもたらすような良い行い。
また、善行の結果として、報いられる果報。
(用例)功徳を施す。
②神仏が人間に与える恵み。ご利益(ごりやく)。

・果報~かほう~①(仏教語)前世での行いによって受ける現世での報い。
②幸せ。幸運。
(用例)果報者。

・果報は寝て待て~かほうはねてまて~幸運は人の力ではどうにもならないものだから、、焦らずに時期が来るのを待つしかない。

・ご利益~ごりやく~神仏の恵み。ご利生(ごりしょう)。
(用例)ご利益がある。

198_信仰について3(介入)

前回 ( 197_信仰について2(はぐれ者) - おぶなより2 ) の続き。

以下は、全部仮定の話なので、間違いが多々あるかもしれないし、話がとっ散らかっているかもしれないが、あらかじめご了承下さい。

前回、白光真宏会の宇宙子波動生命物理学の科学が、仮に波動を用いた科学を含む内容だとすると、例えば、これだけで病気治療をして、病気を治すことの可能な治療器機ができるか、あるいは何らかの治療法ができたとする。

では、もしもそのようにして、病気の治療法が確立され、治癒が可能になったとしても、じゃあ、そもそもその病気の元になった過去世の因縁はどうなるんだ、という問題が残る。

これについて、考えてみたい。

まあ、その前に、そもそも波動そのものについて。

素粒子までいくと話がややこし過ぎるし、俺には何が何だかサッパリわからないので、到底まともな話はできそうもない。

まあ、そういう訳なので、とりあえずは、まず、原子から。

原子核というあたかも惑星の周りをパチンコ玉みたいな電子が回っているといった形が原子だなんて、そんなアンバランスで荒唐無稽なことは、とても実感できないし、信じられないよ。

その目には見えない、果てしなく細かい原子が寄り集まって(折り重なって?)物体となり、この世の肉体なり、物質なりになっているなんて、わかりゃしない。

いくら、電子顕微鏡でみればわかるのかどうか知らないが、普通の人間の感覚では、到底、実感なんかできやしないんだから。

だから、素粒子のすり抜け現象なんて、ピンとこないし、わかりゃしない。

あくまでも、机上の空論のご高説を垂れているだけに思えてしまう。

まあ、仮に壁のすり抜けを考えると、人間ならその身体全体の波動、すなわち、周波数を変えるという空前絶後の特殊技を使うことで、壁という物質波動よりも、はるかに細かい波動に自分全体の体を変化させることで、その間をすり抜けられる、ということなんだろうな。

ましてや、すべてのものは、こうした原子とそれ以下の陽子、中性子、電子、素粒子によってできていて、固有の振動を持って動いている、つまり、波動という波の組み合わせだなんて、チンプンカンプンだよ。

まあ、とにかく。

ありとあらゆるものすべては、粒だという立場と、波であるとする波動だとする 2 つの立場があると思うが、とりあえず、ここではすべては原子や素粒子以下の細かい元となる最小単位=これがおそらく白光真宏会で宇宙子とされるものが、波を打ち、うねることを波動と名づけることにする。

私達がこうして、肉体人間として、この世に生きているのも、その大元は、神様の世界から発している、神霊波動だと考えられる。

肉体人間を動かしている、生かしている、命そのものが、神様の分け御霊である神霊波動のあらわれになっている、と。

その神霊波動そのままに、何の障りもなく、それぞれたくさんの階層がある霊界、幽界(想いの世界)、ときて、現界というこの世まできて、肉体人間となっていれば、真善美に悖らない、愛そのものの神様そのものをあらわした素晴らしい肉体人間となる。

まあ、さしずめ、悟りを開いた覚者がこれに近づいてきている肉体人間ということになるんだろうね。

その神霊波動がこの世に届くまでに、様々な妨げになるもの、いわば、障りが主として過去世の間に抱いてきた悪い想いという、真善美に悖る悪い波動ということになる。

だから、私達が悟りを開けない、ごく普通の人間として、もっと言えば、罪悪深重の凡夫として、眉目秀麗の美男や、容姿端麗の美女からある程度離れた容姿となり、病争貧苦の何かしらをかかえ、この世にあらわれているのは、神霊波動に、過去世の時点で抱いた真善美に悖る想いや愛に悖る想いという、神霊波動に対して障りとなる波動が、混合されている状態、混ぜ合わさっている状態、ということになる。

