061_話02(モテと容姿談義)

私は幸か不幸か、非モテの気持ちと、ちょいモテ(?)の気持ちの、両方とがわかる。

非モテのつらさ、切なさも、痛いほどわかるし、ちょいモテの気持ちもわかる。

同性愛傾向がない非モテ男性の場合、思春期から青年期にかけて、恋愛の対象相手の女性がいない、そして、セックスする相手がいないのは、かなりつらいことになってしまうからだ。(*1)

他方、ちょいモテの方で言うと、ある意味、女性の気持ちに通じるような気がする。

基本的に受け身になってしまう。

恋愛については、せいぜい異性(女子・女性)の反応をうかがうことしかしなくなり、結果的に自分からは積極的に働きかけなくなる。

コイツ(ごめんね)はどうだ、コイツ(ごめんね)はどうだ、とかかわる異性(女子・女性)の反応をうかがう、変な癖が身につくと言えるかもしれない。

世界観が、男性特有の相対的なもの ( 世界が自分 ) から、女性特有の自己中心的な絶対的な世界観 ( 自分が世界 ) にいくぶん変わったような気がした。

高校生前くらいから、いろいろな経験があって、もしかしたら、自分はちょいモテなんじゃないか、と思わされるようになったからなんだけどね。

それまでは、まったくの非モテだと思い込んでいて、自分は男子として恋愛には縁がないのか・・・と半ばあきらめというか、さびしい気持ちを抱いていた。

もちろん、クラスには性格の良い女子もいて、普通に接してくれる良い子がいたが、勉強ができたり、スポーツができたり、のようなモテには縁がないと思っていた。

トロくて、勉強のできない自分には縁が無いんだろうな、と。

でもやっぱり、普通に接してもらうだけではなくて、モテたいんだよね、たとえ小中学生の子供時代でも。

だから、こうしたモテ要素がない自分は、女子にはまったく縁がない存在なのか・・・と落ち込んでいた。

しかし、高校のちょっと前くらいから、「もしかしたら?」と感じるようなことが増えはじめ、外で出くわすまったくの見ず知らずの赤の他人の女子や子供(女の子だけではなく男の子にもいた)に、あからさまにカッコいいと言われることが何回か出はじめたので、これは確信に変わった。(*2)

まあ、そうは言っても、そんな大したことはないんですけどね。

背は高め(昔は 181 cm ギリギリか微弱( 180.9 cm )、今は 180 cm 以下に縮んだ)かもしれないけれど、顔は大きいし、口やアゴは出気味で、おそらく E ラインに触れてしまうし、唇も厚め。(*3)

だから、とてもじゃないけど完璧とは言えない水準なの。

まあ、言って見れば、よくてクラスの二番手、三番手に何とか潜り込めるかどうかというところ。

ただ、このくらいでも、変な言い方かもしれないが、かかわる女子(女性)の反応を見るのが面白くなってきた。

でも、これ変だよ、やっぱり。

人間は老若男女問わず、誰しもがナルシストだけど、他人によって自らの外見的魅力度(?)をはかる、あるいは、確認することばかりに気をとられたら、ちっとも能動的じゃないもん。

まったく主体的とは言えなくなってしまう。

女性も自分から男性を積極的に好きになることはもちろんあるのだろうが、こうした自らの外見的な魅力度を確認する癖を本質的に持っているんじゃないのかな?

常に、自分の外見的魅力度が頭の中にあるという感じで。

だから、「自分が世界」という独特の世界観になる。

ともかく。

まあ、このおかしな感覚のせいで、自分から女性を自然に好きになることが、なくなってしまっているような気がしている。

ただ、自分はラッキーだなと思うのは、異性だけにしか特有の反応が見られないこと。

私は同性愛者ではないので、これは幸いだと思っている。

というのも、中学時代の同級生 U に大学生になって再会した時(彼は私とほぼ同じ身長。私とはちょっとタイプは違うが、彼も日本人的なやさしい顔をしていた。ただ、彼は私と違い小顔なので、よりスマートに見えたな)にこんな話を聞いたから。

彼はある都市を歩いていたら、まったくの見ず知らずのオカマの男性に言い寄られそうになって逃げ出したそうだ。

「お兄さん、イイ男ね、・・・」と言われて、彼は一目散に逃げ出して、逃げ切れたとのこと。

彼は同性愛者ではないので、すごく怖かったらしい。

私もしばらく後に、これに近いものを夢で見たことがあって、すごく怖いと感じたことがある。

同性愛者の人の気持ちはわからないが、そうでない(同性愛者ではない)場合は、怖いのですよ。

その点、自分は同性愛者の人からは、まったく魅力が感じられないようなので、これは自分にとっては幸いだと思っている。(以下、(*1)、(*2)、(*3) を挟んで下段に続く)。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(*1)まあ、こうした異性を求める強い性的な欲求は、何も男性ばかりとは限らず、女性にも相当なものがあるようだ(女性は「何よ、失礼ね」と認めたがらないかもしれないが)。

というのも、以前 ( おぶなより ) に書いたが、そうしたあからさまな本音を、他ならぬ女性自身の口からハッキリと聞いたことがあるからだ。

彼女は、当時、ごく普通の(すれていない)学生だったが、まわりの友達もみんなそうだと教えてくれたのでね。

彼女の話では、女子(女性)も、異性を求める性的な欲求は、男と同等か、それ以上と思われる内容だったよ。

(*2)実は、中 3 くらいから、自分の授業中での受け答えや振る舞いなどに、女子生徒がクスクス笑う反応などが時々出るようになってきた(私は、小学校・中学校・高等学校は公立、大学は私立ですべて男女共学校)。

高 1 になって、さらにこれが増えたので、変だなあ、いくら俺がトロいにしても、何がそんなにおかしいのかなあ、とはじめは意味がわからなかった(ただ、バカにしたり、軽蔑したりする雰囲気の笑いではないことだけはわかった)。

