114_心構え3

( 110_心構え - おぶなより2 ) と ( 113_心構え2 - おぶなより2 ) の続き。

私は上記 2 つで、ブログを書くために個人的に考える心構えなどについて書いた。

無論、書いたのには、それなりの理由もあった。

ただ、その理由を、わざわざ言わなくてもわかるだろう、言外にわかるだろう、としておくのはやめて、やはり、はっきりと書いておくことにする。

もちろん、輪廻転生を通した様々な人生の中で、文章作成という作業に努めることは、別に物書きになるか否かにかかわりなく、何らかの形でこれを活かす機会は、あらゆる場面にある訳だから、文章表現という意思疎通の手段の錬成は、それなりに価値があることには何ら変わりはない。

ただ、今、とりあえずこのようなブログを書く心構えについて書いた理由は、それなりに記しておくべきだろうな、と考え直した訳なの。

大したことじゃないと思われるかもしれないが、言わないでおくのは、何か隠し事をしているような気もして、よくないと考えたのでね。

というのは、以前、自分のこともあって、この ( おぶなより2 ) を書き始めた時に、アクセスの少ないブログなどに関して、ネットでいろいろ調べた時に見かけた、とある事実を思い出したから。

それは、ネットのブログなどの記事が、SEO( 検索エンジン最適化 )対策のような工夫が施されることがかなり一般化されてしまったせいで、その内容が相応に画一化されてしまい、そうした内容の記事ばかりが Google 検索での上位を独占するようになってしまったために、なかなか探したい目当ての記事にたどり着くことができなくなってしまっている現状について書かれた記事を見たのを思い出したからだ。

わかりやすい極端な言い方をさせてもらうと、サイトを見てもらいたいがために、尖った個性的な内容を極力避けて、検索の上位に表示されるための条件を網羅した(Google のサイトの順位づけの処理のアルゴリズムから見て(?))優等生的なものが増えて、内容が平準化されたものが増えてきてしまった、ということ。

そのために、こうした優等生的ではない、普通に書かれたサイト(?)は検索上位からは外されてしまい、埋没したような形になってしまっているということだ。

ブログのアクセスに関した話ではなく、別のことだったが、実際、私も以前自分と似たような境遇の人の体験談を知りたくてネットを検索しても、出ている体験談自体がきわめて少なかった上に、しかも、その中でもほとんど納得できる話を見つけられなかったということがあった。

これは、ある程度、特殊なケースだったのかもしれないが、そうした平準化の影響は、やはり、多少なりともあったと思う。

以前書いたように ( 004_孤独 - おぶなより2 ) 、私達一人一人は、どんなに近しい、たとえ親子のような肉親であっても、もちろん、双子であっても、逐一同じ考えを持つことは絶対にないし、性格も必ず異なる。

似る部分があるのは、せいぜい、傾向と言ったところくらい。

容姿が瓜二つに近くても、性格が異なるし、性格がかなり似ていても、容姿が必ず異なる。

要は、肉体人間の本質である、霊魂魄である神様の分けられたお命に、それぞれに個性があるということであり、それまでに輪廻転生を通して経験してきているたくさんの過去世がそれぞれに異なっている、ゆえに、肉体人間としてのこの世でのあらわれ方もそれを反映して異なっているということなのだ(しかも、魂の分割と結合があるから話がさらにややこしくなる)。

私達は、それぞれに、異なる天命を授けられてこの世に生を受けている。

そして、それぞれに、それなりに果たすべき過去世の因縁があるからこそ、この世に送り出されているし、生きてもいける(=生かされている)。(*)

であるならば、それを最大限に反映させて、活かしていくようにすれば、各々に与えられた個性も、自ずとそれなりにあらわれたものが、文章なら文章として作り出せるはずだ、と考えられるのですよ。