だから、過去世の因縁というのも、過去世の時点において抱いた想いの波が、神霊波動と混ぜ合わさる、あるいは、障りとなっているから、この世の肉体としては、病気のような形にあらわれると考えられる。

そこで、こうした混ぜ合わさった、病気の元になる波動を消失させる、あるいは、元の神霊波動の障りにならないように同質化させる、純化させる治療があると仮定すると。

そうすると、そうした波動治療を施された人は、病気が治って、元の神霊波動が肉体に映されて反映された形、すなわち、健康体になるはずである。

しかし。

そもそも、この世で病気になるのは、過去世における真善美や、神様の愛に悖る、何らかのよからぬ想い(=以下、これらの想いを誤った想いとする)が反映されて、この世にあらわれた形となっているはずた。

だから、病気を受け入れる、あるいは、受け入れざるを得ないという形で、病気を味わうことによって、はじめて因縁が解消されるようになっていくはずである。

つまり、言い方は悪くなり申し訳ないが、病気で苦しむという、この世での償いを通して、はじめて病気の元となった過去世における誤った想いに対する償いが果たされることになるはずである。

何が言いたいのかというと。

本来は、過去世における誤った想いという因縁と、この世でその誤った想いの報いとしてこの世にあらわれる因果の対応法則として、本来ならば受け入れなければならなかったはずの病気を、まるで横やりをいれるように、または、飛び道具を使うかのようにして、波動治療を用いて病気をなくしてしまってもいいものなのかどうか、という疑問が生じてくることになるのである。

197_信仰について2(はぐれ者)

前々回 ( 195_信仰について - おぶなより2 ) の続き。

ただし、前々回も今回も、太陽系の惑星その他(以下の白光真宏会の宇宙子波動生命物理学のことも)の話は、すべて私の個人的な推定(極端な妄想含む)なので、勘違いや間違いが多々あるかもしれない。

その点はあらかじめご了承下さい。

従って、以下に書く内容には、証拠は一切ないし、一切の証明もできない(=今流行りの言い方ならエビデンスがまったくない)ので、私の考えていることは、おそらく理解してもらうことはできないと思う。

なので、以下は、あくまでも一個人の推定(極端な妄想含む)です。

一般的な宇宙についての常識からすると、かなりブッ飛んだ内容になるので、あらかじめご承知置きのほどをお願い申し上げます。

世界平和の祈りをすすめていながらも、その道から外れた、はぐれ狼(?)みたいな異端の立場を白状するような内容になってしまうんだけどね。

以前書いたが、読んで頂く可能性のある人を騙すのは嫌だ。

世界平和の祈りを皆さんにおすすめる以上は、可能な限り真っ正直にいかなければならないと考えているから(神様を真善美に悖らない、愛そのものの存在と理解するため。それゆえ、信じてもらえなくても、間違いだらけでも、思っていること、感じていることを、そのまま率直に書いていくことにする)。

前々回述べたように、私は金星と火星、特に金星は地球とさほど変わらない惑星だと思っている。

厚いベールに包まれてはいるが、内部でそれなりの大気組成の調整ができて、順応できる算段がとれるなら、地球人類が快適に過ごせるだけの環境があると思っている(なお、空が地球のように青いのは火星のほう)。

もちろん、人格、容姿、科学技術力ともに、私達地球人類とは比べものにならないほど、はるかに進化した肉体をもった高度な人類がすでにいるとも思っている(アダムスキーの話ではありません。まったく違います)。

そうすると。

お前、何言っているんだよ、五井先生は、金星には霊体のような宇宙天使の存在(金星の長老さんだったかな?ちょっと忘れました。すみません)から教えを頂き、宇宙子波動生命物理学があり、これが完成されるようになっているとされているんじゃないのかよ、とお思いになる方がいるかもしれない。