高 2 のとある日、学校の休み時間に、私が近くにいることに気づかず、 E という女子生徒が「 ○○君って、カッコいいわね 」と女子同士で話しているのを偶然聞いてしまった。

しかし、私は、それまでそんなことをまったく言われたことがなかった(もちろん、伝聞もない)ので、あまりにも意外だった。

それまで、そうしたことが他人事で、未経験だった私には、まさにキツネにつままれたような不思議な感覚だった。

ただ、後に他の O という男子生徒(背は 170 cm くらい)についても私に対しての時と同様に、「 O 君って、カッコいいわね 」と彼女達が話しているのを聞いたので、私の感覚からすると「 えー?、アイツがカッコいいのかよ? 」とあまり納得できないように思えた。

なーんだ、あの程度で「カッコいい」って言ってるのか、大したことないなあ(ゴメン)、それじゃあ、俺について言っていたのも何かの間違いか、その程度かよ、と最初は思っていた。

ただ、高 3 、そして大学にかけて、どうもそうかもしれないと感じる出来事が増えてきた。

それが、主として外で遭遇する見ず知らずの赤の他人の女子や子供の発する「カッコいい」という言葉だった。

実を言うと、自分としては、中 3 くらいから、あれ、ひょっとしたら俺はわりといい顔をしているのではないか、と思うようにはなってはいた(「すごく」ではなく「わりと」)。

鏡見れば自然にわかるもんね。

しかし、赤ちゃん時や幼少時はそれなりにかわいかった(子供時代によく祖母から、色が白くてほっぺたが赤くて本当にかわいかったなあ、といつも念仏のように(?)聞かされていたし、幼少時の写真を見ると確かにそれなりに見えた。実際、赤ちゃんの時に、電車の前の座席に座っていた見ず知らずのす若い女性達に、かわいい赤ちゃんねと言われて、自分の子ながら、母はとてもうれしかったと言っていた)が、小・中学校とまったく外見についての他人からの評価らしい評価をされたことかなかったので、半信半疑というか、ほとんど自信が持てなかったのよ(ただし、外人さん的なとんがった濃いめの容姿ではなくて、純日本的なやさしめの容姿)。

それを変えてくれたのが他人様だったという訳。

幼少時には、モテには縁がないと思い込んでいたこともあって、自分自身の判断だけではなかなか自信が持てない状態だった。

だから、赤の他人(女子や子供)から、はっきりと言われるようになってきたことで、ようやく自信が持てるようになってきた。

いくら大人の女性(親戚や他人。中高年まで含む)から直接に、「アンタ、女にモテるでしょ」とか、「きれいな顔してる」とか、「こんなハンサムなのにモテない訳ない」とか言われても、そのように言われた経験が、たったの数回しかない程度では(=つまり、もっと他人から恒常的に評価されていないと)、強い自信を持つまでには至らなかったのよ。

最初のうちは、自分の感覚に確信が持てずに、他人様の裏付けがある程度得られるまでは、特に高校の初期の頃はオドオドして手探りしていたような感じだった。

要は、自尊心がもろい状態だったの。

だから、ある意味で自己肯定感を持つことは大事なのかもしれないと思う。

自分は小学校時代に N という悪魔のようないじめっ子に長い間苦しめられ、容姿に対して悪い言葉を浴びせ続けられてきたせいで、あまり自信が持てなかったこともある(今考えると、N の方がよっぽどそうした悪い容姿をしていた、つまり、あべこべだったのだが、他人に対しては基本的におとなしく、言われたことを素直に受け取る子供だった自分は、長い間、自信を持てずにいる、という悪い影響を受けてしまった。祖母の言葉がなかったら、かすかな救いもなく、本当に自尊心はズタズタにされていたことと思う)。

自尊心は傷つきやすいものなので、あまり周囲がダメだ、ダメだ、と否定するのは妙な刷り込みで本人に誤解を与える場合があるので、(時と場合にもよるが)相手をひどく傷つける否定的なことを直接言うのは良くないことなんだな、してはいけないことなんだな、という 1 つの教訓になっている。

逆に言うと、小・中学校時代にクラスでモテていた男子を振り返ると、アイツら(ごめんね)はただちょっと勉強ができたり、運動神経が良いだけで、あまり容姿は大したことなかったな(ごめんね)、と思うようにもなってきた。

純粋に美的な感覚(?)からすると、さしてカッコいい訳でもなく(ごめんね)、さして美男子でもない(ごめんね)容姿レベルだったな、といった感じで。

つまり、自分の容姿の自覚と、他人の自分に対する容姿評価の裏付けが得られるようになってくると、それまでのモテ系の男子に対する評価にも疑問を抱くようになってきたの。

絶対的な美男子系に見える人間は別にして、元々、勉強やスポーツが出来たり、背が高かったりしてモテていた男子は、女子にモテるって、こんな感じなんだ、こんな感じの男子が女子にモテるんだ、くらいにしか思っていなかったから。

もちろん、本物の美男子系の男子もいるにはいたが、純粋(とはいっても、あくまでも「見た目」だけの形式的な純粋だけどね)に見ると、本物の美男子系の男子は、そうはいるものではないと改めてわかってきた。

中には、文句なしに美男子(名前は純粋な日本人なのだが、東欧人のように肌が抜けるような色白で、瞳もエメラルドグリーンがかった特殊な色をしていた)で、成績もよく(後で努力をしなくなったせいか成績は段々落ちていってしまったが)、運動神経も抜群なのに、どういう巡り合わせなのか、背があまり高くない( 170 cm 弱。166 cm か 167 cm くらい) A 1 (高校 1・2 年時代の級友で、名字が「あ」で始まる名字なので、 A 1 とする)という男子もいた。