もちろん、私達のほとんどは、悟りには程遠いから、「他人に認められたい」という渇望にも似た承認欲求が根強くあり(これが、はてなさんのブログならば、アクセス数、読者数、はてなブックマーク数、はてなスター数などを気にすることにつながるのだろう)、金を稼ぎたいという欲求もかなり強い。

これはやむを得ないだろう。

しかし、いくら GoogleGoogleコアアルゴリズムアップデート( Googleが検索アルゴリズムを見直して検索結果を大幅に改善するためのアップデート )をして、検索結果の集約化を避けるための対策(?)を施しても、ユーザー側がまたこれに対応した傾向と対策を帰納的に研究して、読まれるための工夫をしてくれば、いたちごっこになるんじゃないのかな?

神様のみ心に完全に適うものにたどり着くまでは、唯物論では安心・安定の安穏をもたらす結果にたどり着くことはできない、と思われるからだ。

私は、難しいこともわからないし、嫌いなので、ならば、各自が元々そなえている個性を素直に発揮させて文章を書いてもらい、神様のみ心に沿うようにして、あとの成り行きは、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行とともに自然に任せる(というか守護の神霊さんにお任せする)のがいいのではないのかな、と考えた。

唯物論でいくら策を弄しても、なかなか難しいこともある(=過去世からの厳然とした因縁因果の壁があるからどんなにあがいて(?)もそれなりにしかならない限界がある)し、私達の終局的な目標は、やはり、輪廻転生を通した霊性の開発にあると考えられるので、真っ正直なやり方が、回り道のように見えながら、実は、一番無難であり、輪廻転生を通した霊魂魄の成長には一番適っているのではないかな、と考えた訳です。

それがこの心構えと題する、一連の話を書いた主な理由です。

マーケティングを無視するなど、言語道断もはなはだしい、とお怒りになる方もおられるかもしれない。

何バカなこと言ってるんだ、と鼻先でせせら笑う人もいるかもしれない。

ただ、何せ、この業想念が渦巻いている世の中なんでね。

はじめは善意の集まり(?)のように情報発信がなされていたはずの(?)インターネットも、欲得が絡んでくると、結局はこのような欲得最優先のものに占拠されて、公平さが保てなくなるという・・・。

だから、そんな状況に合わせようと、無理に無理を重ねるよりも、無理を感じる人には違う道がある、ということなんですよ。

~~~~~

(*)私達は生きたいとして生きているのではありません。

だから、死にたくなくても(神様から与えられた)寿命が尽きてしまえばこの世を去らなければなりません。身内など近しい人間の生死の不思議を目の当たりにすると、嫌でもこのように考えざるを得なくなります。

どんなに医療措置を施してもらっても、どうにもならない場合があるからです。

五臓六腑をはじめとする、この肉体を構成する身体のあらゆる器官が生命活動を維持するために、有機的に働いているのは、なにがしかの不思議な力の働きかけがあってこそ、生きていくことができている。

だから、睡眠時も休みなく生命活動は維持されている訳です。

この生かされている元は何かと考えた時に、神様しか思い当たるものがないんですよ。

だから、動物も肉体人間も、本体の命(動物は魂魄、肉体人間は霊魂魄)の働きかけがなくなって、肉体から離れてしまうと、生命活動が維持できなくなると考えられるのです。

動物や肉体人間の命が抜けて残された肉体は、やがて干からびていき、物質に帰してしまう。

だから、私達の生死は、(身勝手な自殺などを除き)他動的になっている、従って、私達は生きているのではなくて、何らかの力によって生かされていると考えられるのです。

この世に送り出されてくるのも、何らかの(正の?)力の働きかけであり、成長していくのも何らかの(正の?)力の働きかけであり、衰退していくのも何らかの(負の?)力働きかけであり、肉体人間としての寿命が(補助があっても無くても)尽きてしまうのも何らかの(負の?)力の働きかけである。

「これらの何らかの(正や?負の?)力の働きかけは何なのか」と考えた時に、思い当たるのが、絶対者である神様しか思い当たらなかった訳です。