154_集積( 147_お天道様 の補足 )

・隔世~かくせい~時代や世代が隔(へだ)たっていること。
(用例)隔世の感~時代がすっかり移り変わったという感慨。

・感慨~かんがい~物事を身に沁(し)みて感じること。深く心に感じ思いに浸(ひた)ること。
(用例)感慨にふける。感慨も一入(ひとしお)であった。

・一入~ひとしお~①染め物を一回汁に漬けること。
②ひときわ。一層。
(用例)一入身に沁みる。感慨も一入だ。
ここでは、②の意。

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隔世。

世を隔てる。

私達は、輪廻転生、すなわち、生まれ変わりはしても、(原則として)それまでの過去世(前世、前々世、前々々世、・・・)の記憶はない。

生まれ変わりのたびに、(原則として)直前(まで)の過去世の記憶は消し去られてしまうからだ。

 ( 147_お天道様 - おぶなより2 ) を書いている時に、何でこんな理不尽な不幸が起こるんだとか、または、俺はこんな真面目に正当な努力をしているのに、ちっとも報われない、こんなので公正な目で自分を見てくれて評価してくれるお天道様なんかいるもんか、のように書いている文章をネットでチラホラと見かけた。

努力が報わない場合は、さしづめ、俺はこんなに真面目に生きているのに、さらには努力をしているのに、ちっとも誰も何も評価をしてくれない、お天道様が見ていてくれるなら、少しくらい報いがあったっていいじゃないか、それなのに、何にも報いなんかありゃしない。

むしろ、大して努力をしていないかのように見える他人が、自分よりも生得的に優位な条件に生まれついているだけてはなくて、かなりの報いがあり、恵まれていい思いをしている。

こんな不平等や不条理があるのに、何で世の中に、公正に人間を見てくれていて(評価してくれるはずの)お天道様なんかあるものか、そんなものはデタラメだ、と言いたいのだろう。

要は、少しでもいい環境に生まれついて、さらにはいい報いが欲しかったんだね。

そうした潜在的な欲求がまったく叶えられないから、お天道様批判、ひいては神様批判が出てくる訳だから。

つまり、人間は平等であり、その行いについては公正な評価がなされるべきだ、と暗黙のうちに前提を設けているんだね。

さらに、そこには、お天道様というか、神様は人間を正しく平等に扱い、それなりに報いをもたらすべき存在だと、これまた、暗黙のうちにしっかりと仮定を(無意識に)設けているんだよな。

しかし、このように単純に考えてみた場合、この世の中は、到底、納得できないような、デタラメきわまる不平等・不条理・不均衡に満ち満ちている。

生まれつく環境から、容姿や能力という生得的な条件から、不思議なことに、誰一人として、何一つ完璧な同一条件ということはない(双子などでさえも見た目はほぼ同じながら、完全同一人格ということはない。むしろ、かなり、違っている)。

お天道様、ひいては神様が公正で、人間を平等に扱うのなら、何でこの世にはこんなデタラメばかりがはびこっているのか、おかしいじゃないか、と思っているのだろう。

確かに、人生 1 回こっきり、生まれ変わりなんかない、とすればこう思うのも無理はない。

そもそもからして、大多数の人が原則として過去世の記憶がない、すなわち、生まれ変わりを肯定できない(=生まれ変わりを心身ともに感得できない)のだから。

あの世も、この世も、何もない。

所詮、すべての世界はカオスであり、デタラメに満ち満ちた、公正とは程遠い不条理な世界だと投げやりになる方が、生まれ変わりが万人に納得できるように証明できていない現段階では、理にかなっているというか、ごく自然に思えるからだ。

この世なんて、公正でもなければ、そもそも、そういった公正さを作り出すはずの、善なる神様なんかはいない。

だから、本人の才能や資質や努力に関係なく、一定の条件を満たさなければ上位出世ができない、どこを向いているのかわからない官僚制、そういった方達の遊び場となっている芸能界隈、ブラック企業、各種の詐欺犯罪、その他諸々、はっきり言って、悪が栄え、コネとカネと力を持つ者がやりたい放題にわが物顔に振る舞い、しかも恬として恥じず、吸血鬼のように、おとなしく従順で善なる真面目な人々の力とお金を吸い上げ、支配しているように見えなくもないからだ。

ここで、お天道様、ひいては神様を信じるか否かで、道がわかれることになる。

ここで、お天道様、ひいては神様を肯定できない人は、そもそも、なぜ、こんな不平や不満を抱くのかな?