あと、クラスにいた純粋な美男子系は、身長が 175 cm 弱の A 2 (これも「あ」で始まる名字なので、 A 2 とする)くらいだったかな。

俺は顔では彼らには及ばないと思っていたので、高校 1・2 年時代のクラスでは、純粋な美男子系は、この 2 人か、強いて挙げれば、もう一人( A 3 とする 。「あ」で始まる名字の 3 人目。 A 3 も身長は 175 cm 弱。どういう訳か「あ」で始まる名字に集中していた。実は、俺も「あ行」の名字。しかし、俺の顔が大きいと言った I ( (下記 *3)に書いた I のこと)にしろ、中学時代の同級生 U にしろ、E という女子にしろ、O にしろ、A 1 にしろ、A 2 にしろ、A 3 にしろ、俺にしろ、最低・最悪の凶悪人間の N 以外は、全部あ行の名字(ただし、同一名字はない)というのもほんと不思議)くらいだったかな。

そんな訳で、純粋な美男子系は、クラスに 2、3 人しかいなかった(ように俺には見えた)ので、そもそも美男子系の男子は、その絶対数自体があまり多くなかった(たまたまだったのかもしれないが。なお、クラス替え後の高 3 になるとこのクラス内での美男子の比率は、 2 人となり、高 1 ・2 の時と大体同じだった)。

だから、顔ちょっとマシ(?)で、背が高めの自分が、相対的に評価が上がる(?)ことになったのかもしれない。

まあ、背が高めということが、多分に顔や雰囲気(?)など、他の要素を補う形で、容姿全般の評価に優位に働いていた、ということなのかもしれないな。

(*3)実際、高校時代の級友(クラスメート)の男子 I に「◯◯は顔が大きいんだな」と言われたことがある(喧嘩腰や攻撃や嫌みの雰囲気はなかったので彼が何のつもりで言ったのかはわからない。もしかすると女子の何らかの私に対する好評価を聞いて多少の僻みの感情があったのかな?お前あんなに女子に評価されてても(おそらく I は、私のいないところで私の容姿に対するクラスの女子達の好評価を耳にしていたものと思われる)、顔が大きいじゃないかよ、と。ちなみに、 I は、顔は普通かそれ以上かな。ただし、顔の大きさは私よりもやや小さく標準といったところ。ただ、若さ故か肌がかなり大きなニキビでボコボコと荒れぎみだった。なお、腕力をはじめとして体力は底知れないものを持っていた(一時期彼と同じ運動部に入っていたからわかる)。彼も、私よりわずかに小さいかほぼ同じくらいの身長だった。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(以下、(*1)、(*2)、(*3) を挟んで上段からの続き)。

従って、逆もまた真なりで、級友(クラスメート)の男子でも、私の容姿をさして良くない(ちっとも良くない?)と思う者もいた。

高 3 の時に、私を気に入っているらしい Y さんという女子(この子は何となく、ちょっと中南米系というか、ブラジル(?)とのハーフ系に近いというか、クォーターか?という、肌色がやや小麦色っぽく、エキゾチックな感じのするくっきりとした顔立ちの可愛い子だった)に、「アイツ(私のこと)がいいの?」ときいている K という男子がいて、Y さんのうなずく返事に、「何で?」という感じで首をかしげている場面に出くわしたことがあるから。

K にとっては、その Y さんがなぜ私が良く見えるのか、不可解だったようだ。

ちなみに、その K の容姿は、身長は 171,2 cm くらいで、顔も含めてクラス内では普通か、ほんのちょっと下(?)といった感じだったかな(やや愛嬌のある感じのするお顔だったので、イケてるのとは違うと思った)。

まあ、異性の好みは人それぞれだし、こう言っては悪いが、世間一般で絶大な人気を誇り、イケメンとされるような人でも、「この人のどこがそんなにいいの?よく理解できないんだけど・・・」と感じることは確かにある。

だから、こうしたバラツキ現象(?)は、好みというか、人それぞれに固有の異なった審美眼がある、審美眼にも人によって多少の触れ幅がある、ということなのかもしれないな。

あと、 ( おぶなより ) で、性格に問題があり、あまり美しいとは言えない女性を X として、嫌な思いをさせられ、頭に来たことを書いたが、あれも多分、相性というか、彼女達( X 達 )にとっては私が良く見えなかったんだろう。

私に対する極度の好き避けという訳ではなくて、単に私が彼女達の好みに合わなかっただけだと思われる(はたまた、同族嫌悪(!)か?)。

それにしても、俺のワガママ(差別?)かもしれないが、際立った美人や超カワイイ女性ならいざ知らず(=あきらめがつくだろうが)、ああした人達にコケにされると、本当に無茶苦茶に腹が立つんだよな、何とも言いようがないくらいに。

辱しめを受けて、抱かされたドロドロとした彼女達に対する憎悪の感情が半端なものじゃなかったからだよ。

(小心者の俺には到底実行に移せないが)それこそ、張り倒すか、ぶん殴ってやりたいと思ったくらいだ(特に看護師の Y さんはね)。

後日、頻繁に尾を引くほどの気持ちの後遺症(=深い心の傷)が残るんだからね。

少なくとも俺の経験に限って言えば、美人やカワイイ人には、ああした X 達に見られたような性格や反応が最低・最悪な女性はいなかった。

見た目通りの好印象しか残っていない。

だから、自分の経験に限って言えば、「美人は性格が悪い」なんて俗言は、大ウソもいいところだ。

まったくのデタラメだ。

よくもまあ、あんな流言飛語を作り出したものだ、と思えるほど(とはいえ、理由はいくつか考えられなくもないが)。

何しろ、容姿と性格がキッチリ正比例する(?)という、正反対の事実を目の当たりにしたんだからね。(*4)

それも何回も。

不思議なことに、美人と X との容貌の較差も半端なものではなかったんだ(格差じゃないよ。あえて較差を使っている)。

まるで、絵本に出てくるおとぎ話か、と思われるほど、容姿と性格の対応がセットになって見事にわかれたのよ。

これが同じ人間(女性)か、と思えるほどに。

そういう意味では、美しい彼女達は天使(天女?)みたいに感じられたな。

特に Y さんに傷つけられた後の N さんは本当に救いだった。

救われた。

30 才前後と思われる、お世辞にも美しいとは言えない容貌の Y さんと、20 才ちょい過ぎと思われる美人の N さんとのあまりの対応の差に、驚かされた分、余計にね。