詳しくは書かないが、宇宙子波動生命物理学というのは、そもそも存立そのものが難しいと考えられる。

なぜならば、人類に多大に貢献するであろう、革新的な新技術も、使い道によっては諸刃の剣になる可能性があるからだ(人格に問題があったり、悪意のある人間には決して使うことができない特別な制約がある技術ならば悪用の可能性は杞憂にしかならないのだが。もしもこうした悪用などの意図には関係なく誰にでも使えてしまう技術だとすると、現段階でのこの世の状況では、どうしても下記に示すような様々な問題が生じてくる可能性がある)。

もし、宇宙子波動生命物理学が万能な素晴らしい科学として完成すれば、特定の組織にこれを奪われてしまい、大変な事態になることが考えられる。

つまり、未発表となることで、結果的に日の目を見ないうちに自然消失の形にならざるを得なくなってしまう可能性がきわめて高いということです。

しかも、白光真宏会とはまったく関係のない、見たことも聞いたこともない不自然な組織からの特許申請を出されてしまうという顛末付きで(こうした点から見ても、地上天国化が果たされた暁には、既存の社会組織は全部解体して、抜本的な刷新をせざるを得なくなるのかもしれないな。なぜならば、地上天国化が成就した暁には、特許制度のような独善的・排他的な制度はなくなると考えられるからだ。従って、一部の悪意のある人間達に特許制度を盾に知的財産権を独占して特権的な利益をほしいままに享受され、悪用される心配もなくなるということ)。

小柄な元祖魔人ブウのような天下無敵の不死身な怪物といった特別な用心棒が付くか、特殊な情報の保持・保管のための防御体制が整えられていない限り、白光真宏会独自の宇宙子波動生命物理学としての情報の保全ができないと考えられる。

だから、そもそも、ノーベル賞総ざらい云々の前に、その発表すらできないままに、研究そのものが奪われてしまうのではないか、と考えられるのだ。

それに。

わかる人には、わかる話だが、そもそもノーベル賞って、本当に素晴らしいと、そんなに手放しで褒め称えてしまってもいい賞なんですか?

ノーベル賞って。

もちろん、受賞されてきた方の中には、長年、学問の研究や論文の制作に勤しみ、その生涯を捧げてきた真面目で立派な方もたくさんおられるのだろう。

でも、本当にそれだけですか?

だいぶ前に読んだ「ある日の五井先生」だったか、ネットだったか(ちょっと忘れました。すみません)では、五井先生の後継者の西園寺さんによると、宇宙子波動生命物理学は最終段階に入った云々書かれていたと思うけど、今はどうなっているんですかね?

もしも、こうした波動の科学で、病気でも何でも簡単に治せてしまうような、万能科学が完成されることになれば、今の社会の仕組みは、根底から変わることになる。

現に、白光真宏会とはまったくの無関係と思われる人の本でも、そうした内容の波動本が世間にはありますからね(江本勝さんの本じゃないですよ。 F さんという人の本です)。

しかし、仮にそのような状態(波動に関する科学技術により病気の治療と治癒)が可能になったとして、性善説で世界のみんなが協力的に動いて、理想的な社会がすぐに出来上がると思いますか?

残念ですが、私にはとてもそうは思えません(理由は省略)。

病気治しだけに限ってみても、仮に、世界のみんなが性善説で協力的に動いてくれるとしても、大変な混乱が予想されます。

なぜならば、すでに構築されているたくさんの社会制度にもとづく複雑な利害関係があり、これを一度にご破算にして、再構築するのは、大変な作業になると考えられるからです。

物の流れの面でも、お金の流れの面でも。

ご破算にせずに、今の仕組みを流用するにしても、やはり、再構築は不可避であり、大混乱は免れないと予想されます。

平和裡にコトがすすめば、それに越したことはないですが、果たして平和裡にコトがすすみますかね?