やはり、上述のように、暗黙のうちに、お天道様、ひいては神様が公正で、人間を平等に扱う存在だ、そうした善なる者がお天道様であり、神様であると仮定しているからだよね。

そもそも、神様が悪魔(?)のように、デタラメで、人間が苦しむのを見て楽しむサディストのような存在であるならば、こうしたお天道様、ひいては「神様はあくまでも善なる存在だ」と暗黙に仮定すること自体が、お門違いということになるからさ。

神様そのもの自体が、このように意地悪で、性悪な存在だということになるんだからね。

もしくは、神様は公正で人間を平等に扱うつもりでも、力不足(?)で、それを満足にかなえることができず、この世がこのようになってしまっているとしか、考えようがないことになる。

だから、お天道様、ひいては神様を信じたい、信じる以上は、輪廻転生、すなわち、生まれ変わりを通じて、人間というか、その本質の魂(=霊魂魄)の平等さが保たれるような仕組みになっていると考えざるを得なくなってくるんですね。

ここから先は、信じるか否かの問題、もっと言えば、その人、その人の過去世においてなしてきた想いと行いの積み重ねの有り様=過去世の因縁、に帰着する問題ということになる。

つまり、その人が過去世で、何らかの真善美に適った霊的な修行や、真善美に適った想いと行いをたくさん積み重ねていれば、各自に元々そなわっている、その深層の神意識に通じて、自然と神様を信じる、すなわち、輪廻転生、生まれ変わりを信じるようになっている、と考えられる訳なの。

もしくは、この世で、悩み苦しみ、神様を求めて、結果的に真善美に適った霊的な修行をしたことと同じように、神様を信じる気持ちになっていくようになっていると考えられる訳なの。

つまり、隔世を通じた生まれ変わりを信じるか否かも、過去世から今生までをも含めた、真善美に適った想いと行いの集積(実績かな?)によっていることになるのよね。

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(追記)
( 147_お天道様 - おぶなより2 ) をよく読んで頂ければわかると思うけど、本当の自分自身=神様の分けられたお命=分霊(わけみたま)=霊魂魄も、肉体人間として生きてきた間のことは何もかも細大漏らさずわかっているし、記録媒体(?)となる想いの体である幽体にも、肉体人間として生きてきた間のことは同じく何もかもが記録されてしまう。

もちろん、守護霊様にも、守護神様にも細大漏らさずすべては筒抜け。

真面目に生きれば、つまり、真善美と愛に悖らない神様のみ心に適った想いと行いは、(原則として)来世以降に必ずそれなりの実を結ぶ。

それが、原因と結果、すなわち主として過去世(前世、前々世、・・・)を原因として、今生以降に結果があらわれている、そして、あらわれてくるのが結果。

これが因縁因果の法則。

ただし、私達のほとんどは、過去世の記憶を消されてこの世に生まれてくるから、今現在の想いと行いとは無関係にある境遇や起きてくることの原因はわからないことが大半になる訳。

過去世の記憶を何とかたぐりたくても、今現在の状態と、真善美と愛に悖らない神様のみ心に適った状態との落差から、過去世であったことを逆算・類推するしか、私達にはやりようがない。

術がない。

これが完璧にわかるのは、六神通をそなえるか、宿命通をそなえて、過去世を読み取る能力が必要。

単なる霊感だけでは、信頼性がかなり落ちるからだ。

だから、逆算・類推すらできない場合には、残念ながら過去世でどのような想いと行いがあって、今生このようになっているのかがわからず、苦しむことになる ( 185_前世療法 - おぶなより2 )。