N さんは、元々若くて美人だが、さらに何割増(?)か華やかに見えた気がするから。

だから、まさに天使(天女?)。

あくまでも、個人的な経験にしか過ぎないけどね。

まあ、世間一般に、いくぶん見られるかもしれない容姿と性格の関連性ということです。(*5)

逆に(唯物論的に)言うと、X のような彼女達の、女性として、否、人としてのあるまじき頂けないありようは、彼女達がそれだけ家族を含む周囲や世間から、(おそらく幼少期から)自尊心をたくさん、たくさん傷つけられてきたことへの復讐というか、裏返しという側面があったのかもしれないな(根本的な原因は私と彼女達との間の過去世の因縁なんだろうけど)。

話を戻すと。

これとは反対というか、違う話になるが、高 3 の時、クラスにいた直前の席にいたあるチャラいモテ系の N という男子生徒(身長は 175 cm くらい)が、クラスのみんなが笑いに包まれた瞬間に、突然、私を振り向いてじっと顔を見つめ、「笑うとかわいい顔になるね」と言ったことがあった。

これも自分にとっては、何でモテ系の彼が、いきなり私にそんなことを言うのかサッパリわからず、戸惑ったことを覚えている。

これも、もしかしたら、女子達の私に対する何らかの評価を彼が知るところとなり、私のどこかいいのか、見たのかもしれない。

しかし、外見はともかく、真面目で、おとなしく、目立たない系の私が、いきなりモテ系の彼に顔を覗き込まれて、こんなことを言われた(しかも授業中)のだから、本当にビックリしたよ(だから、これは一体何なんだ?私が何か彼の気に障ることでもしたのかな?と、その時は私も彼の顔を覗き込んでしまった。この人は一体何を考えているんだろう?何の意図があってこんなことを言うのだろう?と)。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(*4)彼女達(美人やカワイイ女性)が、表層を取り繕う可能性はゼロとは言わない。

しかし、咄嗟の反応の場合は、そんなに取り繕うことはできないと思うのだ。

さらに言えば、彼女達が私の前で、良く思われようと、わざわざ善人を演じる可能性はまずないと判断している。

だから、彼女達の行動を素直に善意に解釈している。

(*5)考えてもみなよ。

世界の人口は、何十億人ってあるの。

その個人個人の過去世の因縁(=輪廻転生の繰り返しにより、生成された因縁)それ自体が、おそらくそもそも無尽蔵なの。

世界の人口は、これの何十億倍ですよ。

魂の分割と結合までをも含めて考えたら、過去世の生き方に深く影響を受けてしまう今生の性格の決めつけなんか無意味に等しいの。

「美人は性格が悪い」っていう、決めつけ自体が無意味なんだよ。

ナンセンス。

俺の経験からすると、

美人 = 性格も美しい(良い)
X = 性格も美しくない(良いとは言えない)

になるけどね。

こんなのは、個人的な経験にしか過ぎないし、サンプルが少なすぎて、とてもじゃないけど類型化なんてできやしない。

しかし、どんなにサンプルを増やしても同じこと。

サンプルを網羅することそれ自体が、そもそも絶対に不可能。

網羅できるのは、神様だけしかいない。

だから、不可能。

もっとも、神様がこんな意味のないことをするはずもないけどね。

当たり前ですよね。

だから、あるのは、あくまでも傾向だけ。

なので。

皆さん、お好きですね。

あれがこう、これがこう、と
「単純に決めつけること」
が、と思えてくるよ。

帰納 → 傾向 → (いつの間にか)絶対の真理

の三段論法(?)みたいな感じがするね。

単純明快な
「決めつけ」と「言い切り」
が大好きなのよね。

要は、
「単純なキャッチコピー」
をつくり、人々の耳目を集めて、
「話に花を咲かせたい」
ってことなんだろうけどさ。

美人= 性格も美しい(良い)
X = 性格も美しくない(良いとは言えない)

だの、

美人= 性格が悪い
X = 性格が良い(または悪くない)

なんて決めつけること自体が、そもそも、ナンセンスなんだよ。

ナンセンス。

今生の大半を決定づける生得的な性格も、成長とともに次第にあらわれてくる性格も、過去世の因縁にかなりの部分を規定され、その過去世の因縁そのものが、多種多様で無尽蔵なの。

あくまでも、生得的な容姿も才能も境遇も何もかも、人それぞれで、ケースバイケース。

だから、この地球上の人は、どんなに似ていても、誰 1 人として同じ人はいない。

どんなに似通っていたとしても、何から何まで完全に同一の人物というのは存在しない。

それはなぜ?

皆それぞれに意義があって、課題があって、わざわざ、この世に送り出されてきた存在だからでしょ。

なぜならば、私達が生まれてくるのも僥倖(仏教にもこの話がある)、しかも、勝手に生きているのではなく、生かされているのだから。(*5ー1)

それに、今生の様々な環境をも含めた要因の影響も加味されて、人生が展開されていくんでしょ。

だから、そもそも、そうした単純な類型化をすること自体に無理があるんだよ。

なんで決めつけたがるの?