今仮定したのは、あくまでも性善説です。そうでないと考えた場合、つまり、現在の社会体制と医療制度が、そのまま続く、しかも旧来の医療関係者の人々に拒まれる場合が出てくれば、新しい治療法を部分的に導入するだけでも、さらに想像できないほどの大変な混乱と難儀が予想されます。

といったことをはじめとして、つらつらと考えてくると、・・・。

もう、宇宙子波動生命物理学を考えるのはやめよう。

もしも現時点で発表されていないとすれば、それが上記の私が考えたような事情(=何者かが完成された研究を奪いに来る可能性があること)のためなのかどうかはわからないが、それにしてもあまりにも時間がかかりすぎ。

なぜならば、五井先生ご存命の時に、 20 年先、 30 年先ではあまりに先のことで待ちきれない、とされていた(ある日の五井先生かネットより)からですよ。

五井先生がお亡くなりになられたのが、1980 年だから、今年でもう 43 年にもなるんです。

明らかに長すぎです。

いくら五井先生を信じるにしても、これではまるで狼少年みたいだと言われても仕方がないのではありませんか?

だって、中には病気で苦しんでいてそのうちに寿命が尽きてしまった方もおられるかもしれないし、そうでなくてもそうした科学により世界が平和になることを心待ちにしていた方が、たくさんいたと考えられるからです。

そうしたことに思いを巡らすと、長い時間がかかりすぎていることは、残念に思えてなりません。

だから・・・。

もう、宇宙子波動生命物理学を考えるのはやめてしまおう。

五井先生や白光真宏会に対して否定的な想い=業想念を抱かないためにも。

いずれ発表されることになるならそれでよし、発表されなくても、それでよし。

すべては神様のみ心次第と考えて執着しない。

ただただ、信仰として正しいと思われる道を目指し、あとのすべての成り行きは、神様の思し召し(おはからい)にお任せするしかない、と個人的に考えた訳なの。

神様は善なる存在であり、真善美に悖らず愛そのものの存在ととらえる限り、肉体人間の本質を神様の分けられたお命ととらえる、つまり、肉体人間の本質は霊なる人間=霊魂魄であるととらえる限り、世界平和の祈りは、間違いなく理に適っている。

そして、私達が肉体人間として抱いた想いは、原則として輪廻転生という生まれ変わりを通して巡るととらえる限り、その中で抱いてしまった真善美に悖り、愛に悖る、誤った想いに対する運命の修正という救済、いわばわずかな神様のお目こぼしは、守護の神霊様のお救いしかない、ととらえるならば、先の神様の存在の整合とも併せて考えると、信仰としてはこれしかない(つまり、引き寄せのように必然的に後々のツケ払いを伴わずに、因縁因果を超えていく方法はこれしかない)。

結果のいかんにかかわらず、どうせ信仰をするのなら、自分の良心に問うてみて、正しいものを奉じたい。

たとえ望むような結果が得られずとも、悔いのない信仰を選びたい。

既存の他の一般的な宗教に比べたら、理詰めで考える限り、はるかにいいものに思える。

このように考えて、世界平和の祈りをすすめてきた訳です。

何言ってるんだ、コイツは、と思われるでしょうね。

でも、霊感もほとんどなく、神様に何か教えて頂けるような特別なご縁のまったくない私が、理屈だけでたどり着いた結論は、上記のようにしかなりませんでした。

信仰をするならば、世の中の理が因縁因果に縛られているとするならば、世界人類の平和に一番適しているやり方がこれしかないと考えられるならば、世界平和の祈り一念の行き方しかない、と考えた訳です。

引き寄せで今生を元にした夢を強引にかなえても、いずれいつかはそのツケは回ってくる。

ツケを伴わない自由自在な想いをかなえるためには、霊性それ自体が、悟りを開くほどに開発されていなければならない、と考えられるからです。

となると、いまだ悟りを開くにはほど遠い、私達一般人に向けての穏当な結論としては、世界平和の祈り一念の行き方しかない、と考えた訳です。

世界平和の祈りは、何も白光真宏会に属さなくても、個人的にされている方が、巷にはそれなりにおられるようだし、白光真宏会に属さないからといって、世界平和の祈りの効果がなくなるとは思えない(しかも今の白光真宏会では、世界平和の祈りにはあまり重きが置かれないような状態になっているようだ。正確にはわからないけど)。