ナンセンス。

抜本的な容姿の向上は、個人個人が霊性の開発とともに、輪廻転生を通して、辛抱強く良い想いと行いを積み重ねることによって、努力していくしかないだろうね。

なぜならば。

見目麗しい、美しい容姿は、その人の清らかな心にもとづいた、過去世における良き想いや行いが、反映されてあらわれたものとして、考えることができるからだ。

それがわかってさえいれば、あんなことができるはずがないのに、現実は・・・といった類いのことが世の中には起きてくる。

恵まれた生得的な条件をいいことに慢心をして、それまでの過去世の地道な積み重ねを台無しにして余りある行状に及んでしまう、霊性という観点から見れば、どうしようもなく愚かな、イケメンのヤリチンみたいな人間がその典型例。

だから、容姿も、健康も、何もかも、来世以降に向けて徳を積み重ねて、良き想いと行いをするに越したことはないし、本来はそうすべきだということ。

そして。

さらには、こうした打算をも超えて、ごくごく自然に、良き想いと行いができるように霊性の開発は必要だ、という結論になるの。

~~~~~

(*5ー1)この世に誕生したこと、そして、肉体人間という有機的生命体として生きていけるということは、神様のお命の働きかけがなければできないと考えられるからですよ。

よく考えてみてよ。

自分で生まれてくるのでもなく、自分で生きていくことができている(=肉体もあらかじめ与えられ五臓六腑をはじめとした生命活動を維持できている)のでもないことを。

仮定の話です。

今すぐ「生まれ直して来い」と言われて、自分の思うがままに、すなわち、思い通りの境遇下に、性別に、容姿に、才能を得て、生まれ直して来ることができますか?

できませんよね?

絶対に。

五臓六腑も、自らいちいち指揮をとって命令を下して動かしているものではない。

例えば、「心臓よ動け、できる限り規則的で正確な鼓動を刻め」と命令して動かしている訳ではありませんよね。

摩訶不思議な自然の力(=神様の分けられたお命の働きかけ)によって自然に動いている。

人間としての生命活動を維持するために、心臓として働いてくれている。

ということは、逆に天寿(=神様から授かった肉体人間の寿命)が来てしまったら、去りたくなくても、肉体を去らなければならない。

肉体の五臓六腑をはじめとするあらゆる器官を働かせて、肉体人間という有機的生命体たらしめている力の働きかけがなくなってしまえば、肉体はいわば脱け殻となってしまい、機能しなくなるということです。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(追記 1 )
これも、いつか書こうと思っていたけど、ついでだから、書いておく(似たような話はすでに書いてるけどね。ヤリチンやヤリマンの話 ( 012_気高い2 ) で)。

おわかりの人もいると思うが、今回のような否定語=「ナンセンス」を発するということは、大なり小なりで、これは自分にも返ってくるの。(*6)

谺(こだま)みたいなものかもしれないな。

しかも、私達、神様の分けられたお命を本質とする肉体人間にとっては、異質で好ましくない業想念という、ね。

「ナンセンス」という他者を貶める否定語を使えば、俺自身にもその報いは返ってくるの。

今流に言えば、まさにブーメランだね。

人様のことをナンセンスと謗れば、俺自身も人様からナンセンスと謗られることを免れない宿命を負うの。

つまり、結果的に自分で自分を攻撃しているようなもんだね。

俺も、他ならぬ俺自身を傷つけているのさ。

だから、真善美に悖る否定言葉とも言うべきこうした否定語は、ダメなの。

アホ、バカ、グズをはじめ、みんなそう。

よく考えてみて下さい。

アホ、バカ、グズをはじめとした世の中にある、ありとあらゆる否定語(ネガティブな言葉)は、こうした宿命を内包しているんです。

例外はありませんね。(*7)

だから、使いたくなっても、ぐっとこらえ、神様におすがりして、何とかして頂くしかないね。

祈りに効き目がないと思われようが何だろうが、おすがりするしかないんだから。 

過去世の因縁が果たされて完結するか、守護の神霊さんに浄めて消して頂けるもの以外のすべての真善美に悖る想いと行いの業想念は、輪廻転生を通して巡ることになる。

ダンマパダ(法句経)にある通り。

繰り返します。

アホ、バカ、クズなどの否定語の使用をはじめとして、批判や非難、恨み言などは、すべて真善美に悖る想いと行いの業想念です。

どんなに、批判が的を射ていようとも、そうでなくても、他者否定につながる言説は、業想念なのです。

ダンマパダ(法句経)にあるように、輪廻転生を通した悪い因縁因果の循環が止むことはありません。

いつまで経っても、どこまで行っても、グルグルグルグル回っている。

輪廻転生を通して。

嫌でしょ、こんなの。

それでも正当な批判をすると言うのならば、自らも神様につながる他者を否定する=悪い因縁を背負う、という覚悟と挺身がなければなりません。

「悪い因縁を背負う覚悟と挺身」が絶対に必要になるんですよ?

「正しいのはワシだけじゃい、アイツらは間違っとるんじゃ、オラァ」とはならないんです。

それだけでは済まない。

無罪放免とはならない。

そんなご都合主義は通用しない。

どんな聖者とされる者であろうとも、この世に肉体人間として生を受けた以上、これは変わりません。

神様が善なる存在であり、因縁因果の法則が、輪廻転生を通して万人(霊魂魄)に公平に機能するならば、聖者とされる者でさえも、例外とはなり得ないからです。

おそらく、因縁因果の法則の唯一の例外は、ある程度、その業想念を浄めて救わなければつぶれてしまう、霊性の未開発な私達に対する、守護の神霊さんの業想念の浄めによる救済となる運命の修正だけです。

神様のお目こぼし(?)は、おそらく、これだけしかない。

この世に、生を受けることが、基本的に私達自身の霊魂魄を磨き上げるための修行であり、不幸や災難に満ち満ちている(?)のは、こうした点からもよくわかる。

業想念は、

主体として自らの神性を汚し、

客体としての他者の神性を汚す、

からです。

神様の分けられたお命を頂く者として、
行為の主体として、
自らの神性を汚し、

他方、相手方があれば、

相手方
=神様の分けられたお命を頂く他者
=当方の行為の客体となる相手方

の神性を汚す、

のですよ。

その覚悟もないのに、こうしたこともわからないのに、恨み言による批判や、謎の上から目線(?)による端っから論理破綻している批判のための批判は、頂けないものなのです。

因縁因果の法則が、宇宙万般に適用されるものならば、人間としては、その想いと行いを正しながら、良くしていくことしか、世の中やひいては(何らかの影響を及ぼすことになる)宇宙を良くするための選択肢はない、と言い切れます。

あとは、善なる神様を信じるか、否かにかかってくることなります。

これも当人の過去世からの因縁因果次第ですけどね。

~~~~~

(*6)正確に言うと、今回俺が「ナンセンス」と書いたことが、俺の何世か前の過去世で、周囲や世間の他人様から「お前は無意味だ、無意味なことをしている」と批判されたり、罵られた過去世の因縁のあらわれとしてのものか否かは、俺にはわからない。

俺としては、ただ感じたことを率直に書いているだけなので、この想いと行いが過去世の因縁にもとづく想いと行いなのか、今生から新たに生じさせた想いと行いなのかは、わからないのである。

俺には六神通のような神通力がないからだ。

従って、俺が今回、「ナンセンス」と感じて書いたことが、過去世の因縁によるものか、今生から新たに俺が言い出したものなのかはわからない。

過去世の因縁のあらわれならば、これで完結する可能性もあることになる。

しかし、神通力のない俺には、過去世の因縁のあらわれか、今生から作った因縁かがわからない以上は、とりあえず、真善美に悖る好ましくない人間の想いと行いの業想念は、過去世を原因とするものでも、今生から新たに発生させたものでも、どちらにしてもなくしていかなければならないものと考える。

新たに発生させた可能性がある以上は、過去世の因縁の完結はないものとして、保険をかける意味合い(?)も込めて消失させておくべきだ、ということ。

だから、業想念はなくさなければならない宿命がある、そうしなければ、いつまでも輪廻転生を通して循環してしまうことを前提に上記のように書いている。

強いて言えば・・・。

この世に起きてくることの大半、 8 割方が過去世の因縁のあらわれだとすれば、俺がナンセンスと書いたことも、過去世の因縁の可能性が高いことになるが、とにかく、神通力がなく、真実を確定できない以上は、業想念はいずれなくさなければならないものだから、なくす方向で行く、ということです。

(*7)なぜ、例外がないと考えられるのかについては、機会があれば書かせて頂きますよ。

大した内容ではないんだけど、いかんせん他の文章量が多くなりすぎたので、省くことにします。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(追記 2 ー 1 )
「美人は性格がいい」だの、「美人は性格が悪い」だの、と話題にして、話に花を咲かせたい気持ちも、実はわからなくはないんです(美人は男性の場合なら今でいうイケメン。本来なら美男子やハンサムの方が適切だと思うのだが、とりあえず今のご時世に合わせておく。イケメンはやっぱり軽々しくチャラい響きがあるからあまり適切には思えないけれど、まあ、仕方ないね)。

それは、以下の潜在的な動機が推定できるから。

「美人(イケメン)は性格がいい」っていうのは、見た目が秀でた人間は、それに見合うだけのものをそなえているはずだ、と半ば無意識に期待を抱くからですよね。

では、なぜそんな期待を抱くのか?

それは、私達の本質が神様の分けられたお命であり、元々の神体としては、それぞれに個性を持ちながらも、完全円満な人柄をそなえるだけではなく、美しくもあった、と無意識にわかっているからじゃないですか?

だから、容姿といった外見だけでなく、性格をはじめとしてその他の中身にも期待したがる。

しかし、肉体人間としてこの世に天下って、自己保存の本能を与えられ、たくさんの輪廻転生を繰り返すうちに、業想念を積んで、肉体人間としての有り様が多種多様で複雑多岐に分かれてしまった。

だから、言えるのは傾向のみになっている。

そういうことだと思いますよ。

あえて言うと・・・。

薄々感づいている人がいるかもしれないけれど、こうした容姿や性格や才能などに、こぞって類型化や決めつけをしたがる方がいるのは、回帰現象かもしれないですね。

回帰現象です。

何がって、元々はみんな神様の中で一つだったから、元帰りしたいという気持ちの。

奥の奥の潜在意識では、みんな良いものに元帰りしたい、と。

言い切りや類型化をして、自己主張をきわめて突出したいというよりも、その奥の奥では、本来の肉体人間というものは、神体を映したこうした良きものだったから、それに近づけた結論を出したい、と。

それがしたいがために、ついつい、容姿となる外見と中身をセットにして結論づけた話に持っていきたくなる。

そうした、潜在的な欲求があるんじゃないですかね。

つまり、容姿や中身の関連づけ談義をしたがるのは、肉体人間というものは、本来的に神体を映した素晴らしいものなんだ、そうであるべきなんだ、と言いたい気持ちが、話に花を咲かせたい欲求の根本的な動機と考えられる訳です。

美人(イケメン)は性格が悪いとか、
足りないところがあるとか、
あるいは、
X (男性もこれで代用する)は性格がいいとか
悪いとか、

なんてそんな話をしたいんじゃない。

これを話したいんじゃない。

肉体人間が容姿も性格も悪い場合がある、
なんていう話をしたいんじゃない。

本当は、
ただただ、ひたすら、
私達は元々は美しかったんだし、
素晴らしかったんだし、
肉体をまといながらも、
それを目指して早く進化をして近づきたい、
そうなりたい、
という潜在的ながらも切実な欲求が、
こうした話をする動機を
発動させる元になっている、と。

容姿談義をしたがる人達は、皆気づいていないかもしれないけれど、本当は、神様を求める心が、神様に対する憧憬が、意図せずとも心の奥底に流れている、と。

つまり、容姿談義をしたがる無意識の背景には、神様への元帰りと神様への憧憬を、読み取ることができる訳。

逆に言うと、これ以外のもの、例えば、動物の行動などを援用してこの話をしようとするのは、完全に明後日の方向を向いていることになる。

だから、神性を否定した浮気や不倫を肯定させたがる(=浮気や不倫を当然のものとして認めさせたがる)ような話になってしまう訳です。

神性に背く、すなわち、神様の分けられたお命を生きている肉体人間の、愛や真理に、まるっきり背く話をする仕義に相成ってしまう訳です。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(追記 2 ー 2 )
実体験にもとづいた話でも、相も変わらず物事の一面しか見ていない薄っぺらい話がある。