それは、霊感や波動を関知する能力がある巷におられる、そうした方々の話を見てもわかる。

つまり、世界平和の祈りは、私達が過去世をも含めて抱いてきた想いの世界の幽界を浄める効果が間違いなくあるということ。

私達の想いの集大成、つまり、私達、個人個人の過去世からの想いの集大成の総和が、この世のありように反映されるとするならば、私達肉体人間の抱いた想いの世界である幽界の浄めは、絶対にやった方がいい。

デジタル媒体全盛の今からすると、ちょっと古いたとえになるが、五井先生の本に出ていた、フィルム撮影した映画の上映話に例えると、原則としていずれ上映される完成されたフィルムが幽界に既に出来上がっていて、これが世を隔てて、この世に上映=あらわれてくることになる。

(原則として)過去世の想いを元にに作られて完成されているフィルムなら今生に、過去世も含めて今生までに作られたフィルムなら来世以降に、という形で上映がなされていく。

このフィルムの上映前に、そのフィルムの中で、主として悪い因縁としての部分を、その裁量の範囲内で編集(修正)して、助けて下さるのが、守護の神霊様方となっている。 だから、守護の神霊様方の事前のお救いはひとまず置いておいても、まずは想いを発する主体となる私達が、想いを出来る限り良いものとなるように整え、なるべく良いフィルムを作っておくことに越したことはない、ということになるのだ。

この世を滅ぼしたいという狂人ではない限り、この理は納得できるはずだ。

否、そうしなければ、この世のありようは好転させられない。

もちろん、世界平和の祈りをしなくても、世のため人のためを想い、良い想いを発して祈っておられる方々もたくさんおられることだろう。

しかし、肉体人間で構成された社会が、否、神様がおつくりになられた、ありとあらゆるものを調和させる祈りは、世界平和の祈りを置いて他にはない、と考えられるのだ。

まあ、言葉という表現内容からしても、「言葉は神なりき」や「言霊」といったものがあるからね。

これらの観点からしても、世界平和の祈りは、隙がない(まっとうの「まっと」に「完」という字をあてている以外は)。

それゆえ、世界平和の祈りをすすめている訳です。

(追記1)
今の時代は、本当にキツイと思う。

どう考えても不自然なことや、おかしなことが罷り通るようになってしまっているように見えるからだ。

神様は大難を少難で済ませて下さっている(悪いことがいっぺんに行かずじわじわとなっていることが救いと考えられるから)のかもしれないが、あまりにもおかしなことばかりが起きると、なかなか実感することは難しい。

この世が、あたかも、真綿で首を絞められていく恐怖劇場ではないか、というように思えてしまうことがあるからだ。

特に私のような極度の小心者は、どうしても不安や恐怖にさいなまれることになってしまう。

まあ、どのような行く末になるのかはわからないが、とにかく少しでもよくなるための努力だけはしておくべきだと考えます。

こうやって生かして頂いていることの神様への感謝も、そして、そのためのありとあらゆる周辺環境への恵みに対する神様への感謝も鑑みると。

五井先生のどの本だかは忘れてしまったが、
「神様、私達肉体人間では何事もなし得ません。
どうかよろしくお願い致します」
と世界平和の祈りとともに、置かれた立場でできる限り悪い想いを抱かないようにしながら、やっていくしかないでしょうね。

(追記2)
念のために、五井先生の提唱された世界平和の祈りの祈り言葉一式を挙げておく。また、特殊な漢字の読み方もあるので、読み仮名も併せて挙げておく。

世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます

なお、読み方は以下の通り。

せかいへいわのいのり

せかいじんるいがへいわでありますように
にっぽんがへいわでありますように
わたくしたちのてんめいがまっとうされますように
しゅごれいさまありがとうございます
しゃごじんさまありがとうございます