容姿が優れていることは、遺伝子が優れていることだから、内面も外面も整った超人が大企業に集まりやすいなどの話だ。

事実は小説より奇なり。

地球上の人間の過去世からの因縁因果は、無尽蔵と言ってもいいほどに限りなくたくさんあるんだから、当たり前だ。

現実には、どんなに美男美女とされる人間であろうが、人知れない苦しみに呻吟していることだってあるんだよ。

だから、巷になされている容姿談義は、ありきたりで話の底が浅いとしか感じられないんだ。

それに、美男美女に生まれついたからと、唯物論的な思考でやりたい放題好き勝手なことをする、例えば、イケメン男性が、何股もして、たくさんの女性を平気でヤリ捨てにするようなことをしていたら、詳しくは書かないが、本人にとっても、世の中にとっても、最低・最悪なことにしかならないんだ。

だから、人格(霊性、神性と言ってもいい)を無視した、物事の表面しか見ない容姿談義は頂けないんだよ。

~~~~~

・格差~かくさ~価格・資格・所得・等級などの差。
(用例)賃金格差。

・較差~かくさ~二つ以上のものを比較した時の相互の差。
(用例)気温の較差。

・無尽~むじん~①どこまでも終わりにならないこと。尽(つ)きないこと。
(用例)縦横無尽。
②(無尽講の略)一定数の組合員が互いに掛け金を出し合い、入札または抽選で、順番にまとまった金銭を融通する仕組み。頼母子(たのもし)講。

・無尽蔵~むじんぞう~いくら取っても尽きないこと。また、そのさま。
(用例)無尽蔵の資源。
(筆者注)本文では、人の輪廻転生がたくさんあるであろうことになぞらえてこの語を使った。

・ナンセンス~無意味であること。取り上げるに値しない、ばかげているさま。ノンセンス。
(用例)ナンセンスな話だ。

・耳目~じもく~①耳と目。
②聞くことと見ること。見聞。
(用例)耳目を広める。
③人々の注意・中目。
(用例)耳目をひく。耳目を驚かす。
ここでは、③の意。

・耳目となる~ある人の下について、見聞きしたことを残らず知らせ、補佐する。

・耳目を集める~人々の注目をひく。

・僥倖~ぎょうこう~偶然にめぐってくる幸せ。
(用例)僥倖にめぐまれる。

・慢心~まんしん~自分をえらいと思っていい気になること。おごりたかぶる心。
(用例)慢心が過ぎる。

・貶める~おとしめる~劣ったものとして扱う。見下げる。さげすむ。
(用例)人を貶めるような態度をとる。

・谺~こだま~山・谷などで音が反響して跳ね返ってくること。また、その声や音。やまびこ。
(用例)歌声が谺する。

・謗る~そしる~他人を悪く言って、おとしめる。非難する。誹謗する。
(用例)自らを省みず人を謗る。

・言説~げんせつ~考えや物事を言葉で説明すること。また、その言葉。
(用例)言説を弄する。

・挺身~ていしん~自ら進んで、犠牲的に事にあたること。
(用例)挺身隊(命懸けで重要な任務にあたる部隊)。

・目こぼし~①とがめて当然のことを大目に見ること。
(用例)お目こぼしを願います。
②見落とすこと。めこぼれ。
ここでは、①の意。

・万般~ばんぱん~いろいろの物事や方面。すべての事柄。百般。
(用例)万般にわたって。

~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~

(追記 3 )
おそらく、普通の感覚の持ち主の男性からすれば、今回私が書いたようなことは、何クダクダと自慢めいたことばかり書いていやがるんだコイツは、と思われる可能性が少なからずあると思う。

ただ、私はこんなことは書いたが、自分から高慢に振る舞ったり、世のカッコづけが大好きであろう人達とは、明らかに一線を画していました(?)よ。

だって、男性ファッションにもまったく興味がわかなかったし、そもそも、オシャレ自体が大っ嫌いだったから。

後年、最低限の清潔感に注意を払うようになったのもやむを得ずのことだった。

だから、世のカッコづけしたがる男性の気持ちがあまりよく理解できないの。

無論、好きでやるのは、個人の自由だから構わないけど、自分としてはやりたくないという気持ちがあったの。

これは、やっぱり信心深かった祖母の影響を無意識に受けていた側面があると思っている。

とある病院に家族が入院していた時に、お世話になっている 20 台半ばくらい?の理学療法士若い女性に、家族がたまたま私の若い頃( 中 3 くらい)の写真を見せたことがあって、その女性が「カッコいいんじゃないの?」と言った時に、私は反射的に、プルプルと首を横に振り、「とんでもない」という反応をしたことがあった。

だいたい、私の態度はこんなだったの。

自分でも、なぜだかわからないんだけど、容姿を鼻にかけたり、思い上がり気味の人達とは、異なった反応をすることが常だった。

小心者ゆえに、相手の気分を害さないように、努めて謙虚にするように気をつけていたせいもあったかもしれない。

おまけに、◯◯ちゃーんと女性のご機嫌をとったり、チヤホヤしたり、ということがまったくできない体質(?)だったの。

別に威張っていたり、高慢だった訳じゃないんですよ。

平身低頭とまではいかないが、遠慮気味のことが多かった。

ただ、周りがいくらチャラチャラした人(男子・男性)がいた場合でも、心の強烈なブレーキがかかるような感じで、そうした振る舞いや真似事がどうしてもできなかったの。

嫌悪感がわくというと言い過ぎになるかもしれないが、そうした気持ちにもなれなかったし、そうしたチャラチャラした行動をすること自体がどうしてもできなかった。

だから、順風満帆に、チョイモテ街道を邁進できた(?)ような世間一般の人達とは異なり、病気をはじめとした様々な紆余曲折を経たこと、祖母が信心深い人だったことや、自身が小心者なことなどの様々な要因が絡み合い、世間にありがちな自慢をする人とは、違う態度でいることがほとんどだったよ。

巷には、イケメンは出先で鏡を見て、カッコづけをして、悦に入っているナルシストだなんていう話もあるが、おしゃれも大っ嫌いで、男性ファッションにもまるっきり興味がない私には、そうした男性の気持ちがまったくと言っていいほどに理解できないんですよ。

確かに、そういった男性を街で見かけたことは何回かあるが、私の正直な感想を言わせてもらうと、「何だあ、ありゃあ」としか感じなかった。

だって、いくら自己陶酔して悦に入ってたって、肝心のモテに直結しなければ、意味ない(=つまんない)じゃん、くらいにしか思ってなかったから。

ワガママを言わせてもらえば、自分に課せられたのは、むしろ、茨の苦しい道。

だから、世の中にある決めつけ大好き談義、ことに単純きわまる容姿にもとづく性格その他の決めつけ談義は好きになれないのさ。

これを書いていて思い出した。

高校の時に好きな子(以下、 W さんとする。( ( 067_話08(儚い初恋) - おぶなより2 ) に書いた女子のこと)がいたのだが、その子が俺の 2 つ隣の席にいた時のこと。

「◯◯君(何となく◯◯くーんという感じに聞こえた)」と隣の A 2 という男子を飛び越えて、どういう訳か俺に声をかけてきてくれた(俺は内心嬉しくてそれこそ小躍りしたいくらいだった)ことがあったのだが、その A 2 が W さんに体を向けて「なあに?、なあに?」と言いやがった(笑)。

この A2 というのも、俺より少し背が小さめなくらい( 175 cm 弱)で、かなりの色白で女子に好まれるような一種の美男子系の男だったのだが、余計なことすんなよな(笑)。

彼女は、仮にも俺に声をかけてきてくれたんだぜ。

オメーじゃねえよ、俺なの。

あんたは素通りなの。

まあ、女性特有の A 2 に対する嫉妬煽りの可能性もゼロとは言わないが、それまでの彼女の俺に対するかかわりからすれば、好感を持っていた対象は間違いなく俺だぜ(彼女は別記のように普通の一般的な女子とは反応が違う子だったし、後から別経由で彼女の気持ちを知ったので裏付けは取れている)。

A 2 にしてみれば、よりによって自分を差し置いて、俺に声をかけてくることが、彼のプライドが許さないっていうことだったのかもね。

いいじゃねえかよ。

W さんにとっては俺の方が好みだったんだから、邪魔すんなよな(笑)。

そもそも、あんたには別に女子のファンがたくさんいそうなんだからさ(俺には N さんや Y さんなどをはじめとして、クラスに何人かいるように見えた)。

そんなに欲張るなよな(笑)。

チャラ系の人間は、真面目系人間の領域を侵すんじゃないよ(笑)。

大体、世の中の一般的なモテ男達には、謙虚さというものが決定的に足りないよな(例外がないとは言わない)。

謙虚さたって、女性やその周辺、そして、女性にモテるためのうわべだけのペラッペラの謙虚さのことじゃないぜ。

その場しのぎ(?)やご都合主義の付け焼き刃の謙虚さでもなく、かといって俺のようなビクビクした臆病さからくる謙虚さでもない。

女性を攻略しようと周辺から攻めるつもりで、
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」
ばりに、女性の周辺の家族や友人から大事にしようなんて序の口だよ。

まだまだ浅い。

そもそも、こんなのは目的が功利的で、動機が不純だからダメだ(笑)。

行為自体に部分的に真理が含まれていても、肝心要の元となる想いが、あくまでも女性獲得にあるからだ。

不完全(不健全?)もいいところ。

そうではなくて、目指すべきは、ちょっとやそっとの感情では決して揺らぐことのない、地に足のついた謙虚さのことだよ。

女性獲得みたいな功利的=不純(?)な根本動機は度外視して、万人、極端に言えば、自分にとって嫌な人間(=過去世の悪い因縁を果たすために今生で巡り会った自分にとってはつらく厳しい相手)にさえも通用する謙虚さでなければダメだ。

つまり、老若男女、あらゆる人の中に、神性があることを見いだし、これを根本に据えた、他人を敬い、尽くすための謙虚さのことだ。

いわば、霊性の開発を伴ってこそ、そなわってくる謙虚さだ。

チャラチャラして、モテることを主眼に据えた軽佻浮薄な謙虚さとは訳が違うんだ。

だから、表向きは、さも謙虚そうに見えても、モテに関係しない時の実際の態度や行動が違う。

チヤホヤされると、すぐにつけ上がって傲慢になりがち。

モテたら、ほどほど(?)で手を打ちゃあいいのに、もっともっとで女を求める欲望に際限がない男が多いんだからさ。

こんなうわべだけの見せかけのような薄っぺらい謙虚さが、本当の人としてふさわしい謙虚さ、神性にもとづく謙虚さと言えるのかい?

だって、過去の歴史上の人物を例に見るまでもなく、現代でさえも、容姿にあぐらをかいたイケメン達然り、財力や権力にあぐらをかいた男達然り、なんだからさ。

転輪聖王ってのは、歴史上の天然記念物に過ぎないのかよ、と言いたくなるくらいだよ。

この一事からしても、こうしたモテ男達は、いかに霊性の開発に遠いか、の証左みたいなもんだよね。

話がそれた。

確か(うろ覚えで自信がない)、

「人の恋路を邪魔する奴は、豆腐の角に頭を打って死んでしまえ」

みたいな言葉もあるんだぜ(まあ、豆腐の角に頭を打ちつけても死ぬことは絶対にあり得ないから、要は「せっかくの人様の恋愛の邪魔をするような無粋な真似はするな、黙ってほほえましく見守ってやれ」くらいの意味なのかな?)。

モテる人間(= A 2 のこと)は、そんなに欲張るんじゃないの!

わかった?

なお。

俺はゴブチのような傲慢・侮蔑・嘲笑のような想いが込められた言動を決してしないように、皆様に何度も注意を促してきたつもりだが、今回の (笑) は嘲笑には当たらない(=苦笑いといった感じかな)ので使っている。

(笑) は一般的には嘲笑などの意味合いで使われることが多いから、そうした使い方は絶対にしないように、ブログを書く場合にももちろん気をつけている。